音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

<論文を読む4>音楽心理学の動向について-音楽知覚,音楽と感情,音楽療法を中心に(2)

参考

www.terrax.site

本日もこちらを読んでみましょう。

音楽心理学の動向について:

前回

www.terrax.site

の続きです!

引用します。P6

3. 音楽と感情
音楽や感情は,全ての人々が関心を抱く対象である。両者ともに我々の身近にありながら,両者の関係を探る研究は,決して順調に進んでいるわけではない。その理由の一つは,感情を実験室で扱うことに非常な困難が伴うことである。もう一つの理由は,音楽には拍子,リズム,調性,和声,旋律,形式,様式といった楽曲の特性が混在していることと,気分や美的体験といった聴取側の状態が大きく音楽に対する評価を左右しうることである。

やはり研究の現場でも同じなんですね。この立場や見解についてはこのブログでもその通りに解釈して記してきましたね。

 

同P6

音楽における規則性から作られる予測や期待は,音楽を聴いたときに生ずる感情とも関係すると言われている (Slobodaと Juslin, 2001,Juslin, 2009; Trainor と Zatorre, 2009)。

 

つづいて

例えば,機能和声を用いて作られた曲においてドミナントの和音はトニックに解決すると予測されるし,4 拍子の曲において強拍と弱拍は周期的に繰り返されて連なっていくことが予測される。このように予測や期待を生じさせるような文脈の中で,作曲家は時折,聴取者の予測を裏切るような音を用いる。こうして,それまでの音楽的文脈からの予測が裏切られたときに,聴取者は緊張を感じ,感情的な反応が生ずると考えられている (Meyer, 1956; Levitin,2006)。予測の裏切りに関する操作が感情的な反応を生むとする考えかたが科学的に実証されるようになったのは近年になってからであるが (Steinbeis ら, 2006; Sloboda と Juslin, 2001; Trainor と Zatorre, 2009),この考えかたは旋律や和声やリズムについて幅広く当てはまると考えられ (Large, 2008),後に紹介するように音楽療法の現場においては劇的な例が示される場合もある。

これも言わずもがな、でございます。

f:id:terraxart:20190414123722p:plain

 

この手の感情分類についてはわたしも大学の頃、ノートに書いたことがあります。でも同じ曲の同じフレーズでも前後の人生体験によって、違う感情が浮かんでくるし、違う模様感を感じます。

音楽+感情=印象

であったとしても、これはとても複雑な変数を持った関数であり、とても音楽屋が解けるようなものではないな、という印象を持ったものです。

そこで

・感情で分類するのではなく、出てくる感情や印象によって自己を理解できるツールが音楽である、という逆方向からの発想で音楽を行うことが音楽を行う側には好都合だな、と感じました。

本当にその曲を聴いて万人の憂いが晴れるのなら、もっと世界はシンプルだったはずです。絶望的なほど人は一人一人違うから、統一するためには法律が必要なんだと思います。

そして同時に音楽理論書も

「大作曲家がこれを良しとしたのだから、お前ら下々の者はこれに従っていれば良い」

という法を作ることで、後世を封じたのだと思います。

しかしこれは一つの側面に過ぎません。

統治をするための法、

芸術表現の法

は全く違う体質を持っているべきであると思います。

これをやったら悪魔が現れると信じていた時代の法の雰囲気を現代に活用してもそれは、「なぜ現代の日本人は元服の儀式を昔のようなやり方で行わないのか」と問うようなものです。

芸術表現の法は、法律ではないので、それを犯しても罰せられません。しかし一人一人が自分に毎曲毎曲定める法であると思います。それと法律的存在をごっちゃにしているのが現代の音楽理論教育です。

一方では、これが正しい、と掲げられ、一方では「我々は自在にあるべきだ」と唱え、対立します。これは統治の法と芸術の法のスタンスの解釈のぶつかりであり、本来全く違う存在を同じフィールドでぶつけていて、それに気がついていない人もあると思います。

バッハより素晴らしい才能を持った人だっていたはずです。それを伝統技法を楽聖を統治の法のごとく見せかけ封じることで「バッハ」を絶対的に崇め、後世を顔のない権威によって封じたのです。それで得したのはバッハではなく、その当時音楽を教えた教師たちだけです。

それによって過去の音楽の価値は上がったけれど、後世の音楽の価値は相対的に下がっていく十字架を与えられたわけです。

 

だから私は音楽理論書は、後世の価値を高めるような文言をつねに追加していって、どのように自在であるべきか、講師の時代に成しえなかったことをどのように後世に託すか、というメッセージを常に追加しないと、音楽理論書はただの覚えなければならないだけの法典になってしまいます。

 

====

またこれも大事です。同P8

3.3. 言葉の収集による一考察
「音楽は感情を伝達できる」とする先行研究に対し(Gabrielsson と Juslin, 1996; Senju と Ohgushi, 1987),古根川ら (2009) は音楽で伝達できる感情が本当にあるのか,また,それはどのようなものなのかを調べるため,感情を表わす言葉の収集を行った。音楽指導者の群と音楽を専門にしない学生の群に音楽で表現できると考えられる感情を思いつくかぎり 5 分間書きださせるという実験を行った結果,「楽しい,悲しい」の出現時間と出現順位とが早いことを見出した。さらに,音楽で表現できると考えられる感情と,人が普段日常生活で表現している感情とに違いがあるのかを確かめる実験を行った結果,音楽で表現しうる感情は,我々が日常で感じる感情とほぼ同質のものであることがわかった。この実験を通じて,音楽経験,世代の違いがあっても多くの人が共通して一番先に挙げる感情は,「楽しい,悲しい」であることが判った。これらの言葉は,感情研究において基本感情に分類されており,この実験の結果からも「楽しい,悲しい」が基本感情である可能性が高いと考えられる。音楽と感情に関する研究において感情に対する見解は様々であるが,古根川ら (2009) は,感情を表現する言葉の出現傾向には,個体の生存に重要な働きを持ち,人間の初期の発達段階で現れる基本感情 (Sloboda と Juslin, 2001)に通ずるものがあるのではないかと考えている。

 

音楽療法と不定調性論

これはP9の図が分かりやすいです。赤枠は私が塗りました。

f:id:terraxart:20190414125630p:plain

不定調性論は、自分の感性を前面に引き出して、自己の方法論を引き出し、自分を見つけ、自分の人生にも自信を持つ体系でもありまですので上記の赤枠にくくったところが不定調性論のアプローチです。

これだけでは商業音楽にはなりませんが、こうした「自分を出す!」という行為が普段の音楽活動の中で堂々と自信をもってできるようになることで、より納得のいく自分の音楽を捜索していく活動が出来るのではないか、という提案になっていきます。

 

興味深い報告があるので記載します。P10です。

音楽療法の研究は始まったばかりであるが,音楽心理学に対して貴重なデータを提供しうる例も見出される。Durham (2002) は,交通事故によって脳損傷を被った患者について報告している。この患者はよく喋ったが,脳の右側が破壊されたために,身体の左側に関する動作,認知に障害があり,さらに前頭葉の損傷のために,感情の抑制に困難を生ずることがあった。最初の音楽療法のセッションにおいて,この患者が鉄琴で単純なリズムを叩くのに拍子を合わせて,音楽療法士である Durham がピアノを弾いたところ,患者は心地よい様子に見えた。ところが,ピアノの拍子を僅かにずらしただけで,患者は鉄琴の撥を置き演奏を止めてしまった。また,その後のセッションで,Durham のチェロに伴われて患者がシンバラ (小型の打弦ハープ) を (即興で) 演奏しているうちに,シンバラのある弦の音高が狂ってきたことがあった。患者は,この弦を頻繁に叩くようになり,ついには楽器を投げ捨てるように演奏を止めた。この一件は,患者が自己の置かれた状況と向きあうきっかけになった。このような例は,リズム,調性の知覚が,強い情動を喚起しうることを示している。リズムの知覚が感情と結びつく例は,古くから紹介されている。例えば,島崎 (1952)は,先天的な発育不全のため,ことばをあやつることができないなど知的活動に困難があった女性が,まわりの人とリズムを合わせて体を動かすときには,ほとんど狂暴にちかいほどの喜悦の表情と動作を表したと紹介した。また,それより新しい例では,Levitin (2006) が,1977年の Sonny Rollins のコンサートで,Rollins が即興的に一つの音を 3 分半もの時間繰り返し,少しずつリズムを変えながら演奏したとき,旋律もないたった一つの音で作り出されたリズムの力強さで観客が興奮し,そのときのリズムはそれから30年近く経ってもLevitin自身の記憶にはっきりと残っていることを記している。これらの例も,リズムの知覚が強い情動を喚起しうることを示している。 

 

脳がリズムと知覚で結びついて、興奮や強烈な印象を引き起こす性質を含んでいる、ということであれば、影響力のある有名なプレイヤーが、お客を扇動し、こうしたリズム的な感覚をライブで共有していくことによって、音楽がもたらす興奮以上の興奮を脳にもたらし、「素晴らしいライブだった」と言わせることが出来る、ことを意味しています。

だからそのプレイヤーの才能が作り出す興奮と、単純に音楽のリズムが作り出す興奮と、そのリズムが変化する事によって生まれる脳の興奮の三種類が一挙に織り交ざるライブという空間は、人の脳の本性には最も野性味のある体験ではないのか?と述べているわけです。

これに当てはまるのがEDMのライブ空間でしょう。

または宗教儀式のトランス状態もそうかもしれません。

この辺の構造が分かってくれば、人は別にライブに行かなくてもそれを脳に興奮を埋め込めるようになるのかもしれませんね。

 

ポピュラー音楽に関しては既に音楽療法まで視野に含めた研究が始まっている (MacDorman ら, 2007)。

 

とあります。まさしくリズムの音楽、ポピュラー音楽が現代人の心をより多く掴んでいるのは、その構造が、脳の興奮と関係がある、ということを示していると思います。クラシックがすたれ、ポピュラーミュージックが市民の新しい感性を生み出すのはこうしたリズム的な認知が脳に刺激を作っているのかもしれません。だからあなたが芸術音楽をやるなら、音楽の興奮と、脳の興奮をちゃんと把握したうえで、それぞれを評価しないと、その音楽は嫌いだけど何故か興奮した、というような感覚の矛盾を得ることになるでしょう。あなたの自我はともかく脳の方が別の理由で興奮しても、あなたの自我は音楽の好き嫌いに反応してしまいその原始的興奮を理解できないかもしれないからです。

 

この分野の研究はこれからであり、膨大な未知の部分を含んでいる、という意味でも

音楽と脳の関係はまだほとんど解明されていない

と考えてよいのではないでしょうか。

だから我々音楽家は、音楽をまだ何も知らない、という前提で、今できることに邁進しながら、音楽と脳科学の研究の発展に寄与していきたいですね。