音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

クラシック素人がメシアンの『音楽言語の技法』を読んでみたー独自論創造症候群5

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第16章

移行の限られた旋法についての本章は、同書で最も長いページ数が割かれています。

鳥の声の音楽感覚を聞き取ってしまうメシアン独自の音楽感覚が、こうした限界性に対して、魅力を感じてしまう人物であった、という点がメシアン音楽に触れるヒントになります。

ただし性癖を明かしてしまうと、ジャンル分けされてしまい、「何だ、霊感で作ったわけではないのか、計算してるのか」と感じる人はメシアンを聞かなくなるかもしれません。良し悪しがあるのは致し方ないですね。これが最初にメシアンが述べた「自分について語るのは常に危険があるものだ」を指しているとしたら、なかなかもってさすが大作曲家。「実は楽譜読めないんです」と決して言わないか、言ってしまうか。それでその人の評価が色々変わったりします。

本人は変わらないので気にしなければいいのですが。なかなか難しいと感じる人もいるでしょう。

 

 

移行が限られた旋法は、同時にいくつもの調性(多調性なしの)の雰囲気の中にあるので、これらの調性のひとつに優位性を与えるか、調性的印象を揺れ動くままにするかは作曲者の自由である。

言うまでもなくここに不定調性的な意義が述べられています。「多調性」というのは伝統的西欧音楽を前提に生まれる調性感覚です。不定調性では「調という存在自体曖昧である」という視点も持つので、これを言い換えますと、

『移行が限られた旋法の利用によっては、西欧和声的な調性的雰囲気を醸し出す場合があり、それらの調性的ニュアンスを際立たせるか、その心象を揺れ動くままにするかは作曲者の自由である。』

となるかと思います。

こういった言い換え自体が方法論者側の自由なので、音楽家の曖昧な定義を個人的な意義において自分に当てはまる言葉に置き換えると、自分とその作曲家の距離感や、時代性の差異などを感じ取ることができます。それぞれの時代の、それぞれの音楽性の中で自身の音楽性を追求すれば良いだけです。

 

移行が限られた第1旋法= i ii iii iv# v# vi#  ホールトーンスケール

第1旋法は、それぞれが2個の音符で構成された6つのグループに分かれ、2回の移行が可能な全音音階である。クロード・ドビュッシー(『ペレアスとメリザンドに』おいて)と、その他のポール・デュカス(『アリアーヌと青ひげ』において)が、傑出した手法を駆使したので、もはや何も付け加える事は余地は無い。

 

移行が限られた、というのは、

例えばこの第1旋法ならCホールトーンスケールなら、

1。c d e f# g# a#

という構成音ですが、12平均律において、12のホールトーンスケールを作ってみると、

2。c# d# f g a b

3。d e f# g# a# c

4。d# f g a b c# 

5。e f# g# a# c d....

となっていきますが、それぞれ別の音階ができるように見えて、上記なら、

1。と3。と5。の音階の構成音は等しく、

2。と4。の音階は構成音が全く同じです。

 

このように、12の音階を作ろうとしても構成音が全く同じになってしまうことを「移行が限られている」と表現してみてください。

メジャースケールだとこういうことはありません。

1。c d e f g a b

2。c# d# e# f# g# a# b#

3。d e f# g a b c#

4。d# e# g g# a# b# d

・・・全く同じ構成音になることはありません。

ここに音階集合の数学的規則性、対称性の美が現れる、ことに美意識をメシアン先生は感じたわけです。

メシアンは「不可能性」と言いますが、一般人からすると「音楽の中に内在した数学的な美意識」に対する魅力、といった方がわかりやすいかもしれません。

この欲望が展開すると「音楽を数学的に考える」といった数理音楽理論的アプローチになっていくのでしょう。

 

 

移行が限られた第2旋法= i iib iiib iii iv# v vi viib  コンビネーション オヴ ディミニッシュスケール

II度から始まる第2旋法

i ii iiib iv vb ivb vi vii ホールハーフディミニッシュスケール(ファンクショナルディミニッシュスケール)

「夢の中のかすかな音」

Messiaen: Préludes - 5. Les sons impalpables du rêve - YouTube

「時の終わりを告げる天使のための虹の錯綜」

Messiaen: Quartet pour la fin du temps; 7 Fouillis d'arcs-en-ciel, pour l'Ange qui annonce la fin du - YouTube

「苦悩の鐘と告別の涙」

Messiaen: Préludes - 6. Cloches d'angoisse et larmes d'adieu - YouTube

などが使用例として譜例と共に挙げられています。

 

 

移行が限られた第3旋法= i ii iiib iii iv# v vib viib vii チェレプニン9noteスケール,シンメトリカルスケール(holdsworth)

この旋法は増五度の和音と同様、四回の移行が可能である。それぞれは4個の音符で構成されるシンメトリックな3つのグループに分かれる。これらの4音音列自体が、上方進行で全音1個と半音2個からなる3つの音程に分かれる。

「夢の中のかすかな音」

Messiaen: Préludes - 5. Les sons impalpables du rêve - YouTube

 

「時の終わりを告げる天使のためのヴォカリーズ」

https://youtu.be/h21-rcaUvNk?t=50

 

「水晶の典礼」

https://youtu.be/h21-rcaUvNk?t=1

 

「Poèmes pour Mi」ミのための詩

感謝の行為「I - Action de grâces」

https://youtu.be/l_InFMyiyn8?t=6

 

恐怖をいだく「IV - Épouvante」

https://youtu.be/l_InFMyiyn8?t=635

 

栄光の御体

香煙の天使「III L'ange aux parfums」

https://youtu.be/d_NGyXvyER4?t=602

 

などに部分的に用いられている、とのことで要所要所に譜例で解説されています。

 

 

移行が限られた第5旋法= i iib iv iv# v vii 

「Poèmes pour Mi」ミのための詩

かなえられた祈り VII Le Mystère de la Sainte-Trinité

https://youtu.be/d_NGyXvyER4?t=2779

 

 

 

移行が限られた第6旋法= i ii iii iv iv# v# vi# vii 

「夢の中のかすかな音」

Messiaen: Préludes - 5. Les sons impalpables du rêve - YouTube

 

主の降誕 I 聖母と幼な子

Messiaen: La Nativité - I. La vierge et l'enfant - YouTube

 

 

 

移行が限られた第7旋法= i iib ii iiib iv iv# v v# vi vii 

キリストの昇天 iv 父のみもとに帰るキリストの祈り

IV - Prière du Christ montant vers son Père

https://youtu.be/sXxHBSazWmE?t=1056

 

移行が限られた旋法が垂直方向に実施(移行)されるのに対して、不可逆リズムは水平方向に実施(逆行)される。つまり旋法が移行を続けていくと同じ音符 (異名同音)に回帰するので、ある数以上には移行できず、同様にリズムの音価の順序が右方向への順序と厳密に同じではないと、逆方向には読むことができない。旋法が移行できないのは、それが同時にいくつもの調ー多調性なしのーの旋法的雰囲気の中にあり、それ自体が小さな移行が含まれているからであり、リズムは逆行できないのは、それ自体に小さな逆行が含まれているからである。

旋法はシンメトリックなグループに分けることができ、リズムもまた同様であるが、リズムのグループは逆行でのシンメトリーである。

最後に、旋法が構成する各グループの最後の音符は、次のグループの最初の音符と常に共通であり、またリズムの各グループも共通の音価を中央に抱えている。このように両者には完全な類似性がある。

 

この1冊だけでメシアンの考え方を論じようとするのは甚だ性急ですが、この文章をメシアンの独自論に対する真骨頂と捉えると面白いと感じました。

 

私の関心が固着する一点はまず不可能性の魅力である。私が求め続けるのが変彩する音楽、洗練された官能的喜びを聴覚が享受する音楽である。この音楽は同時に崇高な感情(とりわけ、全てにおいて最も崇高な感情、神学と、カトリックの信徳の心理によって高揚された宗教的感情)も表現できなければならない。  

と第1章で述べています。

そこに示された回帰する現象や、統一感のある連続性の中に輪廻への憧れのような、巡る世界の統合性に対する魅力のようなものを感じました。人はそれぞれ違えども、根本は皆一つの存在だ、的な思想にも展開できます。

 

こうしたことに魅力を感じること自体に独自性があり、メシアンならではの表現に対する欲求が生まれたと感じました。

 

一般的な考え方で述べようとするとわかるかもしれません。

例えばハ長調とイ短調は同じ音階の中で作られる2つの色彩の違う調性です。 同じ音階なのに元の音が変わるだけでこれだけ雰囲気が変わってしまうことに皆さんは驚きますか?

ハ長調の音階を用いるだけで明るい気分も暗い気分も表現できることへの統一性、バランスのようなものに魅力を感じた、としたらそれは平均律音楽に対する魅力を感じていることを指すのではないでしょうか。

 

またハ長調とハ短調(同主調)、ハ長調とト長調(5度調) などにもそれなりの関係性を見いだせると思います。こうした関係性にあなたは興奮しますか?そういう人はメシアンの音楽にも興奮できると思います。

こうした関係性に魅力を感じる人であれば、メシアンがなぜ無調性を帯びた一見混沌とした音階の中に存在する規則性、不可能性に魅力を感じたかを感じ取れるかもしれないからです。

 

大惨劇を引き起こす竜巻のような存在を遠目に見て「美しい」と言えてしまう時がないでしょうか。 夕暮れどきの街のノイズや、 高いビルから見下ろす雨の夜に眺める街のネオンが窓に滲む様など。

そうした一見混沌に見えるもののひとつひとつの背景には、多くの人の生活や人の人生が音や光になっていたりしています。 それゆえに混沌としたものに対してエモさを感じる人も多いことでしょう。それらの音や光は「人の人生」に全て集約されて存在しています。ただのノイズや、光のぽちぽちではありません。

 

無限に生成が可能に思えた旋律やリズムの中にある限界性を見出し、その1つの旋律を使う事によって、その背景にいくつもの類似性を同時に用いていることと同様であるのだと感じとることができれば、 その旋律はより多くの意味と意義を持ち合わせた価値ある旋律とすることができます。

ハ長調を巧みに演奏することによって、そこにイ短調やト長調、ヘ長調やハ短調などのいくつもの調性を同時確立できるような旋律を作ることができたとしたらどうでしょう。

当然そうした旋律はいくつも作れるわけではないし、もしそれが限られたいくつかの旋律にのみ求められるのであれば、その限られた旋律は、まさに"主の金言"のごとく他の旋律よりも重要視される運命を持っているように感じます。

 

今回のメシアンの書を読んで、不可能性への魅力の体現とは、こうした他の追随を許さないような多くの価値を含んだ旋律を発見し、組み込み、書き残したいと願うメシアンの祈りのような願望がストレートに表れているのでは?と感じ取りました。

むしろその独自性がこの不可能性一点に縛られることで、メシアンの旋律一つ一つを読み取りやすくしてくれると思います(それは簡素化ではなく、鑑賞時に使う体力において)。

鑑賞に余裕ができると、その背景に流れるメシアンの祈りの言葉のようなクオリアを深く受け取れるような気になったりもしました。

 

つまりメシアンの祈りと、性壁だらけの音楽性と、編み込まれた旋律の現実が三位一体となって非常にこちらから分かりやすく訴えてきます。

これを130ページで読み解かせるメシアンの解説力はすごいな、と私凡人は感じたわけです。大変感銘を受けて記事にしました。方法論書はこうあらねば笑。

 

第17章

旋法の転旋の技法などが紹介されています。

一つの例として、

https://youtu.be/3YRrYt9c9Wg?t=82

こちらの『聖体秘跡への賛歌』1:22冒頭は、

最初の二小節半が第3旋法の第4移行、三小節目最後の拍から四小節目三拍目までが第2旋法第1移行、そこから三拍においてト長調の長調性、その後第3旋法がまた現れる、といった具合で緻密に旋法の転換がなされています。

移行の限られた旋法、といっても、それらを組み合わせ、さらに調的旋律に混ぜ合わせることで無限の色彩感を作り出すことができる、という意味では、これらの「限られた旋法」の限界性、というものは極めて無限に近い可能性がありながら、「ただ移行が限られているだけ」でその表現に限界がある、ということを示しているのではないことは明白です。

問題は色彩感が似てしまい、我々凡人にはその微細な色彩をただ聞くだけでは読み解けず楽譜を見ながら一音一音分析して読む必要がある、という点においてちょっと面倒だな、と思わせてしまっている点も書いておきます。時代の流れですね。

 

18,19章は当ブログ的には補足的解説であるためここでは割愛します。

 

当ブログで紹介したこともある佐野先生のコラム

http://chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://yomikyo.or.jp/pdf/book/orchestra-201705-02.pdf

こちらでは、メシアンの色聴に関する内容が網羅されていますが、彼の作曲法の書「リズム、色彩、鳥類学による作曲法」の邦訳がわからないので、私はその詳細を知りません。

この共感覚的感覚については今回の同書ではほぼ触れられておらず、時折色彩的な記述がされていますが、普通によく使われるたとえの程度ですので読みやすくなっています。

この色に関する知覚も、個々人それぞれの中で起きる独自論的音楽判断ですので、そこに一般的正当性を当てはめる必要はないと思います。

ただそれによって自分だけの音楽性を構築できる、という意味において、メシアンは調的バランスや伝統的音楽バランスよりも、自身が感じる色彩性や数学的興味、気質を中心に起き、独自の音楽表現を確立できた、と感じました。

 

既存論を破棄することなく、エレガントに独自論を展開できた名著です。

「独自論を用いる」というのは優れた音楽的素養と、膨大な音楽経験と、極めて難しい表現技量を要求されることなのだな、と改めて実感しました。私がやっていることは本当にほんの触りにすぎないのだな、と感じながら。

しかしながら、自分をわきまえながら、できる限り自分がやりたいことを一点に絞っていけるような目標を持って追求していこうと考えを新たにしました。

そして、自分の教材も1000ページあってはいけない、と笑。

130ページにしなくちゃと。