音楽教育活動奮闘記

(旧音楽教室運営奮闘記)。不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

クラシック素人がメシアンの「音楽言語の技法」を読んでみたー独自論創造症候群2

www.terrax.site

 

第3章

付加音価の音楽を考えてみましょう。メシアンは単位音価という概念を決めていますが、ここではもっとシンプルに二音から三音の音符と休符の組み合わせ、としてみましょう。

 

要はこういうことです。

この譜例は無拍子無調です。一つだけ法則があって、付点八分音符と十六分音符の組み合わせが単位音価になっています。それを起点に、自由な流れで間の音を埋めてゆきます。従来的な統一美はないですが、単位音価がストーリーの起点になる、という点での新たな統一性が西欧音楽理論に染まった人には斬新です。

例えば素数好きのメシアンの手として、このように単位音価と素数(の音数)の組み合わせで流れを作る、みたいな統一性を生み出したりするそうです。

 

メシアンの「7つのトランペットのための狂乱の踊り」などの楽譜などを調べてみて下さい。

ja.wikipedia.org

www.youtube.com

 

第4章

単位音価の拡大縮小は、バッハがカノンの中で縮小形、拡大形を実験してきた、という指摘から展開してゆきます。

音符だとわかりづらいなら下記のマス目を数えてください。

このような音符を拍子に関わらず単位音価の後ろに足していくことで、自在に統合的な変拍子が生まれます。メシアンはここに付加音価を加えていくことでさらに複雑な組み合わせを作ることができました。

 

付点の付加による拡大にはすでにより多くの魅力が感じられる。

と述べているあたり、かなりリズムのありようについての欲求と、この技法とのシンクロに思い入れを感じます。ただ無作為に作るなら、いくらでも変な変拍子を作ることができますが、メシアン先生はそういう「テキトー」ではなく、しっかりと論拠のある変拍子を作った方が俺のやり方に叶う、的に感じていたのでしょうか。

 

「 時の終わりのための四重奏曲」序文

「 栄光の御体の喜びと明るさ」

「7つのラッパための狂乱の踊り」

 

などでこのやり方を用いているとしています。

 

ここから

・ 2つのリズムの一方のみの拡大

もできる、ということへの言及があります。

「 真夜中の裏表」「けがれない虹」等にて実際に彼が用いた譜例が書かれています。

 

こうした方法論はもちろん和音にも用いることができます。

R

m2

M2

m3

M3

P4

+4

P5

m6

M6

m7

M7

という音程差を序列とするなら、

Dm7は

d(m3)f(M3)a(m3)c

ですからそれを一つ拡張すると、

d(M3)f#(P4)b(M3)d#

となります。この和音はB△(#9)です。また二倍にすると、

d(+4)g#(m6)e(+4)a#

なので、これはBb7(b5)です。

 

Dm7⇨G7という変化は、

d(m3)f(M3)a(m3)c

p4↓↓+4↓↓P4↓↓P4

g(M3)b(m3)d(m3)f

ですから、これを一つ推し進めると、

d(m3)f(M3)a(m3)c

+4↓↓P5↓↓+4↓↓+4

g#(M3)c(m3)d#(m3)f#

であり、これは当然G#7です。さらに音程も4単位拡張子したら、

d(m3)f(M3)a(m3)c

+4↓↓P5↓↓+4↓↓+4

g#(m6)e(P5)b(p5)f#

これはEadd9です。

こうした音程の関連性、拡張と縮小の方法論により、従来の和音連鎖を再定義して数理的に解析もできるでしょう。もちろん音程ではなく、振動数に同様な処理をしてもいいですが、それらの処理は整数や分数である場合は必ず倍音列に属するものになるので、奇異な音程に相当させたければ、有理数全体まで範囲を広げて規則を作り出すほうが面白いでしょう。

 

第5章

逆行リズム...対位法の伝統に基づく音符のリバース概念。" 通常左から右へと読む音符を逆に右から左へと読むことにある"

 

不可逆リズム...右から読んでも左から読んでも音価の配置が全く等しいリズム。

音価の数が3を越えるとこの原則は拡大されるので、 次のように言い換えなければならない。

中央に共通音価を共有し、2つに分かれた可逆グループの一方が他方の逆行形になるリズムは、すべて不可逆リズムであると。

 

不可逆リズムと移高が限られた旋法の相関性

 

旋法が垂直方向に実施されるのに対して、不可逆リズムは水平方向に実施される。

この発見は興奮だっただろうな、と感じます。

この相関性から音楽の表現を調性音楽の組織性とはまた別の方向に展開できるのではないか、とメシアンが考えたであろう事は容易に想像されます。

 

次に私の旋法とリズムの音楽に関わる聴衆について考えてみよう。

演奏会における聴衆は、不移高性や不可逆性を確かめる時間は無いであろう。(中略)聴衆は唯一音楽に魅せられることを望んでいるのだから。(中略)つまり聴衆は意図しないまま、不可能性の異質な魅力、つまり不移高性におけるある種の調性的偏在の効果と、不可逆性における運動のある種の一体性を受動し、これらすべてによって徐々に一種の神学的な虹(arc-en-ciel theologique)へと導かれる。

こう書かれると難しいですが、現代的に言えば、こうした規則をしっかり組み込むことで「ようわからんけどなんか凄そう」というクオリアを感じた、とすれば、そこに横たわる根拠は緻密壮大なものであるから、安心して感じ入ってほしい、というメシアンの音楽鑑賞時の期待について書かれているものと解釈しました。

テキトーに作って観客に必要以上の感動を与えしまうのはまやかしだ、みたいな潜在的な恐れがあったのかな?とも捉えました。

「そこはテキトーはあかんやろ」

って自分が思うところは適当にしたくない、ものです。

批評家はそれを汲み取れず、メシアンの意にそぐわない解釈を施した、ことを動機にこの書が書かれたとしても、結局受取手の解釈は自由なので、感じ入って解釈を与えた、こと自体がすでに成功なわけですね。

 

「不定調性論こそ新しい音楽表現の意識主義だ」と私は信じていますが、メシアンほどに、大衆全てに対してこれを推奨したい、とまでは思わないあたり野望が足らないのかもしれません。

 

第6章

この章からポリリズムとリズムペダルの概念について扱っています。

御言葉 La Verbe 下記動画の208小節ぐらいから

https://youtu.be/sXyS2RJF1BY?t=116

移行の限られた旋法(後詳) 第3旋法で書かれている、そうです。

上声部は10個の十六分音符による1個のリズムを繰り返し、下段は合計9個の十六分音符による1個のリズムを送り返す。

最初の組み合わせに戻るには上段のリズムを9回、下段のリズムを10回繰り返さねばならない。

的な形で実際にメシアン作品とポリリズムの関係を明記していて大変わかりやすいです。

(本人解説は、色んな意味で間違いないし。)

 

香煙の天使 L'ange aux parfums

https://youtu.be/d_NGyXvyER4?t=728

こちらの動画の12:07ぐらいからのセクションが掲載されています。要約しますと、

・異なるリズムと異なる旋法が累積、ポリリズムと多旋法性の結合。

・楽譜上段が移行が限られた旋法2、中段が移行が限られた旋法3、バスが全音音階

・右手が同じリズムを繰り返し、左手がその逆行形になっている、それらが繰り返され八分音符一個先んじていく

・バスでは中央に共通音価がある不可逆リズムが繰り返されている

・これらが繰り返されていくことを「リズム・ペダル」と呼ぶ。

 

 

Messiaen. Quatuor Pour La Fin Du Temps I-Liturgia de cristal. - YouTube

こちらの「水晶の典礼 Liturgia de cristal」では最初の部分から、リズムペダルが複数繰り返されているそうです。

・第一のリズム・ペダル チェロのヴィブラートのフラジョレット(二つの不可逆リズムを持つ。メシアンによれば"2つに分かれた可逆グループの一方が他方の逆行形になる不可逆グループを構成している"とのこと。)これが繰り返されることで第2のリズム・ペダルになる。

・ピアノはリズム・ペダルと和声ペダルを同時に形成。

・移行の限られた旋法の2と3が用いられている。チェロは全音音階。ヴァイオリンの定型は"鳥の様式"(後述)

 

メシアンの音楽は和声を聴く、というより、リズムの積み重ねが醸し出す、無表情の絶望性(まるで貧困に喘ぐ工場労働者が暗く無表情な態度で呆然とリズミカルに仕事をこなしていく様を見るような)をどこかに感じながら、移行が制限された箱庭のような音組織が作る「不自由性を忘れようと躍起になる子供」のような無謀な挑戦をし続ける追求感を見てどう感じるか、それを美しいと思える人の深いクオリアのために存在しているように感じました。ある種ゴーゴリの小説のよう。

 

このブログでは絶望の表現の一つの事例として

カート・コバーンの音楽を挙げましたが、このメシアンのリズムの執拗なまでの繰り返しが作る、厭世観、またはそれを突き抜けた超人類性のような感覚を音楽で具体的な技法として「移行が限られた旋法」と「不可逆リズム」という「自在性が限られた存在」をリズムと音組織においてバランスよく用い、かつそれが一つの表現のニュアンスとして誰でも感じられる「なんとも言えない無表情な繰り返し感」が醸し出す無力感、それを超えた全能感が作曲家の言葉だけでなく、実際に現れている、という点で非常に現代人も評価しやすい作曲家であると感じました。

 

「絶望を表現した」と言っても、ただのダイアトニックコードであれば、人それぞれの音楽背景に上書きされて、印象はバラバラになりますが、「怖い感じでひたすら奇妙なリズムで繰り返される不協和」であれば、誰でもなんとなく違和感、焦燥感、怖さ、人知を超えた何か、を感じると思います。

工場の機械がひたすらに休むことなく繰り返している様を見るのは時に心地よいものです。じっと見ていたくなる感じがします。また人の感情を超えたところに規則が存在していて、気持ちがスッとしたりします。

それはなぜでしょう、あのリズムでしょうか、心地よいノイズでしょうか。

メシアンは、移行が限られた旋法、不可逆リズムに、まるで近代生まれたばかりの工場の機械の正確さに未知の快感を感じたのかな、とも思いました。(工業地帯フェチ的)

誰でも人生観に焦燥感や、絶望、限界を感じて生きていますから、多くの無調現代音楽を聴いた時、その点については共感するところがあります。無調音楽を聴いて幸福感を感じるのは逆に才能。

 

メシアンはそこに「リズムの繰り返し」「類似性の高い音組織」という素材を明示し暗示するように加味して用いることで、絶望の明らかさ、禍々しさの普遍的な感じを私達に教えてくれます。現代音楽のポピュラーミュージックとでも言いたくなってしまう、わかりやすい絶望感/焦燥感が確かにあります。

(私にはそういう感情、というだけで、みなさんは違う心象を得て良いと思います)

 

第7章はリズム記譜法のいくつかの提案と後述事項を含む章ですので割愛いたします。

www.terrax.site

https://m.media-amazon.com/images/I/71-bwXtCwAL._SY522_.jpg