今回はWindowsの「ペイント3D」を使って視点の違い、相手の視点を理解する、というお話しします。
この四つを四つの和音のコード進行と考えてください。
黒い縦線は小節線です。
この進行が美しいか、調和がとれているか、調があるか、よく聞く流れか、感情を揺さぶる流れかはその人の音楽環境の結果、自分自身の感覚で自由に捉えられます。
これらの四つの星は水平に一直線に並んでいるように見えます。
ここに白紙のキャンバスをおきます。
じつはこれ、キャンバスの左下から見てるんです。
では、キャンバスの正面から見てみましょう。
はい、これだけ距離感があったんですね。夜空の星座のフォルムも似たような話です。
正面から見たら、キャンバスに収まってもいないし、統一感もありません。見方によればおかしな和音の連鎖、と言われても仕方がありません。
当然サイズも違います。
自分が
こう見えているから、相手も同じように見えているだろう、というのはエゴかもしれません。
さらに、感性の豊かな人は、
この二つの視点を同時に見るがごとく、
こんな風に立体以上の幾つもの観点からそれを見ている人もいるかもしれません。
あなたがいるところはあなたと大差ない人たちがいる、というだけで、本来世界にはもっともっと多様な価値感を有する人があなたの考えられない次元に存在するかもしれません。
つまり「断定する」というのは本来愚かな行為です。断定などできるはずがありません。"断定して楽しむ界隈"はあるでしょうが、それはあくまで小さな世界の中の価値観です。
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また明らかに違えば議論にも発展しないでしょうが、
同じものなのに、ちょっとした角度で微妙な違いが生まれていたりすると、喧嘩になります。上は角度を変えて見ただけです。
Cメジャーコードを聴いて
こんなふうに聞く視点と、
倍音までわずかに聞こえてしまう(感じてしまう)二人の人が「響いているね」と同じ発言をしても、本人達が感じているニュアンスも意味も印象も何もかもが全く異なっているかもしれません。これも最初の 画面を角度を変えて見ただけです。
別のモデルで考えてみましょう。
C△(#9)という和音を考えてみましょう。
このように左から見たら三度のe音にd#を内包できたり、
ちょっとずれて左下から覗くと、五度と三度をつなげるような意味合いで感じてみたり、
反対側から見てd#を強烈な#9thとして感じたり。
「そのサウンドイイネ!」と感じている時、その人は自分なりの聴き方をしています。
共有できているようで共有できていないかもしれない、と考えてみましょう。
自分が正しい、と思っていると自分が正しい、と思う方に傾きがちです。
誰もが同じ聴き方をしていない、ということへの理解も大切です。
ひとつの方法として、自分の考え方は自分にしか通じないのだ、不思議だな、と感じることが良いと思います。
様々な視点があり、差異があり、色々な価値がある、そう理解できていれば、自説をごり押しする必要はありません。相手には相手の価値観があるわけです。
それゆえに音響的に自分が描いてるように聞かせたい、という思いが生まれます。それを正しさのごり押しのように捉えられると、正誤論になります。彼は「そう表現したい」と思いそれをしただけで、それが誰かにとっての正しさになるわけではないと思うのです。これこそ正しさであると思いたいのは その人の気質なわけです。
その音楽理論はその音楽理論を作った人の視点です。
意見が食い違う時、喧嘩になってしまうと後で双方理解をすることも譲り合うことも難しくなります。それは民度の低さです。
まず相手がどの視点からどのように眺めているかを尋ねてみましょう。
そしてあなたも一度相手の視点に立ってみてみましょう。二つの視点の相違をまずしっかりと考えてから、エンタメとして議論する暇があるならすれば良いと思います。
視点の違いを変えさせるのは至難の技なので、相手の間違いを指摘するのはずるい、と言えます。相手への間違い指摘は当たり屋のように面倒な存在なのです。飛び出されたこちらも当たり屋を無視できませんし、怪我させたらこちらの責任です。
当たり屋に対して日頃お世話になっている人と同じような態度ができる人は少ないでしょう。そのぶん、最初から損をするんです。私自身が若い時分当たり屋的に議論をふっかけていたのでその愚かさに片腹が痛いです。
相手への配慮がまるでない、ただ自説を普及させたい、という小さな野望しか頭にありませんでした。
そのくらい自説に興奮していたのですが、結局それは「自分に気がついた喜び」であったのであり、それは初めての経験だったからでしょう。
そんなこと他人には関係のない話だったのです。
今思えばやばい自爆テロリスト状態です。
いちばんの問題は、相手が間違っている!と思うと、その時の感情をコントロールできなくなり突発的に相手をあげつらってしまう、という感情の性質です。
そういう人はまだまだ自説に興奮しすぎです笑。
若いです。ある意味羨ましい!こちらもうまく受け入れられる大人になりたいです。
双方の視点が違うとき、自説の言い方によっては他人が拒絶してしまう時があります。
(感情的に受け入れてもらえなくなる)
理解してもらいたれば、敬意を持って言い方を工夫しましょう。理解は同意ではなく、あくまでコミュニケーションなので、そのやりとりで生まれた合意が、宇宙の真理を突いているのではなく、あくまで生物感情的な和合のやり取りにすぎません。
普段から世の中がおかしいという感情が支配しているゆえに、自らに合意してくれる人と変な一体感が起きるんです。そういうことが起きた時は、世間からハブられる、と少し考えた方がいいと思います。
たとえ全ての人があなたが正しい、と言っても100年後の価値観はわかりません。
それは単に正しさとしての議論を残して死にたいという「正義を唱えて死んだ偉人になりたい欲求」であって、ある種の性癖 だと思います。
性癖を叶えるのと社会的行動によって示すのは全く違います。
本当に自分の価値観で世の中を変えたいと思うなら、ちゃんと本を出版し広く啓蒙する方に活動に努力を向けられたら良いと思います。それをせず意見だけ書き残して後は世の中がいつか自分の意見を理解してくれるだろう、などと思うのは、大金を背中に背負って道端で死んでおけば誰かがそのお金で盛大な葬儀を行ってくれるだろうと思い込むようなものです。あなたのお金は誰かに奪われてしまうか市町村に戻されてしまう可能性があります。つまりそれを発見した人が自分のものにしてしまうということです。
素晴らしい考え方や素晴らしい発想も、発信者が無名であると価値がないと思われ、その意見も何かが欠けていると思われがちです。それを見つけた少し著名な人が、より自分なりにバージョンアップした自分の考えと融合させて、それを自分の考えとして世の中に発表することであなたの存在は消えてなくなってしまうのです。
それは運が悪い場合ですが、消して起きないことではありません。
私自身このようにまだまだ自信たっぷりに話してしまう時があり辟易します笑。
あなた自身が世の中を変える器量がないのなら、他人を批判したり、世の中に辟易するような態度は見せず、自分の作品を作り、自分の表現を追求し、ご自身の人生を目いっぱい楽しまれたら良いのではないでしょうか。
参考