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音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

「リディアン・クロマチック・コンセプト」方法論を作るということ(その10/10):読書感想文

<前回>

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リディアン・クロマティック・コンセプト

 

ラッセルを聴こう!

 

極力同著の画期的なアイディアについて他の評論とは異なる見解を書き、同書の価値を損ねることなく、各位が直接同書に当たり独習することを勧めていこうという意図で書きました。

万一著作権等々において同書の価値を損ねる可能性のある文言などがあります場合はご指摘ください。

まとめです。方法論を作る、ということの性癖をどう捉えるか、について自分なりの意見を書きます。

 

 

■リディアンをベースにコードスケールの独自性を追求することについて

→他の人とは違うスケール選択ができる。

しかし、LCCを波及すればするほど、誰もがCM7においてCリディアンを選ぶことにもなるので、LCCが劣勢であるからこそ、その特異性が際立つ、という側面を持っています。CM7においてリディアン以外を選択することはどんどん「アウトゴーイング側」の選択をせざるを得なくなり、一つの中心を設ければ設けるほど、均一な選択が行われてしまう。

 

■リディアントニックを中心として、全ての音程に序列をつけること、重力を付けることについて

→音楽技法やジャンルに拠らず、あらゆる音楽を分析できる。

この手の形態分析は、よく用いられるやり方ですが、重力に向かっていく基準がジョージ・ラッセル氏の独断により定められたと言っても良い体系になっているので、ある意味では独自性を保っていますが、それを汎用するためには、他の方法論や他の解釈に異を唱えなければならず、ラッセル氏が掲げた差別のない文化が生み出しにくい思想になってしまう。

 

■12音何でもあり、解釈も自由とすることのについて

→上記の二点を否定しても良し、となる点。

ここが一番厄介ですね笑。

私の意見ですが、これはラッセル氏の人柄が出たのではないか、と感じます。ここを差し引いて、上手に方法論を用いないと、「何でもOKだから何でもOK」となるだけでこれはむしろ弊害ですし、時間をかけて学んだ、ということに対する満足感が逆に失われます(前回のフリーの脅迫、です。これは現状の社会においての脅威ですので無視されるでしょう)。

それゆえに、規則づくめでも、それを用いることで誰もが聞いたことのある音楽を生み出せる伝統音楽理論の方が"学びがい"があることは言うまでもありません。

   

ただし、前回のオーネット・コールマンの思想のように、何かに意味があると信じ、それを頼ってしまうことは結局自分自身で何かを行うことから逃げてしまう、的な観点において、それは学んだことを頼りにしているだけ。と考えることもできます。現代では療法を理解する強さが必要ですね。何せ宇宙に出ようっていうんですから。

 

人にもいろんなタイプがいます。

1・研究して、過去の実績に基づいて新しいものを生み出せる人

2・独自の発想で生きていきた過ぎて新しい何かを作りたがる人

3・研究するだけ、提案するだけで生み出す、ということはしない人

4・研究も提案もしない人

これらもその人の性格とか人間性による生き方の選択で、どのレベルにあっても批判からは死ぬまで逃れられません。どこまで他者に真摯に向き合えるか、ですので、できる限り自分に合った生き方を信念として生きてゆくしかありません。

社会が1・を奨励するのはあたりまえで、それから漏れてしまう気質の人にとって人生は困難を極めます。

 

しかし、死ぬまでは無能で無知で無価値で全員平等、ぐらいの発想がオーネット・コールマンの音楽に宿る決定的な思想であり、これにより一応全部ひっくり返してくれたわけです(と信じています)。

誰もがコードに対する新しいアプローチを捜し求めていた時代に、そんなものがなくても自己表現は作れる、と言ってしまったのですから、まさに大リーグでいきなり中学生がホームランを連発するようなものです。理解を越えたものです。

コールマン氏への批判は身の毛もよだつものだったでしょう。

ハッタリだけのプレイ(無形式即興への安易な偏見)と最初からわかっているプレイ(これがすでに誤解だけど)を賞賛するのは愚か、としないと既得権益陣営の体裁がつかないからです。

 

私も、どちらかというと2番のタイプなので、2番の人は「過去の人が既にやっているのを君が知らないだけ」「伝統をちゃんと研究しないのに独自論など出してはいけない」という批判は絶えません。分かっててやっしまうのですから困ったものです。勉強もしていますが、作るほうが面白くなってしまうので、「ああ、これは性癖だ」と思い至りました。

それでも同じような人は全国から集まってくるのですから不思議です。

ずれないように頑張りたいです。

 

LCCが方法論制作の答えを出してはいたのですが、あまりに内容が不可解で難解で独自性が高かったので、若かりし頃には全く受け付けませんでした。自分の独自性は好むのに、他人には一般性を求める、っていう質の悪い性格でした。というか意味不明でした。だから最初はLCCは読めませんでした。

でも今になって読み進むと、個人的感想ですが、手に取るようにその時々の気持ちが伝わってくるようです。気質的に自分と似ているのではないか、なんて思ったり。

落ち着かないと見えてこないものってたくさんありますね。

 

年の功で若い方に言えることは、自分が思いこんで決めつけていることは物事の100の側面の1しか見ていない、ということです。

信じられないでしょうが、あなたが信じていることはあなたの(ほぼ)妄想です。

だから何かを信じて信じつづけようとするのではなく、信じた先の行動を積み重ねていきましょう。

勉強しよう!という思いは、立ち止まっていることだと思います。

実際に勉強して、作品を作ったり、誰かと議論を交わしたり、その先に自分の論文作ったり、バンド作ったり、そうした行動こそが、ジャズが組み立ててきた精神だと思います。それをやっている間は無知でも無能でも前進しています。前進している人はサポートされるべきで、コールマン氏が生涯を掛けた人生訓でもあります。

不器用でも前進しようとする人をくじくのは無差別テロと言ってもいいでしょう。

 

そしてある命題がやってきます。

IM7でIリディアンを使う、というのはあくまで勉強の成果で、それで最高のフレーズができる、というわけではなく、時にはコールマンのように演奏してこそ「あなたの今の心にインゴーイングな」旋律が入ってくるかもしれません。

 

私はきっと、ラッセル氏はコールマンの気迫を見て、または自分でLCCを眺めて「インゴーイングの基準は人それぞれ違う」とどこかの時点で感じたの思うのです。

 

それゆえにある段階で全てが可能、というやり方をくわえることでLCCを締めくくったのでは??などと感じてもいます。

当初存在した絶対的なリディアンへの重力(1950年前後)、と、後年現れたコールマン(1960年ごろ以降)が導き出した「自分であろうとする強い意思」という二つの魅力のはざまで方法論の最終的な着地点を見極めていたのかな、と思えてなりません。コールマンがあまりに衝撃的、魅力的で、あの時代の中にあってその不摂生で不協和なリフは、あの時代の殺伐とした人の心に最もインゴーイングであった、と感じずにはおれなかった・・。

 

などと書くとまた語弊がありますが、何を言いたいかというと、

方法論は常々変わっていく

ということで、これは方法論が必要によって生み出される、というよりもその人の気質によって生み出されるものであるから、それがなくても文化は何とかなるし、それは彼の生き方にすぎないので、考え方が変わって方法論が変わってもあまり社会的な問題が起きないわけです。ゆえに方法論を変えてしまい、また方法論にハマっていきます。

   

これから自分なりの音楽の表現方法の体系化をしたい!!新しい自分理論を作りたい!と思う方は、その信念の元になっているあなたの気質をよくよくお考え下さい。

「なんか自分論を作りたい気質なんだ」ってもし確信できるなら、肩ひじ張らずに作っていけるでしょう。よくわからない使命感だけで方法論作りをはじめてしまうと20-30年は人生をそれだけに費やすことになります。方法論の作成は命がけです。本人は「これが使命だ」と感じていますし、気質と欲望が合致するのですからめくるめく快楽でさえあるでしょう。私もそれに委ねて記憶のない年月を過ごしました。

今風に言えば重度のアルコール依存症と似ています。重度の方法論依存症です。アルコールは目にみえて症状が出ますから治療させようと周囲が動いてくれますが、こういう目に見えない依存症は病気と認定されていない分、本当に厄介です。

しかも出来上がった方法論は穴だらけで、現代なら20年掛けたものでも2分でツイッターで穴を見つけてもらえることでしょう。しかも根本的な間違いを。

なぜそうなるか、と言うと、その方法論は時代や社会やあなたの使命感がもたらしたのではなく、ただの性癖でできあがってしまった副産物だからです(極端ですみません)。方法論があるから凄いとか、ないから偽物だ、ということはありません。

なくてもちゃんと音楽を作れる人の方が多いです。むしろそれが普通でしょう。

 

方法論に限りません。先生なんて仕事をしていると、その人のこだわりがよく見て取れます。本人は信念とかって言いますが、やはり性癖の域を出ません。それにこだわるがゆえに上手くいかない事例のほうが多いです。

自分がそうだからなおさらそこに敏感です。受講生の気質そのままに人生が上手くいくように私は毎日仕事をしています。

 

この文章を20年前の自分に読ませても、私は同じ人生を歩いたでしょう。そのくらい性癖は強固です。私の場合は異常のレベルかもしれませんが、もっと凄い人もたくさんいます。

 

変な締めくくりですが、LCCはそういった観点からいろいろ差し引いて読んだうえで、あなた自身がどういう風に音楽をやりたいかにすぐ思考を移してみてはどうか、という提案をしたいです。

LCCを極めてもそれは、居候で二週間二階に住まわせてもらった、程度なので、何年そこに住もうといずれ仕事を見つけて体一つで出ていかなかなければならないです。与えられたもので生活できる方が体裁があるぶん、社会は認めてくれやすいです。それがないのが自己の生き方で生きる、ということだと思います。

 

やっぱりコールマン、っていうのは方法論作成者にとって脅威であり、一つの導きです。それは変わらないかも。自分を信じすぎる人、実績の上に実感を持っていきたい人には嫌われるかもしれません。

だって本当は「今現在」しかないんですから。そんなん認めたくないですよね、だってこれまであんなに頑張ってきたのに、今現在だけで評価されたら、なんかすごく嫌、っていう人、多いと思うんです笑。

 

過去を大切にしたい人にはコールマンの音楽は全くパンチのない話でしょう。今現在しかないから。でもあれは「気づけよ」って言ってくれてる音楽です。

これが理解できないお前の方法論はどんだけのものなんだ?俺と一緒にやってお前は俺を超えられるか?みたいな激励をちゃんと受け入れられる人になりたいです。

 

そういう概念を作って世の中をひっくり返したってことは凄いと思いません?

虚無主義ではないです。今現在しかないんだ、っていう価値の手放し方の凄さです。

そして実際それが音楽に乗ってるって、強烈なクオリア刺激をしてくれるのでコールマンは好きです。コールマンのフリーだけは好きです。

 

私がこのLCCを読んで感じた最後のことはそういうことでした。

こういうことを最後に感じる人は少ないかも、と思い今回、方法論を作る、という観点を含んだ譜読書感想文を書かせて頂きました。

 

随時文章は修正して参りますので必要なことだけをピックアップ頂ければ幸いです。

 

 




 

 

==コーヒーブレイク〜M-Bankロビーの話題== 

もっと哲学を勉強しておけば、良かったな、って感じました。「道徳」という授業が悪い印象を与えていたのかもしれませんが、哲学はやはり学問の元祖だと思います。国語算数理化社会は哲学の一側面を特化したものにすぎないのでしょう。

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