これは音楽に限らずのお話です。
あなたには、教育機関や教師から教わったきたことを少し独自に解釈して自分風にアレンジした仕事法や趣味、考え方や信念などはありませんか?
自分だけのやり方を、密かに持っていませんか?
教えられた方法に一手間を加えて、より自分の感覚に寄せて、出来栄えを整えている、なんてことはありませんか?
または逆に、教わったことの過程を一部省いたり、勝手な解釈を加えたりして、自分流にしてしまっているところはありませんか?
私は教える仕事をしてきて、もちろんその逆がたくさんあることを知っています。
・教えられた通りにやらず失敗して諦めた
・自分勝手にやって失敗して痛い目にあって以後セオリー通りにしかやっていない
・自分流にアレンジしたら酷いバッシングを受け、嫌になって正統派で通している
・上記の結果、同じように道から外れる人を批判するようになった
まあ、それも生き方ですが。
自己流のやり方にはいつもこうした社会的批判のリスクが伴います。
自分勝手にやってもし軋轢が生まれ、誰かが迷惑を被るなら、あなたはいつか社会から抹殺されます。
「自分勝手」というのは、そうした中でも続けられる人だけが続けられる、という過酷な所業である訳です。手を抜いていつまでも成果を出して続けていられるほど楽ではないのですね。
高いお金を払って、何年もかけて、偉い師匠から正統派を学んで、結局現在は自分がイメージしやすいやり方にアレンジしている、という現師匠人も多いです。
でもそんなことを社会に公言したら、そのやり方じゃ価値がない、と言われるかもしれないし、先人の技を変えた横着者だ、と地位を剥奪されるかもしれません。
普段は「正統派」と謳ってしまっている以上、自分なりのやり方を公言できず苦しんでいる、という方もありましょう。
だから独自手法を公言するくらいなら、
100年続いた伝統的なやり方で...
師匠から引き継いだやり方で...
学校で学んだ通りに...
と、世間には言っておいた方が無難、というものです。
それが故に、表には出せず「門外不出」とか「秘伝のタレ」とか「撮影/取材禁止」とか言っておくわけです。
本当のことは触れてもらわないほうが、当事者のみならず関係者の権威も保たれる、からです。
しかも、独自のやり方、というのがうまくいくか、いかないかは、使い手の人間性と、社会的な情勢の二つをうまくかいくぐれた場合のみではないでしょうか。
つまり、運だけが頼り?ともいえます。
不定調性論も独自論ですが(厳密な独自性については議論を重ねる必要性がありますが)、これが生き残るか、廃れるか、も運だと思っています。
出来上がって10年近くになりますが、私にとっては非常に有用なものになっています。私はこの独自性の展開と保存と発展が自分の生涯の大きな仕事の一つだと思っています。でも、歴史の中にも私と似たようなことをした人はきっとたくさんいたでしょうが、私にはこの衝動を抑えることは難しいです。
そしてその理由もよくわかりません。
ただの性癖なのでしょう。犯罪に関わる性癖でなくてよかった、と思うくらいです。
渇望する者は、批判にも無頓着ですし、狡猾にもそれら一つ一つを取り込んで強みにしています。本当に自分の欲望とやることが一致すると止まらない、と思います。
不定調性論は、音楽において、独自的な発想で音楽表現を作ることを可能にするための思考術です。
お風呂に入っているときメロディが浮かぶなら、それも独自の手法です。
押し入れに入って曲を作る人を知っています。それも独自のやり方です。
作曲するのに電車に乗る人もいます。
ユーミン氏のようにレコーダーを常に持ち歩いてイメージが浮かんだら街中でも路地に入って歌って録音するという方もいます。
昔だと自宅に電話をかけて留守電録音する、なんて時代もありましたね。
そうしたやり方は学校では教わりません。
「思いついたらいつでも録音できるようにレコーダーを持ちなさい」
と教えられた人はあるかもしれません。
しかし「押入れに入って作曲すると、君は集中できるだろう」と、教師があなたに教えることはできません。あなたの嗜好までは知らないからです。
ではどうやって、自分の嗜好に気がつけばいいのでしょうか?
歴史の探求は学校でできても、自分の探求は誰も勧めません。だから自分を知らずに卒業してしまうことがほとんどです。自分もそうでした。
だから不定調性論はもっと早い段階で自己探求を始めることを勧めています。
学習時期から独自論の開発を並行して進めてほしいのです。
そして理解ある講師に出会い、「君はいつも押入れで作曲するんだなぁ、向いているのかもなぁ」などと言ってもらうことで、自分に気付かせてもらうのです。
「私、押入れに入ると居心地がいい、なんて人には言えない」となるのが普通の反応です。そうして開発されるべき独自手法は社会から隠されます。自分でも「そんな自分」を認めるのは最初は難しいでしょう。
自分を知る、というのは意外に残酷な行為です。「自分の等級」を認知する、などよほど人生に絶望しないと認められません。
ましてや学生時代は、全員に希望があり、全員にこれからヒット曲を作る可能性がある!などと言わねばならないような環境ですから。
もし社会に合わせる、他人に合わせることが苦痛になってきて耐えられなかったら、自分に合わせる方が少し楽かも。
常識を疑え、とかそんな表層な話ではありません。本人の思考で取捨選択をしていくという作業のみが存在する状態です。
それが高じるとどうなるかということも、こんなブログで示せていると思います。
流行というものは、優れたクリエイター達が取捨選択した結果です。
自分が取捨選択した結果が流行に乗っていないということは、時代の優れたクリエイターと自分の感覚が異なるということを自覚しなければなりません。
流行は乗るものではなく、作れる人が作るべきものであると思います。
そして、その作られた流行が、あなたに合うとは全く保証できません。
だからこそ、自分探求が重要になってきます。自分と世間が違うだろ、せめて自分が求めるものをはっきりとクリエイトしたいものです。
不定調性論的思考は、本人も予測がつかない自己の存在のヒントを「音楽的なクオリア」に求めます。
「自分を理解するヒント」は自分の中にポッと浮かんでくるイメージ、感情、感じ方にある、という考え方です。
頭の中に浮かんでくることは、あなたという存在自体です。それを止めることはできません。
それを受け入れ、それを基準に才能を発揮していくことで独自性の濃度を上げていこう、という発想です。
だから拙論では、自己の着想にいつもアンテナを立てるように言っています。
その着想は満たされるとすぐに変化し、進化していきます。
ルールを決めることができないのです。
昨日やりたくないと決めたことが、今日はヒントになったりするそういう世界です。
悲しいとクオリアを感じるコード進行は、あなたにとってそれは悲しさを表す音楽の響きです。本当にそれを感じたら、それを用います。理論や一般論は関係ありません。明日になったらそうは感じなければ、明日はそれを用いません。こうした矛盾を受け入れるぐらいの柔軟性が必要です。
あなたに浮かんだ渇望を柔軟に行動に移す工夫をしていくわけです。
ゆえになかなか危険です。周囲もついていけません。だから独自論を構築するには、さらにそれを他者と一緒に社会と一緒に用いていくには普通に学ぶ以上に、理性、道徳の鍛錬が人一倍欠かせません。
そしてそれを学んでいる伝統的手法と組み合わせる努力をします。
やりたいのはこれです。
「勉強」とは、上の方法論を確立するために参考にする先人の知恵だ、と感じます。
◯◯◯◯という本にこう書いてあるからそれを用いればいい、
◯◯◯◯という偉い人がこう言っているからそれに従えばいい、
という論法とはまるで違います。
私の場合は「独自論を作る過程を作るということを嗜好する人」であったわけで、こんなこと学生時代に誰が感じ取れたでしょうか。自分だってわかりませんでした。だから社会に出て違和感の中30年も迷ってしまいました。
生き方のお手本を見つけられなかったんです。
結果として音楽専門校に就職できたのは運が良かっただけ?です。それとも何らかのクオリアを感じていたのでしょうか。
しばらくしてジョージ・ラッセルや武満徹、シェーンベルクやルネ・マグリット、ピカソ、ダリなどの探求方法を知りました。彼らは作品を作るだけでなく、その作品を作るための方法論をも作りました。
「今夜は何が食べたいですか?」
と言われ、あなたは即答できますか?
つい
「なんでもいいよ」
と言っていませんか?
しかし相手もまた「今日は私が寿司を食べたいのでよろしく」と言えばいいところを、そうせず、相手に委ね「何がいいか?」と尋ねた結果です。でもそれが理解できないと、相手の真意のクオリアを否定することになります。
あなたが本来、感じやすい内容がイメージにも度々上がってくるのですが、なかなか最初はその真意が理解できません。
私は音楽業を始めた当初から「タケウチさん」と呼ばれることが多かったのですが、最初は大変奇妙だ、とだけを感じていました。
どのような時に社会と軋轢を最小限にして独自性を育てられるでしょうか。
手っ取り早いのはやはり趣味や芸術、余暇の過ごし方の中で個人個人が生み出せやすいものになるのではないでしょうか?
相手を間しない、一人でできる表現物、趣味、制作物に対して、自分のできうる範囲の自由をそこに投じることで自己表現の独自性は具体化されるのではないでしょうか。
調の同じデスメタル(大抵はEmかlow b)と、モーツァルト(ホ調またはロ調)を同時に流すと、アートな気分になる、という発明をした知人がいます。すごい独自論だ、と感じました。それで気持ちが良くなるのはこの人だけだろう、と思うのですが、やってみると何か不思議な満足感になります(できる人はやってみて笑)。
これはその知人が「これをこうやるとこういう気分になる」という回路を作ってくれたのでその存在に気がつけます。
それはまた別のアイディアを生むでしょうし、多くの新たな価値観を作ってくれます。
貴方なりのやり方は、貴方自身でしか開発できません。
あなたしかあなたの好みを判別できないからです。
作曲時には必ず足を組んでいる、ある一定の姿勢になる、みたいなことは無自覚でやっているので最初気がつきません。自分では「教えられた通りにやってできた!高い授業料払ってよかった!」と思いたいでしょうから自然にアレンジしてやっていることにはますます気がつきづらいものです。
しかしそれがスイッチだったりします。
それがわかればスイッチが早く押せます。
また、それではやがて身体を壊す、みたいなこともわかれば、日頃は別の足を組んで矯正する、とか息が長く活動できるためのアイディアにもなります。
何でもかんでも教わった通りに、書いてある通りにやることはできません。
程度の差こそあれ、長く続けるには独自論の開発は避けられません。問題なのは社会ではそれはタブーに属する、という点をいかにクリアするか、だけです。
教師/親方/先輩/師匠は
自分勝手にやるんじゃねー!
そんなことするの10年はえー!
というでしょう。
だから親方の前では言われた通りにやって、家に帰ったら自分のやり方で再度やってみましょう。それで何が危ないのか、なんで10年早いのか、ちゃんと研究しなければなりません。
今日は稽古をやったから、もう家では何もしない、では独自論は育たないんですね。
塾に行って解き方を学んだら、家で今度は自分のやり方で解いてみる、なんて学生、周りにいませんか?
曲を作るときは全裸が良い、
という若い現代音楽家がいました。
自分で確信しているのでしょう。
「音楽的なクオリア」とはそういうことを確信つけてくれる感覚です。
普通は疑問でも、感じるままに結果が出はじめると、独特な勘が冴えるようになります。クオリアも明確になりますから独自性が育ちやすいです。「考えなくてもできてしまうやり方」こそがあなただけのやり方です。
また、
しっかり伝統を学習して生まれる独自法
伝統を曲解して生まれる独自法
失敗から生まれる独自法
独自論は「運」だというのもこういうポイントが絡んでいるからです。
「こんなことやっていいんだろうか?」みたいな感覚に襲われたらそれがあなたの嗜好が発する声です。
KAN TAKEUCHIはペンネームです。
先に述べたように、複数のお客様から「タケウチさん」と幾度も呼ばれたことに着想しています。
「ああ、自分は音楽の仕事をしているときはタケウチなんだろうな」などと思うようになりました(KANは職場での愛称)。これは、自分の本名を否定することで自分を確立する、と云うアイディアだったのです。これにより自分のこれまでの音楽を作る自分への違和感を払拭することもできました。 不思議なアイディアでした。 思わぬところから解決策は降ってきます。
これからも私は「音楽における、身勝手な独自方法」を密かにバックアップしていきたいと考えています。
ぜひ、ご自身のやり方で自分の作品を作り、自分の望む結果を得る為に尽力してみてください。独自論は日々少しずつ形成されていきます。
今後ともどうぞ、宜しくお願い申し上げます。