音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

「リディアン・クロマチック・コンセプト」方法論を作るということ(その10/10):読書感想文

2019.7.4→2020.2.16更新

<前回>

www.terrax.site

 

リディアン・クロマティック・コンセプト

 

ラッセルを聴こう!

 

まとめです。方法論を作る、ということの性癖をどう捉えるか、について自分なりの意見を書きます。

 

 

■リディアンが主流になる事はイントアウトの概念の変質をもたらす

LCCが普及したとするならど、誰もがCM7においてCリディアンを選ぶことにもなるので、それはアイオニアンがアウトゴーイングとなることを意味します。

アウトであること、インであることを区別することはやはり、最初の平等理念に反しているのではないか、と感じます。

 

■リディアントニックを中心として、全ての音程に序列をつけること、重力を付けることについて

→音楽技法やジャンルに拠らず、あらゆる音楽を分析できる。

この手の形態分析は、よく用いられるやり方ですが、重力に向かっていく基準がジョージ・ラッセル氏の独断により定められたと言っても良い体系になっているので、ある意味では独自性を保っていますが、それを汎用するためには、他の方法論や他の解釈に異を唱えなければならず、ラッセル氏が掲げた差別のない文化が生み出しにくい思想になってしまう。

 

■12音何でもあり、解釈も自由とすることについて

→上記の二点を否定しても良し、となる点。

ここが一番厄介ですね笑。

私の意見ですが、これはラッセル氏の人柄が出たのではないか、と感じます。ここを差し引いて、上手に方法論を用いないと、「何でもOKだから何でもOK」となるだけでこれはむしろ弊害ですし、時間をかけて学んだ、ということに対する満足感が逆に失われます(前回のフリーの脅迫、です)。

それゆえに、規則づくめでも、それを用いることで誰もが聞いたことのある音楽を生み出せる伝統音楽理論の方が"学びがい"があることは言うまでもありません。

 

ただし、前回のオーネット・コールマンの思想のように、何かに意味があると信じ、それを頼ってしまうことは結局自分自身で何かを行うことから逃げてしまう、的な観点において、それは学んだことを頼りにしているだけ。と考えることもできます。現代では両方を理解する強さが必要ですね。何せ宇宙に出ようっていうんですから。

 

人にもいろんなタイプがいます。

1・研究して、過去の実績に基づいて新しいものを生み出せる人

2・独自の発想で生きたくて新しい何かを作りたがる人

3・研究するだけ、提案するだけで、生み出すということはしない人

4・研究も提案もしない人

これらもその人の性格とか人間性による生き方の選択で、どのレベルにあっても批判からは死ぬまで逃れられません。どこまで他者に真摯に向き合えるか、ですので、できる限り自分に合った生き方を信念として生きてゆくしかありません。

社会が1・を奨励するのはあたりまえで、それから漏れてしまう気質の人にとって人生は困難を極めます。

 

しかし、死ぬまでは無能で無知で無価値で全員平等、ぐらいの発想がオーネット・コールマンの音楽に宿る決定的な思想であり、これにより一応全部ひっくり返してくれたわけです(と信じています)。

誰もがコードに対する新しいアプローチを捜し求めていた時代に、そんなものがなくても自己表現は作れる、と言ってしまったのですから、まさに大リーグでいきなり中学生がホームランを連発するようなものです。理解を越えたものです。

コールマン氏への批判は身の毛もよだつものだったでしょう。

ハッタリだけのプレイ(無形式即興への安易な偏見)と最初からわかっているプレイ(これがすでに誤解だけど)を賞賛するのは愚か、としておかないと既得権益陣営の体裁がつかないからです。

 

私も、どちらかというと2番のタイプなので、2番の人は「過去の人が既にやっているのを君が知らないだけ」「伝統をちゃんと研究しないのに独自論など出してはいけない」という批判は絶えません。分かっててやっしまうのですから困ったものです。勉強もしていますが、作るほうが面白くなってしまうので、「ああ、これは性癖だ」と思い至りました。

 

LCCが方法論制作の答えを出してはいたのですが、内容が難解で独自性が高かったので、若かりし頃には全く受け付けませんでした。自分の独自性は好むのに、他人には一般性を求める、っていう質の悪い性格でした。というか意味不明でした。だから最初はLCCは読めませんでした。

でも今になって読み進むと、個人的感想ですが、手に取るようにその時々の気持ちが伝わってくるようです。気質的に自分と似ているのではないか、なんて思ったり。

落ち着かないと見えてこないものってたくさんありますね。

 

年の功で若い方に言えることは、自分が思いこんで決めつけていることは物事の100の側面の1しか見ていない、ということです。

信じられないでしょうが、あなたが信じていることは(ほぼ)あなたの妄想です。

だから何かを信じて信じつづけようとするのではなく、信じた先の行動を積み重ねていきましょう。

実際に勉強して、作品を作ったり、誰かと議論を交わしたり、その先に自分の論文作ったり、バンド作ったり、そうした行動こそが、ジャズが組み立ててきた精神だと思います。それをやっている間は無知でも無能でも前進しています。前進している人はサポートされるべきで、コールマン氏が生涯を掛けた人生訓でもあります。

不器用でも前進しようとする人をくじくのは無差別テロと言ってもいいでしょう。

 

そしてある命題がやってきます。

IM7でIリディアンを使う、というのはあくまで勉強の成果で、それで最高のフレーズができる、というわけではなく、時にはコールマンのように演奏してこそ「あなたの今の心にインゴーイングな」旋律が入ってくるかもしれません。

 

ラッセル氏はコールマンの気迫を見て、または自分でLCCを眺めて「インゴーイングの基準は人それぞれ違う」とどこかの時点で感じたのではないか、と私は思うのです。

 

それゆえにある段階で全てが可能、というやり方をくわえることでLCCを締めくくったのでは??などと感じてもいます。

当初存在した絶対的なリディアンへの重力(1950年前後)、と、後年現れたコールマン(1960年ごろ以降)が導き出した「自分であろうとする強い意思」という二つの魅力のはざまで方法論の最終的な着地点を見極めていたのかな、と思えてなりません。コールマンがあまりに衝撃的、魅力的で、あの時代の中にあってその不摂生で不協和なリフは、あの時代の殺伐とした人の心に最もインゴーイングであった、と感じずにはおれなかった・・。

 

などと書くとまた語弊がありますが、何を言いたいかというと、

方法論は常々変わっていく

ということで、これは方法論が必要によって生み出される、というよりもその人の気質によって生み出されるものであるから、それがなくても文化は何とかなるし、それは彼の生き方にすぎないので、考え方が変わって方法論が変わってもあまり社会的な問題が起きないわけです。ゆえに方法論を変えてしまい、また方法論にハマっていきます。

LCCが彷徨ったのはコールマンの存在があったからではないか?生まれた時代が少し早かったのでは?なんて感じました。

 

これから自分なりの音楽の表現方法の体系化をしたい!!新しい自分理論を作りたい!と思う方は、その信念の元になっているあなたの気質をよくよくお考え下さい。

「なんか自分論を作りたい気質なんだ」ってもし確信できるなら、肩ひじ張らずに作っていけるでしょう。よくわからない使命感だけで方法論作りをはじめてしまうと20-30年は人生をそれだけに費やすことになります。方法論の作成は命がけです。本人は「これが使命だ」と感じていますし、気質と欲望が合致するのですからめくるめく快楽感しか感じません。これは学習欲が満たされているのではありません。ただの性癖です。

私もそれに委ねて記憶のない年月を過ごしました。方法論思考に溺れた酒池肉林、とでも例えればご理解いただけるでしょうか?

重度のアルコール依存症と似ています。重度の方法論生成依存症です。アルコールは目にみえて症状が出ますから治療させようと周囲が動いてくれますが、こういう目に見えない依存症は病気と認定されていない分、本当に厄介です。

しかも出来上がった方法論は穴だらけで、現代なら20年掛けたものでも2分でツイッターで穴を見つけてもらえることでしょう。しかも根本的な間違いを。

なぜそうなるか、と言うと、その方法論は時代や社会やあなたの使命感がもたらしたのではなく、ただの性癖でできあがってしまった副産物だからです(極端ですみません)。方法論があるから凄いとか、ないから偽物だ、ということはありません。

なくてもちゃんと音楽を作れる人の方が多いです。むしろそれが多勢でしょう。

 

 

もしあなたがそれまで曲を作っていたのに、最近半年1曲も作っておらず音楽理論の学習だけをしていたら、方法論生成依存症である可能性があります。

まじめに言っています。

最近は他に「プラグイン依存症」とか「SNS依存症」とかもあると思います。

シンセの勉強していたら、プラグインの研究していたら、曲が作れなくなった的な。

ブログを書いていたら、曲が作れなくなった、とか。

まあ、それでもSNSで誰かの役に立つならまだ良いと思います。上手くいけば仕事になりますし。様々な音楽業があって良いと思います。まさにフリー。

 

方法論に限りません。先生なんて仕事をしていると、その人のこだわりがよく見て取れます。本人は信念とかって言いますが、やはり性癖の域を出ません。それにこだわるがゆえに上手くいかない事例のほうが多いです。

自分がそうだからなおさらそこに敏感です。受講生の気質そのままに人生が上手くいくように私は毎日仕事をしています。

 

この文章を20年前の自分に読ませても、私は同じ人生を歩いたでしょう。そのくらい性癖は強固です。私の場合は異常のレベルかもしれませんが、もっと凄い人もたくさんいるように感じます。

 

変な締めくくりですが、LCCはそういった観点からいろいろ差し引いて読んだうえで、あなた自身がどういう風に音楽をやりたいかにすぐ思考を移してみてはどうか、という提案をしたいです。または理解した上で期間を決めて方法論を作ってください。

3年ぐらい理論の解釈に時間を費やしている、とかっていう人は、出来れば一度ご相談頂きたいです。

できれば後押しをさせていただきたいです。

 

LCCを極めてもそれは、居候で二週間二階に住まわせてもらった、程度なので、何年そこに住もうといずれ仕事を見つけて体一つで出ていかなかなければなりません。

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私がこのLCCを読んで感じた最後のことはそういうことでした。

LCCが完成に向かうさなかにコールマンが台頭した悲劇、とでも言えばいいでしょうか。 絶対に破壊できないとされた音の序列を、一瞬で破壊してしまったコールマンの存在が、LCCを混乱に陥れた、とでも言えばいいでしょうか。

 

学習される方へ、LCCは、前半のバーティカルポリモーダリティを究めることでフリーの中にあっても面白いスケール選択の可能性から響きの探求ができるのではないか、という点を指摘したいと思います。

 

随時文章は修正して参ります。また私自身未熟なので、ご指摘を頂きながら、表現や思考を改めてまいりたいと思います。

 

==コーヒーブレイク〜M-Bankロビーの話題== 

もっと哲学を勉強しておけば、良かったな、って感じました。「道徳」という授業が悪い印象を与えていたのかもしれませんが、哲学はやはり学問の元祖だと思います。国語算数理化社会は哲学の一側面を特化したものにすぎないのでしょう。

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