音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

『音楽と心の科学史』読書感想文〜不定調性論の接点

西田先生らによる最新作を手に入れました。

ここに書くのはあくまで私の感想であり、不定調性論を知っている人が、正研究史と音楽と心象論の位置づけを探る読書感想文です。

休日にちょっとした音楽学会に参加していろんな発表を聞いた気分になれる本、です。

 

心理学との関わりを掘り下げる本書にとって最も関わりが深いのは、感情に関する議論であろう。なぜ私たちは「悲しい」「嬉しい」といった感情にまつわる言葉を用いて、音楽を記述するだろうか。音楽を聴いて悲しくなったり、嬉しくなったりするからだろうか。それとも、音楽それ自体が、「悲しい」や「うれしい」と表現したくなるような質を持っているからだろうか。

(中略)

しかし近年では、研究数は少ないものの、「言葉にすることの難しさ」をGTTMを用いて認知科学的に解明しようとした研究、レナード・マイヤーの「期待」を取り上げて心の仕組みに迫った研究、 ユージン・ナームやデイビット・ヒューロンなどの「期待」の理論を通じて、「期待」それ自体を詳しく論じた研究など、哲学の問題を音楽の観点から論じようとする研究者も増えてきている。

私が興味深かったのは、この音楽知覚に哲学を用いた田邉健太郎氏の第五章でした。

実際不定調性論も、期待や言葉にならない知覚を用いて音楽を制作するために整備された方法論です。言葉を用いないためには動機を正確に再現できるトレーニングが必要です。そのために最初は言葉や理論や方法論にがんじがらめになって、もがく日々もあります。こういうと元も子もないのですが、多くの音楽家が自分のぼんやりとしたイメージを具現化する血の滲むトレーニングをしています。その過程でなんとなく匂いを感じ取れるようになるだけです。でも確かな状態になるわけではありません(そう見せる人もいますが)。

それを音楽が心理学に介入することで簡単にできるようになる、と思ってはいけないと感じます。

説明できるようにはなりますが、できないんです。それをやり極めない限り。

 

最後はこう結ばれています。

理論や分析を読んで自分の抱いていた疑問が解決したと感じたり、新たな聴き方を知って楽しみが増えたりする経験が、本章の探求を駆動する動機となっている。

(中略)

第一に、人はなぜ音楽について語りたがるのか、

(中略)

理論や分析を通じて他者に自分の聴き方を伝えたい、 音楽の(私が知っている)真価を伝えたい、音楽について思いを共有したい、と言う願いが存在している。そして、音楽の趣味に関して大きな対立が生じたり、聴き方の相違をめぐって傷ついたりと、このコミュニケーションは単なる情報の伝達には収まらない側面もあるだろう。

第二に、心理学などの自然科学の成果を積極的に取り入れる姿勢が、デベリスをはじめとした近年の分析美学の議論には顕著である。こうした態度は「自然化されたnaturalized」と名付けられており、分析哲学に全体に当てはまる傾向でもある。だが、そうした姿勢である限り、自然科学以外になぜ哲学のアプローチが必要となるのか、積極的な理由が必要となるだろう。

 

「自然科学以外になぜ哲学のアプローチが必要となるのか」についてはこのブログでも違った形で述べています。

現代科学が解明できていない観点でも、人が日常、意識的/無意識的に確かに感じている「実感」があり、人はそれを哲学、という分野で語ることができます。

不定調性論では、そうした哲学と科学が割り切ることのできない「人の心象」を「音楽的なクオリア」と言う一語にまとめて、それをある意味では便利なブラックボックスとして用いています。医療用の麻酔が、なぜ体に作用するかよくわからない、が今それを使わなければ人命が救えないから今は用いる、のと同様、音楽家には科学で解明できていない「意識」を用いて音楽表現を今まさに構築しなければなりません。

科学は物理現象の外部からの観測、哲学は意識現象の内部からの観測です。

 

本書の1番最後の源河亨(げんかとおる)氏のコラムでは次のような記述もあります。

しかし、現代の哲学では積極的に科学の知見を取り入れた研究が行われている。こうした研究方針は「哲学的自然主義」と呼ばれるものである。さらにいえば、自然主義はむしろ伝統的な哲学のあり方である。

 

現代の研究が進むにつれて、哲学が以前よりも「心という存在が実はもっと曖昧なもの」かもしれない、という反省が組み込まれてきた、そうです。

是非科学を取り入れた哲学、哲学を取り入れた科学で心と意識の存在を解明いただきたいです。

 

だから、音楽制作の現場でAさんはaという手法を推し、Bさんはbという手法を主張したとき、「なんでお前はその手法を推すのか」という問いに、ビジネス的には、さまざまな根拠を言うこともできますが、究極は、そう考えた理由は、

「自分がそう判断するような人間として育てられ、そう考えるような環境で生活し、そう考えるような努力を自分がしてきたからであり、真の理由を突き止めることは現状の科学ではできない」

と答えねばなりません。

だから不定調性論は、この答えのない感覚を頼りに作る方法論としてリリースしました。あとは研究者たちの研究を参考にしながら、この「音楽的なクオリア」というブラックボックスのプログラムを書き換えてゆきたいところです。

 

こうした議論はAIなどの総合知によって瞬く間に解決する日が来るかもしれません。

医療、物理、科学、さまざまな分野に精通しないとわからない答えだけが現在人類が割り出せていない、とすると、それを解決するのはAIでしょう。

 

また、同章にヴィトゲンシュタインの「として見る」の考え方を音楽に当てはめている言説も大変面白かったです。

例えば、複雑な和音だと思っていたのが、ある日アッパーストラクチャートライアドで考えるとD△/C△だった、と解釈できることを学ぶのは快感です。

見方、考え方を知ると突然わかる!と感じて悦ぶのは脳の性質です。真実かどうかは関係なく。

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スターウォーズが日本の時代劇からヒントを得た要素がたくさんある、と知った時のなるほど!感とか半端なかったですし、『ユージュアル・サスペクツ』や『シックスセンス』などで後からネタを知った時のなるほど!快感もたまらなかったと思います。

あれは真実を知った、というよりも「として見る」ことで見えてくる別の側面を知る喜びに打ち震えているだけです。世界の事実を見ている訳でも、何か重要な真実を見つけたわけでもありません。脳の喜びを楽しんでいるだけです。

音楽理論学習においても、勉強というより、こうしたハロー効果/アハ体験的快感を得たくて勉強してしまっている場合があるでしょう。

音楽分析や語りたがりを主張する時も、承認欲求や自己の健全性の誇示のために行われる場合もあるでしょう。自分もそうだったからわかります。これが言える自分凄い見て見て!!という主張は恥ずかしいですが、でかい家を買う、高いスポーツカーを買う、だから俺すごい!というのと基本的には変わりません。人間としては自然なアピールです。鶴のダンスと同じです。

こうした欲求と快感と、音楽学の学習の真意をごっちゃにしてしまうんです。

音階の学習や、コード進行パターンの学習などを、ヴィトゲンシュタインがいう「アスペクト(見方、見え方)」として考えると、それは見え方の楽しさを学んだのであって、音楽の真実を見つけたのではありません。この辺をやってる時脳が喜ぶので楽しいのですが、いざステージに立って演奏するとき、その場で作ってくれ、と言われて作る時、それらの知識は役に立ちません。

 

「音楽理論の勉強」を、こうした"アスペクトの喜び効果"を体験したくて学ぶ学び方から入るのは結構ですが、それだけで終わると以前の私のように「コード進行だけ分析してわかった気になる」人間になってしまいます。

勉強してわかることがあり、

経験してわかることがあり、

大失敗してわかることがあり、

長くやってわかることがあり、

死ぬ間際にわかることがあり、

と、「わかること」を追い求めていると、ただ分からなかったことをひたすら後悔し死んでしまうのではないでしょうか。

 

こうした知覚についての第五章の言説は初心者でもわかりやすく、同書は、この章から始めたらよかったのでは??とか勝手に思ったほどでしたすみません。

 

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不定調性論ではこれらの音楽への解釈を「一時的な解釈」と表現しています。

もっと簡単に言えば「そのときはそう思った」です。

その後、色々考えて勉強した結果「こう思うようになった」となってもそれも新しい「一時的な解釈」です。

解釈は次の行動の動機や、指針を作ってくれますから有意義ですが、あくまで腹が減ったから何かを食べる、のと同様、「わかった」ことで満足する日は来ません。

音楽理論の勉強の挫折も、わからなくなった日に訪れます。

ステージに立って初めて、勉強が役に立たなかったことを知った時がっかりします。

 

わかった喜びや感動と「音楽を表現する技術」は全く違う学問です。

 

 

「解釈である」という観点は、同章でピーター・キヴィという哲学者の表現だ、として学びました。邦訳がないのでわかりませんが、田邊氏の文脈に基づいた記述です。

不定調性論の心象思想はピーター・キヴィの哲学に類似する、的に言えるのでしょうか。いや、それは私が考えることではないでしょう。

同書にはクオリアという言葉は出てきませんが、田邊氏が「このポストは赤く見える」と表現を書いています。

赤いポストは、人には赤く見えますが、犬はくすんだ色だと見えている、であればポストは赤い色をしている、と言えるだろうか??という話です。

こうしたことへの解も拙論は、哲学/脳科学を専門としている方に委ねています。

現場でプロデューサーが「最後のところちょっと忙しないから少しritしようか」というとき、哲学的に突っ込もうと思えばいくらでも突っ込めます。科学的に事実ではない点すらあるでしょう。商業的には、ritしたからダメだった、と批評されるかもしれません。しかし現場の人たちが、そうだなと思えば、そうだし、そうではない、と巧みに説得できたならそうではないのです。音楽表現は一時解釈の連続であり、それらの解釈が研ぎ澄まされるのは経験であったり、仲間との結束だったりします。一寸先は闇です。

 

私が独自論を推しているのは、社会的価値の存在を知った上で、個人がどう感じたかを確立できることが表現活動ではとても大切、と考えるからです。

最初は個人が未熟であれば、その心象が誤りである悔しさも経験します。

またプロモーションのために、長い相手に巻かれなければならない時もあります。

ただそれでも心の内で、自己主張することはできます。

自分なりに自分の考えを思うことはできます。

不定調性論では、そう思うことが答えであり、あとはどう扱うか、だけであることをわかって行動することのできる音との使い方を書いています。

 

自分の主張が世界で最も正しいと信じてしまうとテロしか起きません。

だから自分の考えが自分のみの考えであることを自覚してから色々と考えることが重要だと私は思うのです。一つの解釈しか存在しない考え方に固執すると大変です。

 

同章には哲学的な感じ方についていくつか考え方が記されていますが、それも結局そういった人の独自論だ、としてしまうと簡単です。

何を学んだとしても、最後は自分がその時どう思うか、常に体験し選択し続ける経験を積むしかありません。

 

音楽と心と聞いた時、皆が手っ取り早く知りたいのは、田邊氏が最初に述べたことを膨らませると、

・人はなんで、どのような仕組みで音楽に感動するのか、どうやったら人を感動させられるのか、その感情を高次にどう人生に活用するのか。

・なぜあの人と私は音楽で共感し合えるのか、あの人と喜びを共有するにはどうすればよいか。

・どうやったら自分もそんな感動的な音楽を作れるのか、それを教えるノウハウやスキルを簡潔に示せるか?

・楽器の練習同様、心と脳の練習によって音楽力は高められるのか?

・人が作る音楽、機械が作る音楽は心理学的な、脳科学的な観点から、この先どのような位置づけになっていくのか?

ということでしょう。

不定調性論は、これらの答えをハロー効果的に「学んだ末に答えが見つかる話」ではない、と仮定して心象を実践していく行動に重きを置いています。

不器用でも一生懸命音楽をやっていると「答え」ではなく「満足」が得られます。

脳は満足すれば良いのです。満足するのに答えを必要とはしません。

その満足を積み重ねると、他者にとって魅力的な表現ができるようになります。

理屈や知識ではなく、積み重ねた結果生まれる「表現」という世界です。

それを現代において音楽理論で説明するためには心理学や哲学が便利、というだけです。それは「ウサイン・ボルトの靴」です。靴だけ手に入れても自分の足が速くなるわけではありません。

 

こういうことを考えられたので、とても有意義な読書に感じました。

 

 

 

 

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その他の章にも簡単に触れておきます。

ご興味があれば是非お手にとって下さい。

 

音楽と様々な領域との関連性を網羅する考え方は、1897年グイード・アドラーによって「音楽学研究所」がウイーン大学に生まれたあたりから分類され体系化され分析され始めたようです。

 

「音楽心理学」タイトルの学術書が登場するのは、1930年代のこと(ベルリン大学教授音楽学者エルンスト・クルト『音楽心理学』1931)。

それ以前は「音心理学(シュトゥンプが作った語)」という名でヘルマン・フォン・ヘルムホルツとカール・シュトゥンプらが活躍した。

 

「音の知覚に関する最初の生理学的研究」=『音感覚論』ヘルムホルツ著(1863)。

"2つ以上の純音が同時に鳴り響いた際に、私たちがそれをどのように知覚するのか"などの研究が代表的ですね。

 

また拙論の色合いに近い研究としては、アメリカのケイト・ヘフナーの1930年代の研究が挙げられます。

"楽曲の持つ様々な要素を変化させつつ、それに適した感情を表す形容詞を被験者に選択させることで、音楽と感情の関係について考察した"

 

この頃には、心拍数や呼吸数、血圧、皮膚の電気的な抵抗などから音楽に対する感情的な反応が議論され始めたそうです。科学的ですね。

これらの研究は1990年代に認知心理学が登場して再び本格化します。

 

また50-70年代には、カナダのダニエル・バーラインの「最適複雑性モデル」=適度に複雑な楽曲が好まれることを示したモデル、などが登場します。

 

80年代には「音楽の心理学」という用語は「音楽認知」に置き換えられます。

 

代表的なものにフレッド・レアダールとレイ ・ジャッケンドフによる『調性音楽の生成論』 (1983年 Generative of Tonal Music=GTTM)などがあり、チョムスキーの言語学理論に依拠しつつ認知心理学の成果や、マイヤーのリズム理論などを参考にした音楽理論があるそうです。

 

P49にはその他20世紀の音楽心理学関連の人物相関図などが図になっており、これだけでこの本買う価値がある感じします。

 

 

しかし、音楽聴取が持つ心理的な機能は、国や文化によって異なっていると考えられる。 コラム① 社会の中の音楽と心理学 佐藤典子

当たり前ですが、こういった音楽聴取実験をまとめ、民族別に項目を変えた音楽聴取心理実験を全世界で行い、それらを統一し、人間にとっての音楽の役割について考える、というような作業は、壮大な実験であり、現状の世界情勢を考えれば到底成し得ません。

 

日本人に対する実験では音楽の役割について、「自己認識」「感情調節」「コミニケーション」「道具的活用」「身体性」「社会的距離調節」「慰め」などが抽出されたそうです。なんとなくわかります。

 

 

 

第1章では早速リーマンの不協和に対する考え方が紹介されていますが、リーマンは独自論的思考を作れる人ですから、自身の考えを巧みに一般化しようとする言説はテロのような危険性を持っていると感じました。

研究の中に、これは自分の考えだと述べづらいものを巧みに一般記述しようとしてしまう態度は、私を研究嫌いと言う方向に進ませました。研究者は無理して何でもかんでも一般化しようとしなくても良いとさえ思います。

しかしながらそうした強烈な個性を持つ研究家の独自論が文化を引っ張って、市民の意識を変え、常に新しい一般論を作って行く性質を持っていることも忘れてはなりませんし、 研究者はそれらを分析し、さらなる一般化に向けて一歩一歩進めていかなければならない労苦について国家は、もっと支援をいただきたい、人類の歴史記述という未来永劫残さなければならない作業を彼らはやっているのだ、とも思います。

 

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リーマンやシュトゥンプらが始めたのは「音の定義」です。2音の集まりについて長年議論していたわけです。そんなことをやっていたら一生でできることは限られてしまいます。

時間がないから、と早々の結論に辿り着いてしまう行動になってしまうのも残念です。

 

 

 

 

第二章では リヒャルト・ヴァラシェクのタクト論が語られています。このブログで言うとすると、最終的に下記の記事につながる話であると感じました。

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未開拓であった音楽と心理学と美学の分野が融合し発展する土壌を作り上げた話が活き活きと語られています。

 

 

 

第三章では心理学を援用しつつ日本音楽の科学的研究に着手した田辺尚雄について紹介されています。

田辺は「日本音楽の科学的研究」を遂行するにあたって、まずシュトゥンプに依拠しつつ、「日本音楽」の旋律にも協和性理論が機能すると主張することから始めたのである。

 

 

田辺の研究で、西洋の音階や和声と日本の音階の存在の違いを明確にし、その違いを求めるところから始めたという点で非常に有意義だと感じました。

P131などで述べられる、日本音楽の全音下、1音半下からの「導音的存在」については、

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ブルースなどが同様な構造を持つことなどの研究と類似する、という点で特筆すべきだな、と感じました。

 

 

 

 

第四章では、音楽心理学の本丸とも言える、ゲシュタルト心理学との関わりについて書かれています。

著名なダイアナ・ドイチェなどがゲシュタルト原理を用いて音楽知覚を考える記述から始まります。

私はこのドイチェあたりから、認知科学と音楽認知の本丸に組み込む本かと思っていました笑。

 

人間の知覚システムから、まとまった存在を集団と認知し、組織化して知覚/認知されるのがゲシュタルト原理の考え方で、音楽のフレーズもリズムも和声もそうした脳内システムの存在が原因で「音楽認知」事態が起こっているという発想です。

これも結局、その仕組みはどうあれ、そうした結果聴取した側がどのように感じ、それをどのように次の行動に生かすか、という問いと答えが無限の選択肢であるため、問題と課題を難しくしています。

その認知から、なぜ、そをよしとしぃ、なぜそれをそうしようと決定したか、そのためにはどうすればいいか、もっと良い選択の思考法があるのか?が知りたいわけです。

 

 

次にレナード・マイヤーズが紹介されています。

彼は、1956年の著書『音楽における情動と意味』の中で、音楽を聴く人のうちに情動(emotion)がどのようにして生じるのか、そのメカニズムを説明している。彼によれば、人は、音楽を聴いているとき、その音楽のその先どのように続いていくのかを予想あるいは期待しながら聞いており、その期待が外れると情動が生じるという。

(中略)

ワイヤーがそのための土台としたのが音楽の知覚であり、これを説明するゲシュタルト心理学であった。

 

 

しかしながら、これらの研究の行き着く先は、コラム3でも述べられている通り、統計的な音楽のデータ収集から生じられる旋律理論、知覚の慣習的経験のビックデータについて考えていくところに落ち着いてしまいます。

過去の音楽を元に、未来の音楽を作るというのはAI が行えばいいわけで、人間はさらに新しい何かを創造することを欲求するのではないでしょうか。

 

fep(自由エネルギー原理=free enargy priciple)では私たちの脳を予測器として捉え、予測的符号化と 能動的推論というふたつの仕組みで一般化する。予測的符号化とは感覚入力と予測の間に誤差が生じたときに、その誤差を使って予測モデルを修正するプロセスである。一方で能動的推論は、予測モデルを積極的に行動によって確認するプロセスである。音楽もこうした知覚の理論的枠組みの下で捉え直すことで、何が音楽として感じられるのか、と言う根源的な取り組みについて答えを示すことができるかもしれない。

まさに、この本を買ったときは、ここから最新の話が読むことができるのかと勘違いしてしまいました。歴史について紐解く本であることをすっかり忘れてしまい。

我々の興味はもうすでにそこを超えていることにある種のギャップを感じます。

脳はハナから答えをわかっていて(自分が感じることだから当然)、なぜそれが生じているかの機構がわからないから、それをどう扱うかを知りたいわけです。

その機構の解明を小さな実験の積み重ねで地道に行う研究者の姿を見たいわけではなかったりもして、なんだか申し訳ない気持ち。

 

 

 

 

=====

今ブルース進行でギターソロを弾いく時、

「今あなたが出した最初の音にしようと思った根拠はなんですか?」

という問いに答えて下さい。

不定調性論はこの問いへの回答の自在さを重視しました。

感じた根拠自体が実は脳のまやかしかもしれません。未熟すぎて他人と比較できないものかもしれません。

または根拠を明示することで承認を得たいがための承認欲求から生まれて信じ込んでいる根拠かもしれません。

だから、これらの科学的根拠や理由を紐解く研究者の方の仕事を待ちながら、変幻自在なクオリアを楽しむのが音楽屋の現状です。

そして一生その経験を積み重ねていくしかありません。

わからなさや不甲斐なさの中にある実感自体を感じるだけで本来満足で、そこに満足しながら音楽に取り組むと非常に肩の力が抜けます。

その過程で「音楽作品」という、誰も聞かないような産物ができる時もありますが、作品は「聴くもの」ではなく、勢いよく進もうとする作曲家の急なスリップによるタイア痕にすぎないのかもしれません。

言葉にするなら、

「自分がそう判断するような人間として育てられ、そう考えるような環境で生活し、そう考えるような努力を自分がしてきたからであり、真の理由を突き止めることは現状の科学ではできない」

と、または

「なんとなくだよ」

はほとんど同じ意味です。

 

 

 

 

 

冒頭の章から少し引用します。

 

音楽と科学の違い=真実と心象の違い

同書には、

数学は理性の音楽であり、音楽は感覚の数学である。

      ワイヤーシュトラース(19世紀のドイツの数学者)

とあります。

事実を見ようとするか、それとも感情で判断するか?

という意識の違いで、音楽表現や音楽分析に違いも出てくるでしょう。

最終的にはどちらがどうではなく、自分がどういう気質を持って音楽やりたいかを自分の意思で選択できれば良いと思います。

 

 

 

ピュタゴラスの協和と人の調和

最初の音と心象の研究はピュタゴラスの音の協和と人の調和を関連づける研究でしょう。

ここから協和することが神秘的で崇めるべき存在、となったかもしれません。

しかし現代においては不協和音にも開拓の要素を見つけ、そこに新たな表現を見つけなければならないので、協和する、ということ自体の意義が失われつつあるのかもしれません。

協和していることへの感じ方自体も進化させないとけない訳です。

協和音に対して「よく響く」という言い方だけで済ますのは、もはや適切ではありません。イケメンだけがイイ男、という小学生ですら、え?と言いそうな表現だからです。

 

 

 

 

 

最後に、自分が音楽と心象という話で一番しっくりきた本を挙げておきます。

ヘリゲル氏が師匠から得た数々の言葉の体現は、自分の日本人としての音楽の発現に近い、と感じました。

弓を放つのは自分ではなく「それ」が射るのである、という阿波師匠の教えは自分には適切すぎて、ぐうの音も出ませんでした。

音を即興的に置けるようになるためには委ねるとか考えるとかではなく、もっと別な精神状態で当たらなければ完遂できません。それができるようになるためには、ひたすらにそれを誠心誠意続けぶつかっていかなければ得られません。

脳のそうした機能は、ゾーンとか言われますが、解明されていないのですから。

 

 

いつ頃からか、不定調性論も「考えないで制作するための方法を考えた」方法論になりました。

ちょっと不恰好ですが、自分はここから自分の音楽と存在を追い込んでいきたいと思っております。

 

 

 

 

...といったことに興味が持て、意見が持てる書です。音楽と心の関係性の全ての歴史を網羅している書ではありませんが、不定調性論と心象の関係性と正史における専門家の考え方や方法論との関わりが少し整理できた気がしています。

ご興味のある方はぜひ『音楽と心の科学史』お手にとってみて下さい。