音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

Human Music Translation AIにできないこと=人間自身が造るものを創ること

これからは人が造るもの自体が貴重になっていきます。

音楽もどんどんAIが作れるようになっていきます。

 

ただAIにはどうしても作れないものがあります。

それは生身の人間自身が造るものそのものは当然AIが作ったものではない、ということです。

つまり嘘と適当と曖昧さが混じった勝手な表現、は人にしかまだできません。根拠がない、根拠を本人が識別できない、何かを音で表現する、というすごく適当なことを、それらしく信じてできる、というのが人間の面白いところです。バグっていてもそれで自分の答えが出せちゃう。

正しくないものを自分にとっての正しさにできる。

「音楽で表現する」ということの曖昧さを自信を持ってできる、ことこそ人間の証かもしれません。

 

不定調性論的思考をベースに、人間が作る音楽の曖昧な創造性を作るステップを考えてみたいと思います。

 

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Oberholster VenitaによるPixabayからの画像

 

例えば、この円を"音楽に翻訳"してみてください。

どんな音になるでしょうか。もし正しい「円を音楽で表現する」という答えがあるなら、一つしか旋律はできないはずです。

 

もちろんそれぞれの感じ方、捉え方、イメージの仕方で変わります。

・赤という色

・動きのある線の躍動感

・円の大きさ

 

この時、頭の中で考えるのは、理屈ではありません。

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例えばこんなふうに感じたとします。

 

この朱色のような赤も印象的です。

決して暗い音ではなく、ちょっと決意のこもったような潔さ、を感じます。

これをピアノ音で表現してみましょう。

(適当に)音に翻訳するわけです。この過程は脳が行うので、できる人はできて、できない人はできない、逆上がりみたいなものかもしれません。

スケッチができたら、あとは推敲です。ここで論理的に考えたり、理屈を用いたり、あらなた着想から展開したりします。この作業の中で嘘をついたり、適当な理由を考えてしまったりします。そしてそれっぽくするために目的も手段も考え方までも自分で操作して一つの答えを導きます。

すると、自分にとっての完璧な「円を音に翻訳した」という屁理屈が完成します。

 

それが音楽であり、ここを楽しめない人は、音楽自体が無粋に見えるでしょう。いつもテーブルマナーで食事を取りたい人でしょうか?

 

表現する、ということについて、人は完璧な曖昧さの中でいろいろなことができる楽しみを抱きながら作業をします。そして「感性とは言えないが満足できるもの」を作ることができます。あとは、それを楽しメルのは、その人のファンだけで、後の人は「適当すぎる、稚拙だ」という、のが社会の構造です。

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まずこんな感じにしてみました。

これは図形楽譜でも象形音楽でもありません。

このように個人の心象と音楽をリンクできた(と信じて)作れるのは、現状人間だけです。

この音楽、どのようにこの音に"翻訳"したか、というところが今回の表題の「Human Music Translation」のなせる技です。

個人がどう感じたかの抽象的なニュアンスを音に置き換えます。

これはトレーニングである程度様になってきます。

 

<推敲タイム>

この後不定調性論的思考による作曲では「推敲」のステップが入ります。

推敲に人間的意思が入ることで、自然性を損なう、とか、世俗化する、とか、劣化する、とは考えません。

その人個人の意思を介入させる、こと自体に価値がある、という考え方です。

この段階で最初に書かれた公式はめちゃくちゃになります。脳のノイズ、意識のノイズが入り込み、劣化します。それが音楽の一番地球の歴史の中に存在する稀有な姿だと思うのです。

 

そうした自分の完成品を根拠なく、とにかく高めたいから、アーティストは"意思"そのものが豊かになるような生活を送る必要がある、という考え方になります。

 

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推敲時には音高、強弱、ペダル、スピード感、タイミング、全てを一つ一つ直していきます。自分の頭の中をほじくり返すように感性と相談します。

もちろんこれだけでは、日記と同じで、アート性が追求されていません。

あくまで音楽の翻訳を行う作業の脳回路を鍛える作業です。

ゲーム感覚でやってみると、きっと面白い発想が出ます。

また無理して自分の感覚を超えたところに表現を置こうとすると、鑑賞者に無理を感じさせたり、違和感を与えたりします。

逆に満場一致で誰もがピン!とくるものを作れる人もいるでしょう。カリスマと呼びます。

大衆の意見を判断基準にする音楽は「ポピュラーミュージック」というジャンルとして確立されています。



これをいじっている間にもう一つできました。

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どうでしょう、ちょっと力んでますかね笑、表現しようとしすぎですかね。

それともこっちの方がいいですかね。

その判断はあなたならどうしたいか、を基準に考えていただければいいわけです。

そして「もっとこうしたい」があるならご自身で作ればいいと思います。

私も明日作ったら変わると思います。

 

正解を求める、とか、支持を求める、という気持ちは普段の商業音楽に回しましょう。

ここでは自分が想像するものを創造することに徹することができるか、だけについて考えてみてください。理論も仕組みもまずは考えないでやってみてください。

自転車に乗って手放し目隠しで街の中を走ってみてください。

すごく怖いです。あなたは自転車を降りてゆっくり自転車を押して進むことで進めることがわかります。どうにもならない、ということはありません。

 

ぜひやってみてください。 

 

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それからもちろんいうまでもなく、「恋愛」をテーマにした一枚の思い出の写真(上記は素材)から、アーティスト独自の音楽が生まれるのが最先端の現代音楽、

ポピュラーミュージック

です。

ポピュラーミュージックには定式化された何かがあるように感じられますが、そもそも個人が何かを感じ、それをどういう音にしたいか、という動機がないと、トレーニングをしても具現化されません。

感じたことを音にする、のではなく、あらゆる知ってるテクニックを総動員して作る作業だから経験者と未経験者では作品の出来に差が出ます。

 

人が作るからこそ価値のある芸術性、がどんどん再発見/再定義されるといいですね。

アーティストは自己のイマジネーション自体の可能性を考えることで、AI時代の先を見据えていきたいです。