音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

<独自論探求>自分勝手を維持するのは難しい?

これは音楽に限らずのお話です。

あなたには、教育機関や教師から教わったきたことを少し独自に解釈して自分風にアレンジした仕事法や趣味、考え方や信念などはありませんか?

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自分だけのやり方を、密かに持っていませんか?

教えられた方法に一手間を加えて、より自分の感覚に寄せて、出来栄えを整えている、なんてことはありませんか?

または逆に、教わったことの過程を一部省いたり、勝手な解釈を加えたりして、自分流にしてしまっているところはありませんか?

 

私は教える仕事をしてきて、もちろんその逆がたくさんあることを知っています。

・知識なく自分勝手にやった結果大怪我をした

・教えられた通りにやらず失敗して諦めた

・自分勝手にやって失敗して痛い目にあって以後セオリー通りにしかやっていない

・自分流にアレンジしたら酷いバッシングを受け、嫌になって正統派で通している

・外部には正統派、と言っているが結構自分流でやってしまっている

・上記の結果、同じように道から外れる人を批判するようになった

 

自己流には未経験による事故リスクと社会的批判のリスクが伴います。

自分勝手とは人生をかけて個別完結型でやること、が大前提の「壮大なお遊び」です。

独自論が危険なのは否定すること自体が難しいからです。

本当に否定するためには、例えば不定調性論であれば、音楽理論や分析学、認知科学や脳科学の全ての分野から一点一点否定しなければ否定したことになりません。

そんなことは貴重な研究者の時間の無駄ですので、そういう手間を省けるよう社会的価値を設け(論文や正規の出版物を価値とする文化)、その一点から社会的に認知したものを我々が住む社会の価値として認める、という社会構成になっている訳です。

独自論に社会的価値を自らが与えようとするのは大変危険です。そしてそれが通用するのも本人だけです。

必要な時に必要なものが必要な人に届くときがある、というだけです。価値そのものを生み出すことができません。


それで不満がないのであれば、それを他人に押し付けずに自分の人生の中で活用し、有意義に生きればいいでしょう。私はそれを選んでいます。決して自己の独自論存在の他者への価値を高めようという意思はありません(わがままなので勝手ににじみ出ているだけで、それは恥ずべきことです)。

社会の中に独自論が増えると、そこから一般性が生まれ、それを研究者がピックアップし、社会的価値として発信されるというだけです。その時あなたの独自論は影も形もないものになっています。

また、独自論は誰かが先達の事例との類似指摘をするまでの間は独自論である、という場合もあります。

権威がなく、曖昧で、自分勝手な存在です。人間としての貴方の信用にも関わる問題ですので、自分勝手を行うということへのリスクを十分に把握してから自分勝手を極めて行きましょう。

また、独自のを扱う人に対してはそういった冷静な視点で見ていく必要があります。

差別されるのも困りますが、巧みな弁舌に独自論が価値を持ってしまうのもどうかと思います。


どうしても社会的に認められたければ、やはり論文文化や出版文化、社会的価値への山陽によってしっかりと入り込める努力を行ってください。


自分勝手で失敗したら二度と勝手にはできません。「それ見たことか」という後付けバイアスが人々に広がるからです。

だからこそ、社会的価値というものがある訳です。


本来、独自論は隠されるべき存在でもあります。私が隠さないのは私が変態だからです。ただ、それだけです。

高いお金を払って、何年もかけて、偉い師匠から正統派を学んで、結局現在は自分がイメージしやすいやり方にアレンジしている、という人もいます。

しかし、それを公言したら、先人の技を変えた横着者だ、と地位を剥奪されるかもしれません。

普段は「正統派」と謳ってしまっている以上、自分なりのやり方を公言できず苦しんでいる、という方もありましょう。

 

独自手法を公言して信頼を失うくらいなら、

100年続いた伝統的なやり方で...

師匠から引き継いだやり方で...

学校で学んだ通りに...

と、公言しておいた方が無難、というものです。これはせこいのではなく、社会的価値を守る戦いです。

なぜなら、本当の意味では独自論も社会的価値も同等に扱われるべき存在だからです。

私が独自論という立ち位置で発信している理由もほんの少し、この社会体制への批判も含んでいるかもしれません。


そんな危険を冒す必要もありません。

表には出さず「門外不出」とか「秘伝のタレ」とか「撮影/取材禁止」と言うべきなのです。社会的価値を守ることは、それに関係する全ての人の人生を守ることです。

本当の本当のことには触れてもらわないほうが、当事者のみならず関係者の権威も保たれる、そういう状況もあります。

 

方法論完成まで30余年、不定調的作品を作り始めて10年になりますが、私にとっては非常に有用なものになっています。

ただの性癖でしょう。犯罪に関わる性癖でなくてよかった、と思うくらいです。

性癖は強い渇望ですから、それをやらずにいる方が難しいです。24時間それについて考えることが苦ではありません。

 

不定調性論は、音楽において、独自的な発想で音楽表現を作ることを可能にするための思考術です。

お風呂に入っているときメロディが浮かぶなら、それも独自の手法です。

押し入れに入って曲を作る人を知っています。それも独自のやり方です。

作曲するのに電車に乗る人もいます。

レコーダー(今ならスマホ)を持ち歩いてイメージが浮かんだら街中でも路地に入って歌って録音するという方もいます(ユーミン氏もそうだ、と公言しています)。

昔だと自宅に電話をかけて留守電録音する、なんて時代もありましたね。

そうした各自、それぞれの独自手法そのものの存在体系を独自論と私が言っているだけです。


そうしたやり方は学校では教わりません。

「押し入れに入って作曲すると、君は集中できるだろう」と、教師があなたに教えることはできません。あなたの嗜好までは教師は知らないからです。

ではどうやって、自分の嗜好に気がつけばいいのでしょうか?

 

不定調性論では早い段階で自己探求を始めることを勧めています。

 

「私、押入れに入ると居心地がいい、なんて人には言えない」が普通の反応です。

不動産で新居を案内してもらった時、押し入れに入って初めて気がついたそうです。

「なんかここいい…」

「そんな自分」を認めるのは最初は難しいでしょう。でもそれを認めて少し気分が良くなるなら認めるべきです。

そこからあなたは本来の自分に出会うことでしょう笑

 

もっと一般的な例として、

「あなたは今夜は何が食べたいですか?」

と言われ、即答できますか?

このとき、パッと今食べたい食材イメージが浮かぶようにしてみましょう。その上で遠慮するならそれはOKです。

考えようとせず、自然と食べたくなるものが浮かんでくるというのがおそらく本来の直感的素材でしょう。

このとき、食べたくなくてもパッと浮かんだりすることがあります。大切なのはまずそれを受け止めることです。

もし急にピーマンが浮かんだら、

「なんで。ピーマンなんだろう?」

と思ってみましょう。

意外と恋人が「あなた、きのう寝言でもピーマンて言ってたわよ」とか、いろんなヒントを教えてもらえることもあります。

実際ピーマンの持つ栄養成分を体が求めていることもあります。

 

頭に浮かんだものを食べてみると、次からの食べたいものクオリアはさらにはっきりしてきます。そうやって「自分の意思」と向き合って"対決"してみてください。

 

やがてそれが音楽行動にも反映されるようになってきます。

「今どっちのシンセの音がいいかな」みたいな疑問など即答できるようになります。

 

貴方なりのやり方は、貴方自身でしか開発できません。そこには現在の私たちが知り得る理論では説明できず、私たちの知らない科学的な関係性が背後にあるだけです。

作曲時には必ず足を組んでいる、ある一定の姿勢になる、みたいなことも無自覚でやっているので最初気がつかない例です。

自分では「教えられた通りにやってできた!高い授業料払ってよかった!」と思いたいでしょうから自然にアレンジしてやっていることにはますます気がつきづらいものです。

足を組む癖で才能は使えるがやがて身体を壊す、とわかれば、日頃は別の足を組んで矯正する、とか息が長く活動できるためのアイディアにもなります。

 

「自分学」は自分で思っている以上に不思議です。自分を知るというのはとても難しく、また幻滅しか待っていない魅力のない、しか最も重要な"学問"です。

 

 

教師/親方/先輩/師匠は

自分勝手など10年早えー

というかもしれません。

親方の判断は間違っていないでしょうが、あなたにはあなたの生き方があります。

しかし微妙にズレている可能性もあります。10年じゃなくて3年半だったとか。

だから家に帰ったら自分のやり方でやってみましょう。本当に10年早いのか、ちゃんと研究しなければなりません。

親方の言うことを否定することは、社会的価値の否定です。たとえそれが事実でも、あなたの述べることは独自論ですので、社会的価値はないのであしらわれて否定されて当然です。

だから、そこでは受け止めて、自分なりに研究するというステップが必要です。

ひょっとすると4年と300日早い、が、あなたにとっての真実かもしれません。

 

「こんなことやっていいんだろうか?」みたいな感覚に襲われたらそれがあなたの嗜好が発する声です。

 

KAN TAKEUCHIはペンネームです。

先に述べたように、複数のお客様から「タケウチさん」と幾度も呼ばれたことに着想しています。

「ああ、自分は社会で仕事をしているときはタケウチなんだろうな」と感じ、自分の本名を否定することで自分を確立する、と云うアイディアでした。

これにより自分の自分への違和感も払拭することができました。

思わぬところから解決策は降ってきます。

 

とにかく独自論自体が持つ不思議な魅力と社会的価値の無さ、というバランスをよく把握した上でご自身の自分勝手を丁寧に育てていってください。

この自分勝手を本来の研究分野や社会的価値を求められる分野で、無自覚に行ってしまうと、とんでもない非難につながります。

それは独自性や自分勝手の魅力を履き違えています。


しかしちゃんと自分勝手が追求できれば人によっては非常に居心地の良いポジションを見つけることができると私は信じています。