音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

クラシック素人がメシアンの『音楽言語の技法』を読んでみたー独自論創造症候群4

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第13章

付加6度と付加増4度について触れられています。 これらのテンションの活用は、付加リズムの概念に執着できたメシアンにとっては容易なことだったでしょう。

 

付加6度について(6th)

ラモーが予想し、ショパンやワーグナーが用いた(またマスネーやシャブリエに代表される容易で軽快な気質を持った多数の作曲家がこれを用いたのは付加6度がいかに自然であるかの証である!)。

 

付加増4度(#11th)について

極めて鋭敏な耳はこの嬰へ音を低音ハ音の共鳴音の中に聴き取ることができる。

 

したがってこの嬰へ音は付加6度をすでに備えた完全和音への付加音符として扱うことが許される。

これも既知のポイントですが、自然倍音列に(ここでいう「共鳴音」)の中には6th音は現れません。メシアンはそこで数々の偉大な作曲家が使っているから6thは用いるべき素材だ、と述べています。

しかし#11thは自然倍音の中にあるからこれは使えるのだ、的な発想で軽くスルーされています。そして6th音にとっての付加6度として利用可能である、という論理に展開します。

この辺り、あれれ??と思うかもしれません。#11thを用いる根拠が自然倍音なら付加6度は何に根拠を置くのか?です。大作曲家が用いたから、というのであれば、

"偉大な政治家は皆贈収賄を行った、だから贈収賄はすべきことなのだ"

となります。 音楽の場合いかに問題行動を起こしても犯罪にはなりません。

偉大な作曲家が用いたからそれが正しい、とするなら、それは彼らの慣習の歴史を正当化することであり自然倍音にあるかどうかは関係なくなります。

 

これを解決するのも独自論的思考です。

音楽に絶対的理論を掲げようとすると、性癖が邪魔します。最後は好き/嫌いの価値観で音を決定してしまうからです。そして自分の好き/嫌いを立証するために理論の解釈自体も平気で曲げてしまい、曲げたことに気が付きません。そして曲げたとしてもあんまり世間的影響がありません。

音楽方法論に普遍性を与えようと思うとノイローゼになってしまう人は、ぜひ「これは独自論であり、私にしか通じない」と言える勇気を持ってください笑。

 

ここでも、メシアンが#11thを聞いて美しいと感じるのは、 自然倍音が原因ではなく、メシアンの音楽慣習や音楽経験が彼の脳にもたらした"好き嫌いの結果"であり、 それを自身が自然倍音に基づくと信じることによって固められていった、と考えるわけです。

そんなことは皆わかっているし、このような論理の展開は偉大な作曲家が宣った微笑ましい言説と思うだけです。

論理的に考えようとするとユルユルになってしまうけど、ゆるゆるになってもメシアンの音楽の緻密さと素晴らしさは変わるものではありません。何らかの根拠など示す必要はないんです。ただ、本人はそう信じて力作を作り上げた現実があるので、"パフォーマンス"として述べていただく必要があります。

 

逆にここから「自然倍音こそ重要だ」と思いすぎず、また「 この論理を破綻しているからメシアンは嘘つきだ」などと思わず、ただ「あーメシアンもここ説明するのに困ったろうなぁ」と思えばいいだけです。

納得できる理由が頭の中に生まれると、人はそれを信じます。このブログで私がこれを「独自論的な思考だ」などと生意気を言って自分を信じさせていることも同じことです。

しかしそれが信念になり、表現の独創性を生み、行動力の原動力になります。誰かに押し付けなければ、これほど行動がスムーズに流れる存在もありません。独自論万歳。

 

実際にこの章や次の章ではメシアンがいかにこれらの音を自然倍音的に用いていったかが解説されてゆきます。彼がそれをそう信じていたからそこまで邁進できたのだと思います。

 

真実で、唯一の、生来の官能的愛らしさ、旋律が欲し、旋律から生じ、旋律に前存し、連綿と内包され、その至現を待ち望む和声。

 

メシアンは自然和音=自然倍音で生まれる和音、をこう称えます。また「和声における妖精的な華麗さに秘めた私の思い」と自分の和音に対する欲望を述べ、それらの"和音の沸騰"が自然和音によって「必然的に濾過」されなければならない、と述べています。

自分の和音に対する執着を自然和音が濾過してくれる、と言いたいのでしょうか。

 

あとは「これは私の独自論だが」「私が偏愛するからだが」と申し述べてゆけば丸く収まります。そして学習者は学習者自身の独自論を展開す流ために参考にすれば良いだけです。

 

これらの音楽感覚の脳と科学による脳にとっての正当性や裏付けはこれから研究されます。しかしまだ何も証明されていませんので、現状では「独自論だ」と述べ、作品制作に邁進しよう、というわけです。その理由を普遍的に証明しようとして人生疲れてしまった方は、ぜひ独自論的思考で頑張ってください。

 

肝心なメシアンの用例をここでは列挙するべきでしょうが、あえて割愛します。私には専門的すぎますし、たかだか130ページほどの冊子ですので、ぜひお手にとって用例を見てみてください(ちょっと高いけど私がみても名著だとわかります)。

 

第14章

ここでは自然倍音を第十六倍音まで用いて和音化して、連結したりする例、4度和音の考え方、下方共鳴=下方倍音?的な要素を自身の曲に使った、とされる事例が紹介されています。

 

時の終わりを告げる天使の為のヴォカリーズ

https://youtu.be/SBFOwHLYj70?t=188

こちらの3:08ぐらいからの最低音のレとソは「下方共鳴だ」としています。

 

https://youtu.be/SBFOwHLYj70?t=221

同曲、この静かなピアノの"和音の房"を「ブルー・オレンジ色をした和音の穏やかな滝」と称しています。

 

また「和声的連祷=HARMONIC LITANY、Harmonies litanique」と呼んでいる方法を紹介しておきます。

これは私の理解ですが、下記のような譜例を作ってみました。

トップノートが同じ音組みを繰り返し、下に鳴る和音が少しずつ変わります。

こうした旋律の心象をメシアンは"虹の錯綜の色彩"と呼んでいます。

 

もっとわかりやすく書くと、

例えば、e音がトップで固定されて、和音が次々と変わっていくようなハーモナイズのニュアンスを指すと理解しました。

 

というブログで言うところの

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③旋律音含有和音的な置き方と言えばいいでしょうか。

または

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こちらで紹介したような和音の付け方の展開と言えます。

さらにメシアンはこれらをリズム的に呼応させたり、付加リズムをつけたり、移高の限られた旋法の音を巧みに使い混ぜるなどして、オリジナリティを高めていたようです。

 

不定調な和音の連鎖が持つ「何とも言えない、名前がつけられない連結感」に対して、メシアンは"虹のような"と表現を用いているあたりがさすがです。

実際にそう感じていないと、それをよし、と思わないからです。

独自論的欲求が駆動するのも、こうした自然と湧いてしまう風景をどのように自分で咀嚼し、自分の表現に応用する勇気があるかが問われます。

 

第15章

この章ではメシアン自身による和声外音(保続音、刺繍音、経過音、倚音)の利用についての考えが記されています。

またグレゴリオ聖歌のリズムモデル、「アルシス(Arsis)=弱拍 →テージス(Thesis)=強拍」の流れの定義に起源を持つ、

アナクルーズ(Anacrouse)=弱起、緊張/集中、不安、期待、アクセントの前に用意される音 → 

アクセント(Accent)力点 →

デジナンス(Désinence)=解放、弛緩、安定、満足

についても触れています。用語があまり馴染みがなかったので細かく書きましたが、要はコード進行でいうところのT-D-Tのリズム的な世界観を指します。緊張と弛緩の繰り返しの流れを指します。

これらの「どこが緊張で、どこが弛緩か」も伝統的常識は固まっているにせよ、独自の判断が含まれるので、ここでは割愛します。ぜひ原書をお取りください。

 

<参考>

http://chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/2201/1/48-1-1C-25.pdf

http://chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.jstage.jst.go.jp/article/jmes/5/0/5_11/_pdf/-char/ja

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