音楽教室運営奮闘記

音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

三人の作曲家問題〜四つの表現態を考える

前回、自己の成果物について四つの段階があることを触れました。

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Aさん、Bさん、Cさんという作曲家がいたとしましょう。

ここに音楽理論の法則が一つあるとします。

音楽理論法則1;a音はb音、c音にのみ進めることとする。これには絶対的な根拠Zがあるものとする。

です。

 

最初にAさんがメロディを作りました。

Aさんはa⇨bと進みました。これは音楽理論に則ったやり方です。

 

それを見ていたBさんは、Aさんとは違う曲を作る必要を感じ、

Bさんはa⇨cと進みました。これも音楽理論に則ったやり方ですから問題ありません。

困ったのはCさんです。Cさんも自分の音楽を作りたい、と思うタイプの人でした。しかしもはや全ての手法が使われてしまいました。

 

Cさんは考えました。

・自分の才能の限界だから、AさんかBさんの真似をして同じような曲を作るか

・無理くり誰もやっていないことを考える時間を持つか

結果としてCさんはa⇨dと進みました。この進行は音楽理論では認められていません。こうして作られた音楽には従来の法則によれば、「認められない作品」だと言わざるを得ません。

Cさんはその後2年間、世界がa⇨dを容認するまで社会的制裁に遭うこととなりました。

音楽理論の歴史もこのような方法論の展開により新しい表現を生み出してきました。

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さて、実は、ここでもう一つの法則を考えなければなりません。

Aさんはa⇨cとすることもできました。Aさんはなぜb音を選んだのでしょう。

また

BさんはAさんと違う方法を取ろうと考えa⇨cとしました。Bさんはなぜそうしたのでしょう。

この点を音楽理論法則1は説明できません。

a音はb音でもc音でも進むことができます。これは根拠zによって絶対とされています。

だからAさんはb音でもc音でもどちらでも選べたはずです。なぜb音を選んだのでしょう?

法則としてそれが最も優先される、からでしょうか?

もしそうだとしたら、Aさんは自分の意思でメロディを作った、と言えるでしょうか。

本当にそれはクリエイティビティと言えるでしょうか?

またBさんもAさんに負けないようにb音に進むことを選び、より素晴らしい曲だ、と宣伝で訴えることもできたはずです。なぜc音を選んだのでしょう?Bさんは卑怯でしょうか?弱腰でしょうか?これはCさんにも言えます。

彼らは全員真のクリエイティビティを持っていると言えるでしょうか?

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このような突き詰め方で時に「音楽理論は足枷である」というニュアンスの諌言がされます。

しかしサッカーをやるのに、「俺はフォワードだが自分の意思でボールを手に持って走る」などと決めてボールを持って走り出したらサッカーになりません。

現代の社会は決められたルールで戦うことを潔しとする風潮?生態系?があります。

AさんとBさんは自分の意思で音楽理論というルールの中で戦おうとしているのを潔し、と判断され、Cさんはいわばボールを手に握って走り出した違反者だから社会的制裁を受けました。

 

しかしアートの世界は、これを行うことこそがクリイティビティである、という層が時間差を持って生まれます。

Cさんを支持する声が高まるわけです。困るのは今度は音楽理論側であり、時代と伝統の間にはどんどん溝が生まれます。こうした溝は現代だからこそものすごいスピードで開いていきます。

そういうことが毎日起こるのがクリエイトの世界です。

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そこで登場させたいのが四つの表現態です。

初期動機/着想/自然要因をmotifとして【m】と表記することにします。

 【m】を元に、その個体が最も用いやすい表現方法を用いてイメージを構想することをImageとして【i】と表記します。作品計画です。イメージの中で作品は完成への道筋が作られます。

 【i】に基づいて、実際に制作過程に入ります。これをProcessとして【p】で表記します。具体的制作作業です。

 【p】の結果生まれることとなった作品/成果物をEpressionとして【e】とします。

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今回は最初のmに注目しましょう。

 

Aさんがa⇨bを選択したのは、音楽理論に従ったのではなく、ルールに従わないのを責められるのがいやで無難な選択をしたのでもなく、当人はa⇨bでやってやろう!!という明らからでシンプルなモチベーションmがあったからそれを選択した、としたらどうでしょう。

Bさんは「Aさんとは違うやり方でやりたい!」と対抗意識を燃やしたモチベーションmが生まれたからa⇨cを選択した、という動機であったらどうでしょう。

社会の見方も変わるはずです。

Cさんは「二人がやっていないやりかたを作って勝負したい!」というモチベーションmを生み出し、その視点に気がついたからa⇨dを創造できました。

作る順番が正反対だったらAさんがCさんの立場になっていたかもしれません。

 

それらは理詰めの理由ではなく、当人さえ意図しないような直感的感覚で"そう感じた"ことが動機となり作品に成熟したわけです。

これらの動機を音楽理論で説明するのは厄介です。

 

このように音楽理論やルールという枠組みを超えて行動できる、解釈できる、創造できる人材が増えることで、社会の同調圧力習慣の軽減に役立つのではないか、と考えます。

 

彼らそれぞれのmには人間らしい理由があり、それぞれに意義のある動機でした。

結果的に作品ができたとき、法則1に従っているかどうかだけで判断されるしかなければ、それは狭い評価視点である、と言わねばなりません。

 

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音楽作品がそう成り立った理由は、音楽理論的慣習やルールが入り込めない、人間の脳が考える未だ言語化できない存在がある、という考え方を音楽理論の間に持っておく、ということはどうか?と提案しています。それによって人生で誰も一度は起きる、

・彼女にフラれた勢いで作った曲が素晴らしかった理由も

・皆で酒を飲んでワイワイテキトーに作った曲が最高に面白かった理由も

・音楽文化を皮肉って作ったジョン・ケージの4:33が興味深い理由も

・自分の娘が最初に作った拙いピアノのフレーズに両親が人生一番の感動を覚える理由も拠り所が持てるのではないでしょうか?

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脳が生み出すその感覚は、説明のできないタイプの動機に直結することもあるのではないでしょうか?

しかし、時にそれが自分の認知を超えた結果を生み出すこともあり、それを活用しない手はないと思うのです(極めるために日々努力は惜しめません!!)。

 

またなんで自分の意見に人が従わないかの理由も、自分がなんで自分だけの方法論を作っているかの理由も明らかになってくると思います(人がそれぞれに違う、という前提が認められる場合)。

 

だから勉強を推し進めて、結果的にスリーコードの曲しかできなくてもそれは「学習の成果」であり、結果的に曲ができなくても、それは音楽理論や学習方法が悪いのでなく、あなたが自己の内でなんらかの判断を行い「曲を作らないことを選択した」にすぎない、と思うのです。

 

だから音楽を作るためには、音楽理論書(機能和声論的思考-例-)とあなたの意思(不定調性論的思考-例-)を二つとも感知して掘り下げていける感覚を持って見るように考えていく、というのはどうか?と不定調性論では伝えることにしています。

 

今のところ、ですが。

もっともっとたくさんご意見をいただき、考え方も展開していくと思います。

 

だから、勘で作った曲がつまらなくても気にしないで!

どんどん勘で作ってみてください。

きっといつか音楽理論を越えることができると思いますし、その積み重ねにより、「あなたのやり方」は構築されると思います。

またその人をサポートする講師も、自分のやり方を享受するのではなく、その人のやり方をサポートしてあげていただければ、と思います。