音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

「リディアン・クロマチック・コンセプト」方法論を作るということ(其の8/10):読書感想文

2019.7.7→2020.2.16更新

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リディアン・クロマティック・コンセプト

 

ラッセルを聴こう!

 

 

音楽を通して世界を考える

対談;ジョージ・ラッセル 武満徹

「へるめす」1988年No.15より転載(岩波書店 刊)

 

P134 ラッセル氏の言葉

なぜかと言えば、"重力"は科学と芸術のすべてを統一しているからです。(中略)"重力"は音楽にも存在すれば建築にも数学にも存在するはずです。すべてのものは落下し、中心に引きつけられる---それが全てを統一する共通の言語なのです。

LCCの根底にある発想ですね。この発想がもし無かった状態でLCCを作った時に、現在のLCCの形態になりえたか?がとても重要です。

 やはりこの重力・引力という発想をもとにして生まれた方法論である、と考えて勉強した方が納得がいくのではないでしょうか。

いよいよ地球人は宇宙に出ていきます。だから重力があってもなくても人々は共に手を携えらえる方法論が必要な時代となりました。LCCは当時のままの姿を備えていますが、やはり後継者は、現代の時代にあった方法論に進化させても良いか、という許諾をラッセル氏から受け継ぎ進化させていく許可をもらわねばならないでしょう(今となっては誰にそれを仰げばいいのか)。

 

P134-135 ラッセル氏の言葉

近代科学のおかげで我々の生活は楽になり、居心地良くなりました。しかしそこには何かが欠落しているような気がします。人間は気狂いじみた焦燥感にかられてどんどん新しい機械を発明しようとしています。本来の目的がそうでないにしても、人類の滅亡を招く可能性があると思うのです。

 そこで私は、何らかの音楽哲学を通して異なる分野の人間-芸術家、ビジネスマン、医師、精神科医--の統一ができないだろうか、と考えたのです。

 今聞いてもあんまり世界は変わっていないような。

ここに「統一」という言葉が出てきました。これがLCCの統一理論的な側面に通じます。やはりこういう信念を持っていたのでしょうか。それとも方法論を作りながら、こうした信念に目覚めたのでしょうか。

でも本当に統一を目指すなら、先に平和活動の方から入るはず、などと穿った見方をすれば、やはりLCCという理想世界が創る信念を自身が構築する過程で、世界そのものも変えられないか、という考え方を持つに至ったのでは???なんて思えてきます。

でもこういう精神はなかなか表明できないですよね。ミュージシャンは皆、志が高いんですよね、本当は。

 

P135  ラッセル氏の言葉

西洋の音楽理論には統一性---コード・スケール・ユニティ---の概念が欠如していることを、リディアン・コンセプトが教えてくれました。つまり、我々は何かが欠落している社会に住んでいるのだということをね。

この言葉がLCCを最も斬新な発想に駆り立てていたと感じます。

また当時の「気狂いじみた焦燥感」を生んだ背景には、こうした誤った前提があったからだ、という発想になっても分からなくもありません。

こんなことに気が付いて、「この方法論で世界も全てうまく行く」と思えるようなことはクリエイターにとってはとんでもない美酒です。

 

P135  ラッセル氏の言葉

私は、人々に音楽は芸術分野のひとつにすぎない、という考えを変えてもらいたいのです。音楽とはもっと本質的なもので、人類について何かを語ろうとしている、ということをわかってほしいのです。

量子力学がもし素粒子の最終形態が粒ではなく振動による残像で出来ているものを「粒」だと思っている、というひも理論のような考え方によってすべてが解明されれば、万物は振動によってできていることになるので、生命体も、感情も、脳も何もかも共鳴によってできていることになります。

大切なことは、それを方法論に落とし込めた、という事です。

もし振動が世界を作っていれば、短三和音が悲しいのは、悲しいと感じる脳内物質の形成される振動数と比率が似ているから、かもしれません。そうなれば、それは悲しみであって当たり前ですね。

ラッセル氏が言いたいことはそういうことであって政治的な意味とか、良いこと言った的なその場しのぎのリップサービスではないと思うのです(無意図的に含まれたニュアンスもあるでしょうが)。

それが方法論について考え尽くした人の考え方ではないかな??

なんて変な共感をしてしまいます。私はまだひよっこですが。

 

P136 武満氏の言葉

具体的に自分の音楽の方法、つくり方について言えば、ラッセルさんの音楽のお考え方、ことにリディアン・コンセプトの影響がとても強いんです。ぼくの音楽はパン・モーダルなパン・トーナルなトーナリティというものを目指しています。

 この言葉をどの程度の人が理解できるか分かりませんが、垂直的にも水平的にも自在にモードが選べるLCCの概念と、理論化された存在としての当時唯一であったLCCにまるで一縷の望みを抱くかのような武満氏が終始賞賛する言葉が印象的です。12音技法の音楽でさえもある種の中心を作家自身が自分の感性で設定できる、というような考え方が魅力的でないはずがありません。

ただし、武満氏には音楽のイメージがあった上で、それまで誰もその音楽方法論を理知的に指摘できなかったのに、LCCはびしっと多調性の中に生まれる美意識の存在を肯定できる要素がある、という点に希望と賞賛を感じたのではないか、と私は思いました。それを示す言葉に次の言葉があります。

 

P137  武満氏の言葉

ともすると演奏者が自分がなにをやっているのかよくわからない、ということが起こる。(中略)たとえば第1バイオリンなら第1バイオリンの人が自分はなにをやろうとしているのかよくわからないというような音楽、いうなれば作曲家の個人的な美意識のゆえにみんなが犠牲になっているような音楽が多いわけです。

これは経験に基づく言葉なのでしょうか。

こういった環境での仕事のジレンマの中において、その未知の作品の美意識を表明できる方法論と銘打たれたLCCに対してオアシスのような感情を抱いても不思議ではない、と感じました。奏者が曲に対する美意識を理知的に共有できたり、数値や理論的概念で共有する事すら可能ではないか、とLCCの外見が示しているからではないでしょうか。

 

P139 二人の言葉

武満 具体的に自分の音楽の方法、つくり方について言えば、ラッセルさんの音楽のお考え方、ことにリディアン・コンセプトの影響がとても強いんです。(中略)そうした考え方は、ラッセルさんからの強い影響の結果だと思います。

ぼくは、いつでも、どこででも、ぼくの音楽はジョージ・ラッセルからの影響を受けている、と言っています。

 

ラッセル リディアン・クロマチック・コンセプトの話だけではなく、ご自分が影響をうけたものについて語ることができるのは、武満さんが本当に心の広い、誠実な方だからです。ほとんどの人間は、自分の受けた影響を隠し、認めたがりません。

とくにアメリカ人の悪いクセかもしれませんが、「あの人に教えられた」とはなかなか言うことが出来ません。自分の演奏スタイルはもって生まれたもの、または自分が発明したものだと世間に思われたいのです。

現代では隣近所で普通に起きています。

武満音楽のエッセンスがジョージ・ラッセルの先進性に影響を受けていた、なんて認めるのがチョット抵抗ある、という人もあるかもしれません。それは国粋主義っぽいですよね。現実はもっとぐちゃぐちゃしているはずです。

 

LCCの内容うんぬんよりも、全く違う形式で音楽表現を統合しようとした、それまでにない発想の姿は、確かに神々しいです。当時リアルタイムであったら、どれほどビビったでしょう。

 

 

 P140 二人の言葉

ラッセル (中略)時々、どうしてこんなライフ・スタイルに耐えて。こんなものを作らねばならないのか、どうしてこんな使命を担って生まれてきたのか、と思うことがあります。(中略)

武満 でも、そうしたアンビヴァレンス、矛盾がいつも表現を生むんでしょう。

こんな大御所とは比較にならないですが、わかりみが深すぎて尊いです笑。なんで自分は30年も不定調性を、って思うと、ラッセル先生は「40年」て同著では書いてるし笑。。まだまだだ自分。

このラッセル・武満対談は、過去の話し感があるのと同時に、人々が抱く危惧はきっと古代ギリシャから同じだったのではないか?みたいに思わせる文化人の対談でした。

概念についての話だけに分かりづらいと思いますがすごく頷いてしまいました笑。

  

ジョージ・ラッセルのリディア概念 武満徹 (P142)

 「へるめす」1988年No.15より転載(岩波書店 刊) 

 音楽について語るのは容易ではない。語る当人(たち)にも、また、それを読む者にも、しばしば、満ち足りない思いが残る。(中略)言語を通して語られる「音楽」は、感覚に直接働きかけることはない。

不定調性論では、音楽を独自の言語にすることを恐れません。「小さな黒い塊のような無意味さを持つ旋律」といった、音が呼び覚ます自分独自のイメージをそのまま言葉にします(これが拙論独特?で、つまり少数の人しかやらない方法だったと気が付くのが遅かった)。これは共通言語ではなく、自分自身にだけ理解できる感覚のある言葉であればOKです。そこからどう相手に分かるように伝えるか(音楽と聴き手・社会とのホットライン)は普段の音楽教育・産業的構造で結構行われてきて進化している(PV、ライブステージ、CDジャケット)と思います。

それよりも作り手と音楽をつなぐホットラインがあまり重視されなかっただけではないでしょうか。作曲家が何を考えていようが、ジャケット作ってしまえばそれが作家の言葉を代弁したものになる、アーティスト、アイドルの想いになる、してしまう、というやり方です。具体的にアイドルが何を考えて歌って、CDを作り、表に立って販促をしているのかまでは伝わってこない、というわけです。

そしてそういう個人的想いが今SNSなどで発信されるので、逆に良くも悪くも魅力的なのでしょう。その言葉がCDのイメージどおり、ライブのMCのイメージ通りでは面白くありません。

問題はそれをもっと適切に表現していくことのできる表現力であると思います。

今は誰にでも通じる言葉、社会的用語、一般的価値観によって語られていますが、

個別的な表現に近いところで、その思いや表現が(芸術的表現??)生み出せたらすごくいいだろうな、と感じます。この辺を今私たちはSNSで鍛えているのかもしれませんね。SNSが廃れる時は、個人それぞれが真に尊重された時ではないか、と思います。

果たしてそんな時代は来るのかな。

 

たとえば「輝かしい廃屋」みたいな意味の解らない言葉でも、それぞれの単語が持つ懐かしさや、匂い、雰囲気が自分の中にじんわりと沸き起こると思います。

それが感じられるなら、音楽も自分だけの言語に置き換えられます。それはあなたにしか通じないけどあなたにしっくりくる表現です。

芸術は、もっと社会に役に立つものだ、と思いたいところですが、脳が計算した人智を越えた宇宙性みたいなものがある未知な存在としか思えません。それを理解しようと思えば、一般社会的な理解では到底意味は分からず、自分の体を構成するもっと太古の昔から持っている感覚のほうで理解しようとしないといけないのではないか、という意味です。そしてその感覚と、一般社会で競り勝ち、稼いで、刹那的な快楽を得る事とはまるで違う感覚であり、必要性や危急性がなかなか感じられないので、序列が後回しにされている時代に生きているのだと思います。

武満氏の「容易ではない」という言葉をどのくらい深く理解できるか、みたいなことが本質なのかなと思いました。

 

私がはじめて目を通したものは、未だプリントされていない、タイプ・コピーだった。(中略)当時の私の語学力では、それを完全に読みこなすことができなかった。それでも、辞書を手に、幸いなことに多くの譜例があったので、ラッセルのアイディアに圧倒されながら、ひと月ほどで、読み了えた。

ぉぉぉ、、、本当に読んだんですね的な。本当にそういう音楽表現方法論のありようについて武満氏は興味があったのだな、と感じさせます。

 

ラッセルは、たぶん、ジャズにおける即興が、時に、あまりにも垂直的で、音楽的な水平的なもの、即ち、官能性(本質的にスウィングするもの)を持っていることに不満足で、これを著したのだろう。

 

これも、おぉぉぉ、って感じです。よほどコードの縦解釈が流行っていたのでしょうか。イングヴェイが登場した後、雨後の筍のように速弾きキッズが現れたのに似ています。でもみんなの音楽性が低かったのではなく、その後みんなそれぞれの音楽に辿り着いていきます。だから当初は「誰もかれも時代は速弾き」でしたけど、それはどんどんそれぞれ各位の音楽性に近づけていく呼び水に過ぎませんでした。だからジャズの硬派なバーティカル(垂直)処理もきっとその後それぞれの音楽性に導かれていったことでしょう。"不満足"というのは、刹那的な芸術家の思いですが、それに急かされる時代の空気感、とか、平和が押しつぶされるような世界の動向、みたいな危機感に起因するようなものをより強く感じます。

 

 

しかしながら「水平性」はとてつもなく玄人的な感覚が必要です。

ポップスでいうと、このAメロの後、こんなふうにBメロが来て、こういうサビに行く!!

こういうのは毎月30曲下書きします、という作曲家でないと養われない感覚です。

だから最初は垂直的な解釈とその理解、その連鎖、になって当然かと、そこから水平的な意味の連鎖のアンバランスに少しずつ気が付けるようになっていきます。

 

だから水平的にバランスがとれていない、と感じることのできる武満氏やラッセル氏などは少数派であったでしょうし、皆、それをいきなりは理解できずとも必死に必死に音楽を行うことで何十年も過ぎると、ようやく音楽の横のつながりが持つ意味性が少し見えてくる、というほうが普通です。対位法などでがっちりルールを決めて縦横のつながりを統一した価値観で作れるようになり、美意識を持てるようになっても、それは作られた美意識を会得しただけで、じゃあ、その会得した美意識は本当にあなた自身という個人の持つ美意識を反映しているの??というと急に怖くなるやつです。

 

そのような意味でも、"水平的に音楽を作れる音楽方法論LCC"など、なかなか理解納得のできる要素が一般的な価値観で伝わっていたと思うことが私はできません。

 

リディア調が、ジャズ音楽を特色あるものにしている一つの重要な要素である、ブルー・ノオトとかなり密接な関係にあるのは、注目に値する。そして、リディア調を核として、そこから支流のように派生する多種の旋法を有機的に組織し、汎調性的(パン・トーナル)な思考(言語)をジャズの即興演奏に導入したラッセルの業績は、真に偉大だ。

この部分が理解できる人がどのくらいいるのかなぁ、、とかって考えてしまいますが、世界のタケミツトオルにかように賞賛されてしまっては、LCCの音楽方法論の実際も変質してしまっていた事でしょう。

この「ブルー・ノオトとの密接な関係」というのはリディアンが持つb5thのこと=#11thや、LCCで人工発生させるホリゾンタルスケールの一つである、『アフロアメリカンブルーススケール』の存在との関連について示唆としか読みようがないのですが、LCCがブルーノートを創り出している、と言ってしまうと、やっぱり言い過ぎですし、ブルーノートは戦前からそこにあったし、音程は不明瞭な存在で、「音階」になったのはブルースとラグタイム、ガーシュインなどが全て登場した後のピアノ音楽で、すでに慣習に刷り込まれたあとです。

ところでなぜ「アフロ」という言葉をスケール名に用いたのか、先生に聞きたいです。

ラテン語のアフリカ、の意味らしいですが、LCCに必要だったのかな、とか、本来のアフリカ人のスケールってもっとシンプルな数音音階じゃないのかな?とか思ったりしません?そして失礼ですが、なんとなく「え?なんかカッコイイ単語付けたかったんじゃね?笑」とかって思ったりしてしまうんです。別に良いのですが、いきなり"ロックキッズ"になるこの命名が少し微笑ましいな、と。この音階名を読むたび、もっと軽い気持ちでLCC読んでもいいのかな、と思わせるロックな命名だと思いませんか?

 

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ブルーノート表現が「カッコイイ」と刷り込まれた後に、「なぜそれがカッコ良いと思えるのか」について改めて考えているのが『ブルーノートと調性』だと思います。

さらにフュージョン音楽ではブルーノートを独立させてしまうやり方なども生まれ(旋律で使用するのではなく和音で利用する=カラートーン等)、全く違う表現の化学反応になってしまいます。

現代ではそれすら慣習に刷り込まれたジャズミュージシャンも多いでしょう。

 

ゆえに、これから音楽理論、ジャズ理論、ブルース研究をしたい、という人にとってはちょっと注意が必要です。ブルーノートには、

・元来の黒人歌謡の使用音とキリスト教聖歌との関連で発生した黒人教会音楽に見られる独自の歌謡音程としてのブルーノート

 ・それらが飲み屋街に出てブルースとして白人音楽との融合で形骸化しリック化されたブルースフレーズとなったブル―ノート→現代のロック・ブルースフレーズの元祖、ペンタ一発!!的なフレージングやジャズブルースなどのリック音楽表現

・それらから音階化されたマイナーペンタトニック+ブルーノート(W.サージェント)から独立化したブルーノートとジャズでカラートーンとなって、不協和的に使用される半音化されたブルーノートの発展的利用=ブルーススケールの水平的活用=『ブルーノートと調性』の基本主題もここ。

 

という三つの形式があり、さらに変態的な利用として「ブルーノートの独立使用、和音への使用=セロニアス・モンクやコルトレーンなどが推し進めた垂直・水平使用の並立」というニッチな世界があります。

もしあなたが、LCCからブルーノートの解明に挑むと、必ず『ブルーノートと調性』やW.サージェントの著作に行き着きます。ブルーノート研究は、全く別の研究だと思って頂けると良いと思います。

 

拙論では第六章がそのままブルース研究になっています。拙論では、機能和声論が五度、ブルース=民族音楽が四度、という「歩幅の単位の違い」による差異によって七音音楽、五音音楽の違いを表出できる、という考えから、二つを言語の違う同じ音楽として扱うことができます。

こういった統一の欲求はラッセル氏が思い描いた音楽の統一と同質のものであったのではないか、と今にして思います。

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拙論はこの辺りから解説しています。

 

次の機会には、もっと具体的な対話を、そして、長時間、かれの話を聞いてみたい。

 

武満氏の文章は、こんな言葉で締めくくられています。 凄い衝撃だったんだろうなぁ、ということが伝わってきますね。

 

その9

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==コーヒーブレイク〜M-Bankロビーの話題== 

本文でも紹介したサージェントの著作です。震えました。

ジャズ―熱い混血の音楽