音楽教室運営奮闘記

音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

音楽理論周辺の話を緩く語る。

 音楽理論の根幹

グレゴリオ聖歌が単旋律である目的は「聖書の言葉がはっきり聞き取れるように」として、四度、五度までの対旋律が許容され、後に三度、六度が登場し、増四度は「悪魔の音程」として"悪しき音は精神を堕落させる"とされて忌避されました。

   

つまり本来の「歌」という概念で言えば、単旋律である必要も、綺麗で神聖である必要はない、ということになります。もしこの伝統(キリスト教の背景のある伝統)から作られた音楽の方法論を採用し、受諾するならば、それは西洋の音楽理論を受諾することであり、それを理解した上で進めないと、齟齬が出てきてしまうこともある、ということになります。そのことについてあなたはどう思うか、です。

別にそれが売れて商売になりゃあいい、という人しかなかなか進めない世界だとおもいませんか?

だからこのような根本思想については触れないわけです。

 

宗教とは関係なく、増四度を忌避すべき、と思う人もいるでしょうし、「面白いサウンド」だと思う人もいるでしょう。また4、5度はいかにも権威のある協和、と感じることもできるし、空虚で面白みのない和音、と感じることもできるでしょう。大きな権威によって確立されてきた伝統のために、そうした方法論が音楽の真実っぽい、と感じてしまうこともあるかもしれません。


伝統から発展してできた商業音楽のサウンドには宗教音楽の規範から生まれた美意識が自然と含まれていることになります。それをよしとするか、反発するか、それが自己表現であり、こうした伝統を知るのが音楽理論の学問です。「歴史」そのものかもしません。

 

私は「理論学習→(z)→音楽活動」の( )部分に入るものが欲しかったんです。この関数zの部分は人それぞれだと思います。だからあまりプライベートすぎると役に立たない、と思い、思い切って体系化し、不定調性論という造語までして厚顔無恥で営業をさせてもらっています。でもとても大切な「鎹」だと信じて疑いません。

 

だから「音楽理論を学ばずに音楽を作れる人は天才だけ」とか、いかにもありそうな論理に先入観ができてしまうと、意識の内外に盲点ができてしまい「嫌だけど理論勉強しなくちゃ」とか「理論勉強すれば納得がいくだろう」とか思い込んでしまって、嫌な勉強をしないといけない、的な感覚に安住してしまう状態を普通と捉えてしまいます。


勉強は一生続けるべきことですが、好きなことを好きなだけ追求する勉強をしたいし、そこからあらゆる科目への興味を生み出すべきでしょう。

今の歳になってつくづくその通りだと感じます。好きな音楽だけを勉強する、というのは、あとで述べるヨーヨー・マの言葉通り、もっと追求して「音楽を学ぶ」から「音楽で学ぶ」となる学習をするべき、ということなのだと確信しています。

 

Windows95的な方法論を目指して?? 

不定調性論は、音楽理論を自動化されたプログラムとして利用できるようにしたものです。

つまり、学習者当人は音楽理論を知らなくても、音楽ができる、ということをモデル化する思考を体系化するためのものです。

 

ビートルズだって、ストーンズだって、音楽理論の隅から隅まで知っているわけではないでしょう。でもコードが弾け、言葉を羅列するカッコ良さを知り、それでモテたいとか、一発当ててやる、とそういう気持ちも時々音楽に注ぎ込みながら、ロックという思想のオーソリティーになったわけです。

もちろん彼らが本気で音楽理論を勉強したら、それはそれでまた太刀打ちできる人は少ないでしょうけど。ただ同じだけの勉強はしていたと思います。

音楽で学ぶ、ですね。

 

自身の感性の構造を知り、それが鍛えられたところで、どんどん自在に作品を完成させていく、というレッスンのやり方です。

 

その中で音楽理論を教える、ということはほとんどしません。

ジャズ理論なんて本やネットで概略を繋ぎ合わせればイメージが分かりますし、概略だけわかったら、自分でどんどん試してもらうこと以上の勉強はありません。そしてその状況をこちらでサポートするのが私の仕事だと思ってます。ポイントは、

「最後は自己流になる」

ということです。だったら最初から自己流でやって、微熱などで寝込んでいるときにでも教科書を読んで一般的なことを身につければいい、と思っています。

(もちろん伝統的学習の権威をしっかり学ぶ、という場合はもちろん別です。この辺は法律を独学でやっても弁護士免許がもらえない、みたいなところに似ています。)

 

そうなると、本格的な研究者、伝統技法の正当な教育者にでもなる以外の音楽理論や音楽の歴史の学習は「自主的」であるべきで、「絶対君は学ばなければならない」というレベルで言及されるほどの学問ではありません。

ただ私の場合は、独学でやるならば不定調性論的な発想を学習して身につけるべきだ、とは思っています。なぜなら、そのフォーマットを多くの音楽家が実際使っているからです。研ぎ澄まされた感覚を用いての音楽制作です。決して私が優れた感覚を持っている、という意味ではなく、自分の価値観と感性を研ぎ澄ませていくことで出来上がる音楽をまず最初に信じよ、という考え方になる、というところを実践いただきたい、という意味です。

 

例えばベートーヴェンの「月光」を聴いて何が思い浮かぶか、とか。

www.youtube.com

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ<悲愴><月光><熱情> (amazon)

 

曲名を聞いて月の光が思い浮かぶ人は、他の大勢と同類であり、カップラーメンが思い浮かぶような人が天才です笑。その思考がどうなっているか、を自分で知ることで新しい音楽が生まれる、という考え方です。普通の教育ではこんなテロリスト養成みたいな教え方は行えません。教育の目的は「社会に役立つ人材」の育成が目的だからです。それはとても重要なことですが、大切なものがそぎ落とされてしまうのも確かです。だから一般教育と並行して、個人の持って生まれたフォーマットを磨きあげる教育が同時に必要なわけです。


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不定調性論的なMITの音楽へのアプローチ

マサチューセッツ工科大学(MIT)では、

「音楽がいかに思考や感情を伝えるものか」

「音楽からどのようなストーリーを見いだせるか」

を学び、それをストーリーテリングの技法として応用することで、プレゼンテーションの能力、効果的に相手に情報を伝える能力に活用させる、としています。

音楽の最も特殊な感覚は「人それぞれの解釈が可能なストーリー」であり、どんなに理論だてて話しても、相手は異なる解釈をしてしまう、ことです。

つまり「相手がどんなふうに解釈してもいいような、抽象的でかつ共有できる雰囲気を持つ情報を伝えながら、多数の人に真意を伝えらえる」というスキルを学ぶことが音楽学習の最も社会で役に立つ学びへの応用だと思います。これはもう楽器演奏が一番です。言葉でないもので人を納得させることができれば、それは言葉を得た時、素晴らしい説得力と意味の空間を作り出せる、という発想でしょう。

 

だからその音楽が自分に対して何を訴えていて、自分がそれを返すとしたらどんな表現をする、というようなことが瞬時にできるためには感性の習熟が欠かせません。そのためにはいっぱい音楽を聴いていっぱい勉強して最終的に誰でもわかる言葉で伝えなくてはいけないのでしょう。

 

この辺は下記が詳しいです。

ハーバード大学は「音楽」で人を育てる──21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育

「時間がなによりも貴重だと理解している新入生は、より多幸感をもって有意義に日々を過ごすことができている」という統計があるそうです(上記図書より)。

 

なにより楽器演奏というのは、今のAIがどんなに頑張っても人に教えることはできません。その人が志を持って取り組んできたからこそできる技能であり、その生演奏の音には嘘偽りがないからです。だからそうした人材が持つパワーはあらゆる業種において自己創造できる人材であると思われるのは当たり前です。

だから「優秀だ」と思われたいがために楽器をやるのは本末転倒で、それにまた上手く騙されてしまうと皆が不幸になります。でも楽器を始めて本気に取り組んで上手くなってしまった場合には、その人自身の心が大きく変わり、立派な志が持ててしまう、という点も音楽の魅力なのかもしれません。

ジョブスがギターを弾かなかったのはなぜか、とか考えてみてください。本には載っていない微妙な真実が見えませんか?

 

本当は音楽行動そのものを社会行動につながる一つの指針として取り組んでいくことが望ましいと思います。

10人程度の小編成オーケストラを指揮したり、運営したり、ライブハウスのブッキングをやってみたり、アーティストプロモーションをやってみて1年間運営し、収支を考えさせたり、楽器演奏と動画製作者を組ませて再生回数の高い動画を制作させて収益まで上げてみる、とか、これから音楽に興味がある人は、ちょっとした媒体を活用するだけで収益になる、という構造で稼ぎながら音楽を楽しむ、ということも可能なのです。

皆が音楽だけに集中して、一流の音楽家を目指す、という構図ばかりでなくても良いと思います。

 

またプラトン「国家論」(前328)では、

悲しみを表現するハーモニーは混合リディア調か高音リディア調、イオニア調も柔和で弛緩なので酒宴用の旋法、勇敢さや節度はドリア調とフリギア調、

という表記があるそうです(同参考図書)。

これも言ってみれば、当時の「音楽的印象」であり、クオリアであり、それを感じた自分たちの感性を構築し、国民に訴えかけていた、と言えます。

それを感じられないような人間は、大切な場で人を率いていくことはできない、という発想につながります。

調和=ハルモニア、の力が国家や民族を平和に導いていく、というソクラテスの言葉にも通じますね。

穿った見方をすれば、音楽がもたらす抽象的なイメージを操作し、人を自在に動かすことができる、先んじることができる、ということが言えます。

逆を言えば、扇動されない人間になるには、抽象的な情報に対して適切に自分の意見を述べられる、それにコントロールされない、というスキルが、社会人としてビジネスマンとして有用である、という風にも解釈できます。

故に不定調性論も理論がこうだからこうだ、という言い方はせず、状態を示し、それを取り扱う法を決めてもらいながら、自分の音楽表現の奥底をたどってもらうことで、一般理論や一般方法論と自分のやり方の違いを認識し、自分が何をやれるのかを知った上で、商業音楽と自在に付き合ってほしい、というようなスタンスで考えていきます。そこに音楽理論が必要だ、と本人が感じるようであれば、寝る前に学習すれば良いのです。

教科書だけだとガチガチな内容になるので対面レッスンをお勧めいたします。

 

音楽療法

これも私は専門でないので語れないのですが、どう参考文献によれば、アリストテレスの弟子テオフラトスはフリギア調の笛の音が腰痛を和らげる、と言ったそうです。

こうした伝説から、音楽療法の伝説が生まれ、体を動かしたりすることが人に良い、というやり方が確立されているのだとわかります。

でも本当に自分が好きな曲、本当に楽しい思い出を封じ込めた曲、というのがあると思います。だから若い時に楽しいと感じた音楽、これをいつも生活のどこかに置いておくこと、で日々の励みにし、将来年老いた時もその音楽を聴くことで細胞がとても喜ぶ、なんていう自分なりの音楽療法が確立できると信じます。そのような意味でも好きな音楽は素通りせず、一生愛する音楽というものがあって良いように思いますし、そのように音楽が人生に関わっている、ということを人は学ぶべきだし、音楽の先生はそれを教えるべきである、と思います。


音楽が多すぎるんです。

一人三年に一曲でもいいんじゃない?

渾身の一曲。

 

 

あえて泥臭いアウトローでいたい

自分のやっていることをちゃんと社会で信頼してもらい、活用して学んでいただくためには博士号をちゃんと取得して、徹底的な権威の裏付けの元から展開していくべきです。世界的に活躍したいなら世界に出ていかないといけないし、日本で音楽学で仕事をするためにも博士号は最低限必須です。

だから高校生には留学を薦めています。皆英語がペラペラになって帰ってきて、自分が聞き取れない英語の動画などを"しょうがないなぁ"と言いながら訳してくれます。そして音楽のレッスンをしながら将来何を自分がすべきか、と何時間も話して帰ります。

音楽はとても重要ですが、もっと大事なのは人生をどう生きるか、ということで私のところに来る高校生はほとんど、なんとなく音楽が好きでやりたいことが見つかったから近所の音楽教室に来てみた、程度からスタートします。

そこでジャズ理論など学び始めたら、あれは面白いし深いから、1年などあっという間に過ぎてしまいます。もともとジャズ理論は5年ぐらいで学ぶような知の体系です。でも現代において5年間一つの事だけを勉強している余裕などあるでしょうか。

やはり勉強しながら仕事をしていくスピードでないと取り残されてしまうと思うのです。もちろんジャズ理論は5年で終わったとしても、そこから自分理論の創造が始まります。それは試行錯誤の連続で、教科書に書いていないこと、たくさんいる先生が誰一人教えてくれなかったこと、そして新しいテクノロジーとの出会い、などで「自分のやり方」ができます。だからむしろ自分のやり方を並行して今から作っていくほうが熟成も早いです。だから人の10倍好きなことを勉強しなさい、とかは言います。

楽しいことは勉強だとか思わないので、あとはその楽しいことを社会に役に立つものの中に見つけるためには、やはり感性がしっかりしていないと空回りしてしまいます。

私は40年間空回りしていましたから。漠然とした不満と不安です。それを解消するには勉強しかありません。

 

私が日本の社会に訴えたいことは、ワシントンDCの音楽総合施設「ケネディセンター」が発信している音楽ツールキットの中の言葉に全て含まれています。一部抜粋します。

・(前略)アートと世界の文化を同時に学ぶことで、われわれが住む世界の多様さを理解することができる。

・芸術は生きるために必要な力、例えば批評力、創造的思考力、問題解決能力、共同作業する力、持続力を養うことができる。

・芸術の体験を通じて、認知、感情、精神運動を司る神経回路を築くことができる。

・芸術は学校の学校環境を協働と発見の場に変えることができる。

 

チェリストのヨーヨー・マは「音楽を学ぶ」は音楽そのものをいかに学ぶかであり、「音楽で学ぶ」とは音楽を通して人間、世界を理解する、という視点があることを述べています。音楽が与えてくれる情報は、音楽だけでなく、様々なものが含まれていて、それを受け取れる感受性の豊かな人は、音楽を聴くだけで様々な多様性を自動的に学ぶことができる、と言い換えることができます。

 

つまり、音楽に興味のある人は、音楽を通してあらゆることが効率よく学べるわけです。

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