不定調性論が掲げたこと
まず自分が感じることを自分にちゃんと認める、ということでした。
自分が感じてることはあまりに自然なので最初は"気が付きません"。
そのまま他者に嫉妬したり、権威による刷り込みから、思考を知らず知らずに変えられ「自分が感じることを自分にちゃんと認める」が難しくなって大人になります。
やがて「自分が感じること」を丁寧に観察/表現することも恥ずかしく難しくなります。
そこで承認されやすい偉人の意見や、より正しいであろう先人の言説を引用し始めます。
それが悪いとは言いませんが、そうなる前に「自分自身のことも確立」させていく必要もあると思います。
好きな音楽を受容し、真似て展開する
自己を認められたら、表現物の生成への邁進です。
自分も、これができているのか未だ自信がありません。
最初はコピーやカバーから入り、少しずつ「自分がこうしたい」を実現して反映させます。結果的にオリジナリティが"自然と"現れます。
しかし個性が発揮されると、自分の欠点も満遍なく含まれるので最初は許容しがたいものです(人は認めてくれますが)。
私の策で恐縮ですが、
もともと写真からイメージして音楽を作る、という他愛のない行為が好きで、少しずつ写真をいただくようになり、刺激されどんどんアイディアを出し、作り込んでみました。
24曲の中に不定調性論的作曲技法が詰まっています。
表現活動は、ある程度強制される状況に自分を置いてやってみてください。
たとえ"売れない音楽"であったとしても、「自分の好き」はやはりあるわけで、それを研ぎ澄ますための生活を一時期送らないと表現者は遅かれ早かれ迷いの沼にはまっていくのではないでしょうか。自分の好きだけは人の目を気にせず抱き締めてください。
あなたのやり方は不定調性論的思考が認める
これを言ったがために、結構ヤバめの人が来校したりもしたのですが苦笑、犯罪を認める、というわけではなくて、音楽表現においてあなたがイメージしてしまう行為を不定調性論的思考が正当化できる、という意味です。
犯罪を実行すれば社会的制裁を受けることには変わりませんし、それを正当化したとしても社会は許してくれませんので、犯罪にせず作品にしてください。そこは努力。
苦しい時は誰かに頼って作ってもらう時も必要かも。
魚料理が食べたい、といっても魚がなければ魚料理は無理です。そのために魚屋に行くか、自分で釣るか、釣ってもらうか、そこも自分ができることを選択して工夫して行くしかありません。
自分が何に感応するか、ということから冷静に認めて行くことで、一番自分に近い表現物ができます。
その判断のヒントは「今すぐ何も考えなくても自分はそれができる」という種類の行為です。努力なくできちゃうこと、それが個性です。努力なくできてしまうので気がつかないんです。
2年勉強したらできる、みたいなものはあなたが今やるべきことではありません。
悲鳴に興奮するのでそれを音楽にしたい、とか。
川の流れる音に意味を感じるのでそれを音楽にしたい。とか。
ノイズとか、色とか、言語とか...etc
クオリア思考で、自分が意味を感じるものを捉えます。
いくつかの欲望の中で具現化しても犯罪にならない具現化行為から発信します(これが一番大変だ、という人もいます)。社会はマイノリティの人に厳しいですからね。
あなたが売れないのは、才能がないのではなく、売れる音楽よりも作りたいものがあるから、売れ線音楽を作ることに身が入らないのだ思うのです。
売れたければ今すぐ今の作業をやめて、売れているプロデューサーに弟子入りしてください。作曲事務所やコンペに応募し続ける日々に切り替えてください。
今の自分の状況は自分で決めた(自分が適切と思うものを選択した)結果です。
現状を悩む、と「自分が感じることを自分にちゃんと認める」ができません。
やっぱり、自分を信じるって難しい、そう私も日々思います。
まとめ
自分至上主義です。これは語弊がありますが、社会の中で、社会と自分を両方とも同じ高さで保つ、というような教育をあまり感じません。そもそも不可能なのかもしれません。
だからひっそりやってください。
黒魔術信仰と違い、自分が自分を表現し、それを仕事にするために頑張る行為ですから堂々と活動してください。
しかし法を破っては、自分の好きどころか、生きていくことすらできません。
だからそこに「工夫」が必要です。
ズルをするのではなく「工夫」「交渉」「弱点やフェチ、妥協案からの新たな創造」です。
伝統的価値観、社会の常識を最右翼にして、不定調性論はその最左翼となってみなさんの表現欲求とオリジナリティを応援します。
それが社会に全く意味のないことでも、あなたが楽しければまずはそれでいいんです。
それがビジネスでない、進化した哺乳類のみが実現可能な本来の芸術行動だと思います。
全てはそこから始まります。