音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

"Nevermind" 4 / Nirvanaのコード進行研究

1989年当時のカートは、バンドの中で一番健康を気遣っていた。この頃のカートは酒も滅多に飲まず、声に良くないからとバンド仲間が近くでタバコをすることすら嫌がっていたのだ。...Heavier Than Heaven

 

子供を応援しないすべての親へ。親をしのぐ存在になるという意志を子供たちに与えてくれてありがとう。                 

            カート・コバーン

 

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9曲目"Lounge Act"

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パターン1
B B/F# |G C |
パターン2
E A |F#G|×4
A |G# G |×2

比較的これもポップに感じます。一瞬POLICEかと思うくらいです。
しかしコードを紐解くと変です。これも一小節に二つのコードをおいています。
パターン1は、B-F#-G-Cと考えても良いでしょう。これは五度進行と半音進行が組み合わさっていて斬新です。


10曲目"Stay Away"

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パターン1
D B |F C |
パターン2
D |D |F# |F# |
繰り返しの美学がトランス状態に誘ってくれます。このアルバムで用いられた一小節に二つのコードという"セオリー"を活用して、世界観を統一しています。

D-B-F-Cどれが主和音でしょう。音楽理論で紐解こうとするよりも不定調性だ、と考えたほうが私は面白いです。

調がどう動いているか分からないと、分析したことにならならい、なんていちいち思っていたら多様な音楽が示そうとしているまだ見ぬ価値観を発見することはできない、と思います。

 

また、このカートの作曲法は、コード進行に対してメロディはいつでも浮かんでくる、という素養が前提にあります。

もし

「法律なんてこの世にいらない」

という文章にダークなメロディを一瞬で載せられない人(ラップなどのメロディのない旋律でもデスボイス等でも..なんでもいいのでこれを自分がしたい表現として察知できて、表明する姿勢があればOKです)は、残念ながら不定調性論的思考で音楽はできません。

本当は「メロディはどう作るのか?」から始めないといけないのですが、これはコンピューターにどうやって心を作るか、という命題に似ていて、とても現代ではまだまだ難しいかな、とも思っています。

 


11曲目"On a Plain"

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パターン1
D G |F E |
パターン2
D C |C# A |
パターン3
D G |F/Bb |
パターン4
F E |A G |
四つのパターンのある曲です。

この曲でのF/Bbのパートは、五度音楽の真骨頂とでも云うべきコード感を持っています。

たとえば、Cgという五度コードだと、これに対するコードがGcです。
つまりルートがひっくり返ったコードです。
ニルヴァーナはこの二つのコードが醸し出す雰囲気の違いを上手く使い分ける事によって得る感じの違いを知っていたのではないでしょうか。

 

ギターのある人はかき鳴らしてみてください。
C5 |C5 |C5/G |C5/G |

f:id:terraxart:20210417111221p:plainC5

 

f:id:terraxart:20210417111218p:plainC5/G

この二つ、響きが似ています(使用する音は同じ)よね、だからといって音色が持つ情感は同じではありません。

 

では次も弾いてください。

C5 |C5 |F5/C |F5/C |

f:id:terraxart:20190826185820p:plain

 

に移動するだけです。

このパワーコードがひっくり返ったコードが「弱いパワーコード=Powered 4th」です。でも
C5 |C5 |F5 |F5 |
これとはイメージが全く違うと思います。

f:id:terraxart:20190826185858p:plain


この強弱の差、雰囲気の差は、カートにとってはメジャーコードとマイナーコードの違いぐらいの雰囲気の差はあったんじゃないでしょうか。

 

ニルヴァーナは、強いパワーコードと、弱いパワーコードをメジャーコードとマイナーコードの違いのようなニュアンスで使い分ける事によって、「ニルヴァーナによる五度四度の強弱による灰色(または明暗)の調性」を表現できていた、という事になります。

あ、パンクやロックでは当たり前でしたね。

 

これは推測ですが、マイナーコードではカートには強過ぎた、のかな、もしくは、辛すぎるコードだったか。または「敵」みたいな匂いをさせていたか。

それとも、単純によわよわしいダサいコードだと思ったから使わなかったのか。

実際カートにマイナーコードは合いません。

そんな押し付けがましい弱さとか悲しみとか見たくねぇ、のです。

ちなみに「グランジ」という言葉は、マーク・アールことを本名マーク・マクラフリンと言うシアトルパンクロックの仕掛け人が80年代初期にファンジンという雑誌に書いた記事の中で初めて使われたことから始まったそうです。 そういった仕掛け人たちはカートをアイドル的に見ていたそうですが、当然カートはそういった客観視は好みませんでした。 ニルヴァーナはどこか商業的な匂いを漂わせてしまったのもこうした仕掛け人たちの努力の賜物ですが、そういった成果をカートは決して理解を示せませんでした。

 

カートは日記帳の中で、ずっと昔に亡くなった評論家レスター・バングズ宛に手紙を書き、彼が憧れる同時に拒絶もしていたロック・ジャーナリズムの現状について質問している。「どうしてジャーナリストの連中は、僕の歌詞を二流のフロイト的解釈で論じようとするんでしょうか。彼らの歌詞の聞き取りは90%は間違えているというのに」。 カートの問いは鋭いものだが、しかし、彼もまた自分が崇拝するアーティストの歌に関しては、何時間でもかけてその意味を解釈しようとしていた。まして自分の歌詞には、さまざなメッセージを込めたり、逆に自分を出しすぎたと思った部分を削ったり、労を惜しまず取り組んでいた。

 


12曲目"Something in the Way"~"Endless, Nameless"

、、と、言っていたら。

 

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最後の12曲目は

 

Em |C |

 

ここでマイナーコードが出てきました。もう絶望感たっぷり。こんなに意味の重いマイナーコードもなかなか見られません。

バッハのバイオリンの"シャコンヌの冒頭のDm"の時に感じた強烈なマイナーコード。

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このEm |C |というコード進行は、有名ですね。

普通に弾いても焦燥感とかがあるのに、カートがやったら、もう病的です。
しかしアルバムの最後を飾るにふさわしい曲、に思えてきます。

 

Emというコードはギターの元素みたいなコードです。野太く、他のコードとは存在感が違います。勝手な想像ですが、当時のカートに許されたたった一つのマイナーコード、というような印象も受けました。

「敵」の中でもラスボス。

彼は自分に人生の辛さを強要してくるマイナーコードの、しかもラスボスとここで面と向かっています。しばらく聴いていると、この曲はそれまでの灰色の調性からすると「美しさ」があります。

そういうこと考えてやったの?それとも適当にやってこうなったの??

_

そして虚無の10分間(CD盤では)。

これが意味している所は様々でしょうが、なんだか不気味ですよね。賢者タイム。

この手のやり口は当時の様々なCDでありました。

隠しトラック - Wikipedia

www.udiscovermusic.jp

結果的にこの無の10分間も一つの楽曲だと私は感じます。このアルバムの性質から、

「いろいろ頑張ったけどさ、なんも残りゃしねーんだよ」

と達観してるかのようであり、また

「お前らが感じてる価値なんて、なんもねーんだよ俺たちには」

と言われているようです。この空白はマイナーコードよりはるかに悲しい、と感じました。ニルヴァーナの表現力いろいろすげー、みたいに思ってしまいます。

偶然こうなった、意図的になんとなくこうした、のかもしれませんが、驚きを超えて不気味さしか感じません。

 

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これまでのレコーディングと違い、今回はほとんど問題は起きなかった。ただ一度だけ、"リチウム"のレコーディング中に、思うようなギター・サウンドが出てこないことでカートは苛立ち、スタジオの床にギターをぶつけた。最終的にヴィグ(ブログ主注プロデューサー、ブッチ・ヴィグ)は、この間に録音されたテイクも使うことに決めた。これは"エンドレス、ネームレス"というタイトルで、シークレットトラックとしてCDに収録されている。

ヒドゥントラックではさらにコードは

B |G? |またはB |A#? |またはB F#/Bb? |

と判別の難しい響きになって文字通り混沌を作っていきます。

 

アルバムの一曲目で統率の取れていたサウンドが徐々に崩壊し、まるで音楽に、人生に、型どおりの価値観に飽きていくように、または造り上げたポップグランジというジャンルを、またもとにリセットして、耳障りの激しいグランジにたたき落とした、という印象すら持ちます。

 

自分が魅せられて、のめり込まされて、人生を狂わせて、結局裏切られた音楽をレイプするような曲。カートらしいと言えばカートらしいです。

 

こうしたコンセプトをはっきりとリスナー一人一人に自在に感じさせてくれるアルバムが素晴らしくないはずがありません。

 

「え?こんなエンディングあり?」という映画のように、このバッドエンドが意味するところを探るのは各自の自由なので、そこには言及しませんが、まさにぱっとできあがって、誰にも残さず余すことなく自分で味わい尽くしてぱっと崩れさった「楽園」の姿でも見るようなアルバムでした。

 

これからの若い世代が一度は通り過ぎる重要な"負の感情を完璧に表現しているアルバムの例"ですね。

 

一つのコンセプトでくくった"CDアルバム"という商品価値をもった数少ない作品だと思います。

 ネヴァーマインド<デラックス・エディション>

doing-art.co.jp

このジャケット写真、何を意味しているとあなたは感じますか?

このアイディア自体が未だにミステリー、ということです。思いつきでやったにせよ、その時のカートの頭の中がそうした、というものであることは間違いありません。

これこそ言葉にならないものを表現した、と言っていいと思います。

「水」「赤子」「裸」「浮かぶ」「青」「光」「陰茎」「1ドル札」「泳ぐ」「泡」「釣り糸」

という言葉からあなたはどんなことを想像しますか?

それこそがこの当時のカートの心境そのものなのではないか、という気もします。

昔からカートは赤ちゃんの存在が好きだったようで、伝記にもそれが触れられています。

 

それに意味があるのか、訳があるのか、イメージのぼんやりとした集合体で、それが限界でもあり、それが彼のやりたかったことの限界、最終形のように思います。

それやり尽くしたら倒れるレベルの何か。

 

今回はこのアルバムをコード進行や、その和声の特性という観点のみから見てみました。もっと分析対象はありましょうが、十分お腹いっぱいです。

 

改めてNevermindの"表現された痛々しい不気味さ"に惚れ込みました。  

 

伝記によると、彼は子供の頃ADHDを疑われ、リタリンを処方されていたと記録があります。コートニーによれば、そうした子供薬物による陶酔感の記憶が心に残らないはずがない、等と表現しています。

カートは4歳の頃から稚拙ではあってもピアノで作曲をすることができた(作詞も)という、メアリおばさんの証言を考えると、もしそれなりの早期教育を受けることができる環境にいたら、などと考えてしまいますが両親の離婚やさまざまな不遇を経験せず、カード・コバーンは生まれたか?と考えると言葉を失います。

ニルヴァーナが深く愛される理由の中には、愛を失った子供に捧げる同情から生まれるような普遍的な道義心があるような気もします。ファンを遠ざけてしまうのも、長年父親への愛を素直に表現できなかった少年時代のハートがうかがえるからこそ、ずっと反抗期の美少年を見せられているような感覚を持つのでしょう。

伝記にある通り、行動は素行の悪い不良でも、彼が求めていたのは"ちゃんとした家族"、"ちゃんとした愛"だったということは、我々の目にも明らかです。

彼はいつまでも"愛に彷徨する象徴"です。

 

カートの声、最高にリズム感?がよくて、全てに暴力的でカッコいいと思う。

この声、ロックでもメタルでも、ポップスでもなんでも使える。

しかも真似できない絶妙な母性をくすぐる感じが聞き手に必要以上の嫌悪感を抱かせない。

神様もカート・コバーンをだいぶ無駄遣いしました。

またすぐこういうやつ出てくるだろう、って思ったんでしょうかね。

 

自分がコード進行を勉強しまくってもなんか音楽の真髄がまるでわからないなぁ、なんて思ってから、ようやくニルヴァーナのコード以外の部分の歴史的価値?に感応できるようになりました。頭でっかちになっても、やがてわかるカート・コヴェインの魅力。

世代を超え、新しい世代に常に語り尽くされてほしいです。

 

2014年4月10日、ニルヴァーナはロックの殿堂入り。

 

カートはコートニーが妊娠してから、麻薬のせいで腕のない子供が生まれてくるのではないか、と恐怖していました。

rollingstonejapan.com

フランシスはしっかり成年し今を生きてます。

カートはフランシスが生まれてから、一心に愛情を注ぐメッセージを一貫して語っています。

こういう記事はたくさんあるのですが、彼の音楽の特異性や音楽理論的な特徴と、そこに象徴されるものについてはほとんど記事がありません。

 

また伝記を読んでいただくとわかりますが、人間こんなに自分を傷つけても休息をとると、治療を受けると健康に戻ろうとするのだ、ということに驚きを感じました。これはしかし人間が丈夫、というよりも、カートの肉体的素養を感じました。

健康で文化的な生活を推奨するのは社会の慣習ですが、やはり何%かの割合で自傷的に生きるタイプもいるのでしょう。

カートの作品の研ぎ澄まされた狂気は、才能ある人間が家庭環境に苦しみ、麻薬に走った悲劇ではなく、たまたまその可能性を持って生まれた人間が、たまたまそのフィットした環境に置かれ、重ねてたまたま自傷的に生きることに長けた肉体を持ったが故に、それを抱えながらのバランスでその環境と気質が重なった時しか生み出せない音楽をたまたま家族や仲間の助けがあって生み出せた、という大変稀有な確率で生まれたアーティストなのではないでしょうか。

だから真似できないし、似たスタイルで後に続く人がおらず、たとえ音楽が"クソ"だとしても、ニルヴァーナという存在を浮き立たせています。

これによりファッションで自傷的に生きることを推奨しなくて済みます。

また健全な体でやってもニルヴァーナ的音楽できることはそれを引き継いだ現代のバンドが証明してくれています。ただ自傷的に生きてしまう人が仲間にいる時、どうやってサポートするか、という周囲の課題を教えてくれます。

カートは、なんとなく朝自殺しました。それ自体は誰も止めることはできなかったのでしょう。それまでは全て仲間や家族が救っていたわけですから。

麻薬では死なせてもらえないどころか痛みが続くだけ、と。詳しくは伝記を。

 

そしてニルヴァーナの音楽はクソではありません。

この記事では、そこに意義を与えるために現状の音楽分析システムでは捉えられない側面を、ヒットメーカーの系譜とカート・コヴェインという存在と照らし合わせて生まれた不定調性システムの楽曲技法としてまとめてみました。意識の背景にある動機やクオリアの感じを、指で紡いだコードの動きや言葉の質感をなんとなくマッチさせる、というシンプルなものです。

サウンド面や歌詞、スタンスなどは伝記を読んでいただければある程度真似できます。

 

構造自体は、ここで述べたコード進行論を用いれば誰でもニルヴァーナになれますが、カートと同じ環境で生きられる素養を有していない限り、相手に「説得力」というクオリアを与える音楽にはならないでしょう。ニルヴァーナの音楽がそうした質感で存在しているからです。

さらにNevermindを捨てて「In Utero」に走ったあの感覚も自傷行為としか思えません(結果的によりわかりやすい作品、キャッチーになって「進化」しか感じず、ほんとにこの人中毒者??、と思わせる荒ぶった健全性に溢れています)。商業的になりきれないのはカートの本質の部分が出るからではないでしょうか。

 

システムと関係性、真似できるものできないものを把握したら、割り切ってあなたはあなたの音楽を目指してください。