これも音楽の先生方が御一人御一人丁寧に考えておくと色々迷わない問いです。
音楽を捉えるやり方は人それぞれです。
私は、世間的な真理を盲目的に重んじるのではなくて、勉強で頭でっかちになっても良いので、「お互いの価値観の尊重」を真ん中に据えてほしいな、と思い日々皆様をサポートしております。
音楽自体その良し悪し、好き嫌い、解釈、様々に乱立します。
誰かがそれを好きだ、というと、わざと反対の意見を創造して、逆に面白い意見になっちゃってそれがいいねを稼いでしまう場合、本人すら「今作った」誰もそんなこと思っていなかった意見が真実味を帯びて発信されてゆきます。
しかし社会の場では「互いの"正解"」に対して、互いがよりよく展開できれば有意義です。
互いの意見が違うことを理由にしてぶつかり合うのは、「左」と「右」のどちらが中心か言い争うようなものです。
しかし無意味な言い争いは多くあります。
一方の正当性承認欲求のためだけの正誤のやりとりに付き合わせるのは相手の時間を奪う傲慢だと自覚しながら議論してください。
独自解釈を自覚していると、誰かと話をする時、自分の意見は100%独自感覚である、と認識があると知っているので、自分が述べたことが他人に通じる、と思わないぶん議論はスムーズです。
自説が相手にも当てはまるべきだ、と思っていると、コミュニケーションが機能しなくなります。そこで譲ったり、相手の意見に押し倒されたりする経験を一度でもすると「君の間違いを俺が正す」みたいに錯覚してしまいます。
その時はたまたまそうなっただけです。
あなたが正しいなら、あなたの音楽がもっと広く認められていていいはずです。
自分にとっての相手の誤りを指摘することに自分の時間を使う人生は、まるで森の中の雑草を抜いていくことで森をきれいにしている、と信じているようです。
様々な誤謬があふれる潮流の中に社会の流れが生み出されるだけで正解が正しい社会を導くわけではありません。
何かのポイントで話し合うときは、
・自分はこれを元にこう学び、こういう風に覚え考えてきた
・だからこれは自分の中ではこういう結論になる。
・あなたの経験、やり方ではどうなるか?
・それを互いに認め合えるために、互いの議論でより良いアイディアが出るかもしれないから議論をしよう。
と述べていればあまり問題は起きません。
感情的になったり、わざと反対のことを言ってやろう、煽ってやろう、彼のそれまでを無にしてやろう、とか考えたりするのはエンタメであり、議論自体が面白くないと無意味な時間です。公衆の前で人の服を脱がせて楽しめるフェティシズムの持ち主です。こういう人の前ではどんな人でも恥ずかしい思いをさせられてしまいます。近寄らず無視してください。
議論は、高度な人間性が求められる行為なので、発展的議論ができる人自体が少ないと思います。
だから自分が真理だから議論で絶対負けない、ということはありません。議論 自体の中で浴びるカウンターパンチで立ち上がれなくなる時もあります。動揺すれば議論には負けます。エンタメなんです。
誰でも"自分はそれが良いと思う"という価値観を大切にしていると思います。
「自分に合っている事は自然である」
となりがちです。音楽もその最たるものでしょう。
もし
「これは自分には全く理解できないが、理論的には正しいのでこれは良い音楽だ」
と思える人がいたら、かなりストイックですよね。しかし、学習時はこのような価値観の転換が起きることもあります。それゆえに議論で考えが変わったりするから、議論は必要だ、と思い込んだりします。
歴史的主流な理論(あくまで漠然としたものですが)的には正しいのに、あなたに合わない、のであれば、あなたの感性がずれていることになります。そして、それは悪いことではなく、あなたはいよいよあなた自身の方法論を考えなければならない状態にあることを指し示しています。
誰も自分が仲間はずれだと思いたくないので、自然と自分に合う方法論を作り一時的な「独自解釈」を作っています。
もし世間の主流の方法が自分に合わず
「より画期的な自分の方法こそ優秀であり正しい」
と思うとしたら、歴史の中で生き残ってきた主流の方法論を否定するわけですから、あなたは孤立するでしょう。
世間の方法がおかしいのではなく、あなたがずれていたのです。
故に、
独自論を作ってそれこそ正当だと思っている人には注意してください。
こんな警告、私しか出せません笑。
その独自論、本当に過去の誰もやったことがない手法ですか?
論文に書かれなければ、あなた独自の手法と言っていいのですか?
ここでの「独自論」とは、自分が知る範囲で、自分が思いついたと信じている一時的な手法/解釈、としておいた方が正確でしょう。
しかしながら不定調性論は、私自身の音楽活動を本当にスムーズにしてくれました。
最初はこれこそ宇宙の真理だ、と思ったものです笑。
「音楽に正解はない」
個々人が自由に解釈して楽しめ/取り組めるのが現代音楽文化の出発点です。
音楽の知識がほとんど持っていない昭和の労働者世代(わたし)は音楽を楽しんでいないでしょうか。彼らは音楽の楽しみ方を知らない愚か者なのでしょうか。そういう彼らを楽しませる音楽は質の低い音楽でしょうか。
もしそう思ったなら、質の高い音楽をあなたが発信し、あなたのリスナーを喜ばせてもらえれば良いだけです。
ここに議論は全く必要ありません。
ここで起きる議論はいかに自分が優れているかを競争し合うだけの議論です。
音楽知識啓蒙活動も、あなたや後進が作品を作れるようサポートできるなら、そのやり方に"そんなに問題はない"と言えます。やり方や程度の差はあっても、しっかり社会活動ができているなら少し大きな気持ちで音楽を取り扱う気持ちのことを「正解はない」という語に置き換えている、と思います。
「正解がない」のではなく、状況に応じ、程度に応じ、正解がいくつも生まれます(より正解になるより良い答えが未来にあると信じる)。
状況に応じ様々な正解があり、制限の中で様々なベストが存在するような時もありますが、それらはその時その場にいた人たちの欲求や願望や熱意が一つの方向性を生んでいるだけで、メンバーが変わればその時の正解も変わるでしょう。
「熱意によって素晴らしい作品が生まれ続ける限り正解はない」という意味が込められていると思います。
まずは自分にとっての正解をいかにクリエイト/プロデュースできるか、そして同様に相手がクリエイトした存在の正解を自分の価値観の中で新たに解釈して認められるか、
ということが、社会的行動だと思います。
※論文などで発信する学術的なルールや慣習はまた別ですのでご注意ください(それでも新発見によって"過去の正解"の訂正と展開は常に行われています)。
教育音楽/音楽ビジネスは、一般的価値観と美意識、人を感動させる物を作る方法、社会に受け入れられる音楽の作り方をつい学ばせてしまいます。
しかし音楽家には、音楽を楽しむことができても、いまいちヒットさせられない人材もいます。
それは才能の有無より、それぞれの独自性を主張するからでしょう。
全ての人にあなたの独自性を理解してもらうことはできません。
運やタイミング、容姿や本人の気質も大きなウエイトを占めているでしょう。
自分が音楽を続けるかどうかは、ヒットするかしないか、売り上げが上げられるか上げられないかを基準にするのではなく、自分の方法論でどのように音楽を続けるかを考えた方がいいと思います。
あなたにとっての正解を維持できるのは、あなた1人しかいません。
つまり 自分自身の気質やあり方、自分の独自論を真剣に把握しようとしないと、売れる素養がないのに、売れたいと思ってしまったりします。
それは自分を理解していない、ということになります。あなたが売れないのはあなたがあなた自身を理解していないから、であり、どんな音楽でも正解だからいつか売れる、という理解によって流されて良い問題ではありません。
そうではなく、そういう生き方の自分だから、もっとこういうやり方で、これを実現したい、という自分の目標を達成していってください。その先に、その独特の活動が評価される日がやってくるかもしれないというだけです。
合わせて独自論を勧めるなら危機回避、危険回避の知識学習を重ねて指導できないと、学習者は「自分勝手にやっていいんだ」と思い過ぎてしまいます。結果としてテロの示唆や自死幇助みたいになる場合すらあります。
「自分の好きにやればいい」などと軽々しく言えません。真剣にやればやるほど 様々な事柄が人生では起きます。アメリカ大陸ではそれをブルースと呼びました。
また、
「正解はない」という逃げ口上。
「正解はない」という可能性煌めき発言。
「正解はない」という哲学示唆発言。
これらの「正解はない」という言葉に意味はなく、その人が自己主張したいがために行ったファッション発言です。これらと今までの話を混同しないでください。
正解はないから、あなたの主張のままにまずは方法論を作り、そのやり方で推し進め、日々改善しながら、あなたの音楽の生き方を作りましょう。
あなたの作品とあなたの発信が、あなただけの正解を作り出すと思います。
あなたにはあなただけの正解があり その正解はあなた以外の人に当てはまらないから「正解がない」だけで決して希望の側面だけを述べている言葉ではないと思います。
誰も教えてくれない自分だけの回答を探し求める苦難の道が、目の前に広がっているということをふんわり表現した言葉が「正解はない」という言葉なのではないでしょうか。