音楽を理論的な手法に"基づいて"作る、という行為に漠然とした違和感がある方がいます。
その理由の裏にあることとして ex...
・自分が楽譜が読めないから(音楽理論に詳しくないから)、理論を語る人が嫌い。
・安易に理論を使うのではなく、より努力した経験値に基づいて音楽はやるべきだというスポ根系思考がある
・理論に基づいて音楽やるってどうなの?という漠然拒否派
などが私が感じた講師経験上でのニュアンスです。
こういう人も、口で言うほどこの問題を気にしてはいません。
ただ何となく漠然と感じた、と言う場合がほとんどのようです。実際自分自身さほど作曲もしていません。
ただ、SNSの場合、それがそのまま文字情報になり共有されてシェアされて情報影響震度が上がるのでこういう文句でも波及する影響が大きく見えるときがあります。
これらは主観です。
・あなたの経験や感性はどこまで正当的と言えるか?
・楽譜読めない(音楽理論勉強嫌い)は嗜好であって、相手の不当性を証明するものではない
これらは科学的に答えが出せる話ではないですから、批判者は感情的に拒否して逃げることができます。主張というより不満です。
哲学においては、議論をしても答えの出ないタイプの質問を繰り返すのは、煽る人の特徴で、答えがないゆえ大きな態度で相手に迫ることができます。時間潰し、というか。考えた感が出る、というか。
でもそれで作品が翌日すぐできる、というわけではないので、音楽活動は一向に進んでいないことを指摘しましょう。
自分が正しい、とだけ主張するのは論理の破綻を引き起こします。
なぜなら自分の主張を通したいのに、相手が「自分が正しい」と主張することを認めようとしない、のは変です。
言い争いは一種のガチバトルエンタメとして最後メチャクチャになるとこまで楽しんでください。
一番感動する音楽は自分の子供の歌であり、推しの歌声であり、好きな人の作る音楽、です。(子供を褒めるなという教育もありますが全てにおいてそれが成り立つとは到底思えません。)
冷静に考えればわかると思いますが、
「音楽理論的にはおかしいが、こういうところは評価できる」というところが人は必ずあるはずです。
自分ができることを活用して音楽作品を作り続けるしかありません。
文句も不満も日々なくなりませんが、文句をSNSで書くほど暇ではない、というのが普通の労働人です。
やっとSNSに投稿したとしても、リプと建設的コミュニケーションが下手な人は、音楽制作も、またそのやりとりもうまくいかないのでは?と思わせてしまいます。
全てが逆効果。
「人にそう思わせたらダメ」
という不文律があります。
もし自分が正しいなら、
「そう思うならその考え方であなたがどんどん社会進出すれば良いじゃん。」
です。モーツァルトがサリエリを批判する必要があるでしょうか。敵わないから嫉妬して行動が歪んでるだけで、普通は頑張って追いつこう!俺なりに頑張ろう!で生涯切磋琢磨するだけです。相手を蹴落としてうこしでも追いつこう、見たいのは将来的に下策です。
私自身が最初の頃、誰かの間違いを指摘し、自分の正当性を主張する、という段階がありました。だから、
相手を批判したり議論をしたりしたがるのは自説を容認してもらいたい気持ちの裏返しだ、と考えています。
自分のことを認めてもらいたい!ただの承認欲求で、それは幼児が欲しい玩具屋の前で背中をついてママに向かって地団駄を踏む、あれなので、まあ誰でもできます。
誰でもイキがりたい学習段階もあります。
オレ流がちょとうまくいくと、そういうテンションになりがちです。
よくわかるんですが、そんなに歴史は軽くは把握できません。
私自身、最初は皆さんに「不定調性論を使った」と言ってほしくて活動していました。
しかしやがて勝手に盗んでもらってもいいかな、という心境になって、出版も考えなくなりました。
方法論は日々変わり、ほとんど先人がどこかでやっているからです。
また、自分がやっていることよりもクオリティの高い方法が紀元前にあったりします。
だから勉強をし直します。
方法論の根本が変わります。
全て毎日やり直し、その道全部が探求になるので、「これはこうだ!!」って断言することにすごく慎重になります。
ちゃんと勉強してれば、君のその疑問、13世紀にはやって、14世紀には解決してるけどな。それやってる人今いないよ。ということがすぐわかって突っ込むことも面倒になります。
その人に適切な方法を見つけるには、マンツーマンで長期間ディスカッションして講師も生徒も理解が及ばないような方法をやっと発見する、と言う過程が欠かせません。
人間暇だと他人のことが気になるものです。
表題、方法論云々の好みの話は「音楽理論というものにこだわってもこだわらなくても、いろんな人がいて当然です。何か世間がいう理想の方法など追いかけず、人のことはいいから自分のやり方でまず成果をいくつか出して、立ち止まったらそれからまた自分で考えて、どんどん成果の中で何をすべきか決めてゆきなさい」という当たり前の結論になります。