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不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

<不定調性論用語/概念紹介69>ブルーノートの解釈6

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W.C.Handy(1873 - 1958)「ブルースの父」と言われた人です。

(参考) http://en.wikipedia.org/wiki/W._C._Handy

The primitive southern Negro, as he sang, was sure to bear down on the third and seventh tone of the scale, slurring between major and minor. Whether in the cotton field of the Delta or on the Levee up St. Louis way, it was always the same. Till then, however, I had never heard this slur used by a more sophisticated Negro, or by any white man. I tried to convey this effect... by introducing flat thirds and sevenths (now called blue notes) into my song, although its prevailing key was major..., and I carried this device into my melody as well... This was a distinct departure, but as it turned out, it touched the spot.

ここにブルーノートについての記述があります。

「音階の三度と七度を下げて歌う。それらの音はM7thとm7thの音である。どこで聴いても同じような音で歌っていた。白人の歌ではこのようなのは聴いたことがない」

と言うようなことですが、これは確かに明確にこのことを述べています。

彼の著書「BLUES:AN ANTHOLOGY」には詳しく書かれていると言うことですが、私はW.サージェントが引用した部分しか分かりませんので、こうした記述の語源はここにある、と言う程度にしか書くつもりはありません。

彼が1903年、ミシシッピ州のデルタ地帯、タトワイラー駅でブルースに出会った、という話を発端に、1912年最初のブルース曲が出版されます。ガーシュインは13年ごろから曲を発表し始めますから、まだガーシュイン以前です。

曲は「メンフィス・ブルース」さて、どんな音楽なんでしょうか。この頃はすでにスコット・ジョプリンのラグタイムが世間にはありました。

ブルースはその狭間で少しずつポピュラーになっていったことでしょう。

和声進行としては、

Eb7 |% |Ab7 Abm7 |Bb7 |

Ab7 |% |Eb7 |% |

Bb7 |Ab7 |Eb7 |% |

という感じです。

しっかり12小節ブルースしていますね。ラグタイム的な要素もあります。

楽譜を見ると、ブルーノートが絶妙に使われており、半音下からのアプローチノート的な使用は、まさにブルーノートの仕様です。

 

このような旋律を聴くと、ハンディがブルースのどういうところに感銘を受けたか、という点に着目することができます。

この時すでに、V7→IV7→I7という流れができていますので、まさに元祖ブルースの形式がここにできています。

この形式がハンディが作ったものなのか、それとも彼がこのような形式を作ったのか、が興味深いですね。

このあたりについては、ガンサー・シュラーがこのメンフィス・ブルースを「ブルースと言うよりも、ケイクウォークに近い」と表現しているところからも、彼がミンストレルの音楽家であることを指摘しています。

しかしながら、この時点で、V7-IV7-Iという形式ができたわけで、ブルースの和声12小節形式は1912年にはある程度形になっていたことを伺わせるに十分です。

ミンストレルと言うのは、黒人のように顔を黒く縫った召使いが出てくるコメディ舞台で、音楽もそこに流れていました。

これが1830年頃の庶民の音楽であったとすると、これが白人の「ブルース感」であることは間違いありません。

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しかしながら、これらのオーケストラ感は、クラシック音楽の知識が十分に活用されているので、 彼らに誤ったブルース音楽、または黒人音楽観を植え付けていた可能性がないとは云えません。

しかしこうした白人音楽と生粋の酒場ブルースがどこかで融合し、よりアメリカらしいジャズが生まれたのは自然であったように感じますね。

 

そのような意味でもハンディが駅で出会った"本物のブルース"に感銘を受けたのかもしれませんね。そしてその根拠をブルーノート表現に求めたかもしません。ハンディのメロディを聞くとそんな風に感じないこともありません。

 

またブロードウェイではティン・パン・アレーというあだ名の付けられた区域で1880年頃から「ポピュラーミュージック」の文化が花を咲かせ、のちにガーシュインなどもこうした現場で作曲を続けていました。

やはり、この1830年以前のブルースの灯を少しでも探るため、次はフィールドハラー(労働歌)について残っているものを探してみたいと思います。

 

これらのブルースを野蛮だ、と感じた当時の人たちもいたでしょう。

しかし我々も若者の新しい解釈と方法論の音楽を「音楽の伝統への侮辱だ」と思ってはいないでしょうか?

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アフリカ音楽本が少しずつ出ているのはうれしい!