音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

クラシック素人がメシアンの「音楽言語の技法」を読んでみたー独自論創造症候群1

自分について語るのは常に危険があるものだ。それにもかかわらず私がこの小理論書の執筆を決意したのは、何人もの人たちが私を厳しく批判し、あるいは賞賛したが、いずれも常に的外れで、また私が意図しなかったことに対してであるのと、新しいものを希求する何人もの生徒たちが私の音楽言語について数々の質問をしたことによる。

 

本書を読むとよくわかるのが、メシアンが感じ扱っていた音楽の魅力を批評家側が同様に感じ取って批評する事はほぼ不可能であったのではないか、ということです。

そしてこの書があることによって決定的にメシアンの音楽に対する読解のベクトルを合わせることができる、大変有意義な方法論書である、と感じました。

 

音楽家がもっと自作について述べるべきだ、という意義もこの書から成り立つと感じます(何も語らず聴き手の読解に任せた方がうまくいくタイプの音楽もあります)。

 

 

第1章

音楽はひとつの言語であるから、私はまず旋律に語らせようとする。旋律は起点である。旋律は至高!であり、私のリズムと和声がいかに複雑になろうとも、これらの航跡に旋律を引きこむことは無い。

分かりやすくいうと、コード進行に引っ張られて(頼って)メロディ作りはしないよ、的な感じでしょうか。我々凡人にはなかなか難しい境地です。

 

私は昔からの和声と形式に関わる諸々の規則を捨てる事は無い。(中略)私の関心が固着する一点はまず不可能性への魅力である。私が求め続けるのは変彩する音楽、洗練された官能的喜びを聴覚が享受する音楽である。

 

 

ここで述べられているのは、「不可逆リズム」や「移行の限られた旋法」などが持つ、表現の限界性のことを「それ以上に展開できない不可能性」がもたらす存在そのものが作る理論性と表現力の限界が作る何らかのゴールに興味がある、と表現しているように捉えました。 ここが批評家が読み取れないだろう怪しい欲求です。

崇高で偉大な音楽家という思想人が、そんな際どい性癖丸出しの気質をベースに音楽を作っているなんて思いもよらないし、それならば宗教的に、または先鋭的に大きな思想が背景にある、と読み解きたくなることでしょう。

極めてプライベートで偏見の塊のような「独自思考」を真ん中に置く!とここで宣言しています。なんかすごく勇気づけられました。

 

<不可逆リズム>

逆から弾いても同じリズムになる存在です。楽譜で見ると分かりづらいかもですが、

DAWの一小節で見ると、左右対称であることがわかります。

後ろの音から弾いてもリズムは同じです。

 

こういう存在に「快」を感じても、なかなか表明しづらいものです。そしてそれを具現化することも難しいです。宗教的思想に全振りした時、こうした数理的欲求と思想的気高さをリンクさせ、自分を納得させるには、それなりの才能が必要だと感じます。

通例だと「え?自分こんなくだらんことが好きなん?大丈夫、こんな微妙なネタが好きで俺。」みたいに思って、それを方法論として昇華することを躊躇ったりするものです。そこを突き抜けられる人だけが独自論を作り上げるのかもしれません。

 

「不可能性」に興味があるという欲求(それを前文に書く)が、いかにも独自の方法論を作るんだ、という方向に全振りしていこう、という意気込みを感じるわけです。

 

このブログ記事が正統なメシアン分析/批評とは異なる観点から読書感想文を書いてしまうためにお叱りを受ける事は既に覚悟の上です。

そこに輪をかけて肝心なクラシック音楽への造形が皆無ですから、むしろ無視していただくぐらいがちょうど良いでしょう。

 

メシアン先生自身はどういう感覚を持って、ご自身の欲求と向き合っていたのでしょう。信教的感覚と思い込んだのでしょうか。それともそこと信教的目標は上手に切り分けられていたのでしょうか。この辺りは伝記をしっかり読み解かないと分かる気がしません。

 

それらの考察と内省を書くことで、今回の自分の読書感想文としたいと思います。

 

第2章

最初に登場するのはインドにおけるリズム「ラガヴァルダーナ」についての記述です。 13世紀のインドの理論家サールンガディヴァのリズムの一覧表などから着想を得て(ストラヴィンスキーがインドのリズム、シムハヴィクリディータから意識的、無意識的に引き出した??リズム手法= 2つのリズムの一方拡大または縮小させる方法)についての記述があります。

Śārṅgadeva - Wikipedia

Sangita Ratnakara - Wikipedia

ストラヴィンスキーの「春の祭典」において

16分休符1つ+16部音符二つの組み合わせ 〜

16分休符1つ+16部音符三つの組み合わせ 〜

16分休符1つ+16部音符一つの組み合わせ 〜

16分休符1つ+16部音符四つの組み合わせ

というように一方を固定(16分休符一つ)して、その後ろのリズムを自由に拡大縮小する変拍子的な旋律技法について触れています(付加音価=任意のリズムに付け加える短い音価)。

例えばですが、上記のように一つだけ固定されたパターンを配置し、その後ろに全く違うリズムが配置され、短くなったり長くなったりして拍子に関わらず配置します。

こうすることで拍子ではなく、一つの決められたリズムが起点となり、通例の拍節、小節音楽にはない、別の規則性、別の起点と思想が生まれます。

wikiリンクで少し触れていただければ、インド音楽のリズム感の特異性、またダンス音楽に対する造形、趣向が感じられます。アフリカのリズムも凝っていますが、インド音楽はもっと理知的に感じました。

気持ちのままにトランスする、というより、工夫する、慎重に創造する、という意識的貪欲さに溢れています。

 

インド映画のダンス/リズム趣向や「絵画化的意味としてのダンス画」も、ヒンズー教自体が持つ舞踊の意味合いはもちろん、彼らの古代壁画にすでに舞踏の図が描かれていたというインド音楽の伝統に対する趣向の反映、と考えても面白いです。

田畑や街中で踊る舞踊は仕事の労を労い、豊作や反映を祈願する日常行為のようです。

リズムを体で表現することは言語よりも、より古い肉体が発する表現こそが人の言語を超えた表現なのだ、というニュアンスで汲み取れます。

 

インド独特の多民族性、多言語性の中で共通に楽しめるのがダンスだから、なのだとか。躍る映画が世界中で受けているのに、いきなり踊らないインド映画に大金を注げない、という理由でひたすら躍る映画が作られている、ということもこのダンスへの情熱に拍車をかけているように感じました。結局ダンス好きなんですね。と。

Dance in India - Wikipedia

eiga.com

ここで大切なのは、伝統あるインド音楽の形式や美意識を用いたからといって、自分自身の音楽に美意識や伝統が生まれるわけではないと言う点です。

キリスト教の世界観を探究していたメシアンがインドのリズムに注目した理由がどのようなものであったかは分かりませんが、

「自分がやろうとしたこと、自分が興味を持ったアイディアを先人が先にやっていた事例」を見つけると興奮するものです。

 

不定調性ですと、ベルトチェンジの概念をネガティブハーモニーがやっていた、

とか、そういうのを発見して、その先人の先例が凄まじいものであったりすると、興奮します。

メシアンが触れたインドのリズムの緻密さと長い歴史はメシアン先生を卒倒させただろうな、と感じました。

 

繰り返しますが、インド音楽の伝統に由来して自分も作っている、と発信することがあなた自身の音楽に美的価値をまとわせられるわけではありません。しかし自分の性壁と同じことに美意識を持っていた文化が歴史の中にある、と言われると追ってみたくなるものです。学んで身につけるより、自分で発見した後にその類似性を学ぶとたまりません。

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