とある野球動画でアウトコール(相手方のアウトに合わせて流すファンファーレ)を聞いて、あれ、これどっからきてるんかな、とふと思ったので調べてみたらなんかいろんなことが繋がってしまって嬉しかったみたいな妄想記事です。
真面目に受け取らないでください。脳はあれとこれつながった!と思うと喜びます。つながりを作る、と云うのは面白いです。方法論もいかにもそれっぽいつながりができるかって云う思考遊びみたいなところもあると思います。
なおアウトコール自体は"スポーツマンシップに反する"というスタンスから現在では用いられていないようです。
上記動画の5:00ごろにミッキーマウスが足でこのコールアンドレスポンスをやります。どこからともなく音が聞こえる!ということへのよくあるコミカルな演出ですね。
ここでも相手方はちゃんと応えます。この動画が1930年。へえ、もーあったんだ。
...と思い、元ネタを調べてみたら。
1899年のケイクウォークにたどり着きました。wikiでみただけだけど。
この曲自体がこのカプレットのリズムを持っており、バリエーションが感じられます。
by Shave and a Haircut - Wikipedia
cakeworkとは、アメリカ南部で生まれた、ダンス音楽です。ヨーロッパに渡りドビュッシーまで影響を受けています。まぁ有名ですね。ケークウォーク - Wikipedia
Seong-Jin Cho – Debussy: Golliwog's Cakewalk (Children's Corner, L. 113)
このアフリカンアメリカンのリズムはヨーロッパ勢を卒倒させたことでしょうね。
マーチの解釈を異次元に昇華しました。
さて、本題。このリズム
「Door Knocking Song」
とも呼ばれ、過去100年間でアメリカで最も有名なリズムなんだそうで。
なんて探せばいいのかわからなかった笑。
1911年の作品にもあります。1:24頃です。明らかに一つの締め、としてアイコニックな用いられ方、意図を感じました。こういうリズム、ずっと以前からフレーズが庶民の中で汎用的に用いられていたのでしょうか?
ステージでの振り付けとかありそう。
後に作られた作品では、微妙なバリエーションが生まれます。
上記曲の最初と最後に出てきます。やはりアイコニックな使い方です。意味ありげに、象徴的に用いて、曲の雰囲気を作ろうとしています。
日本人の自分には和やか、面白み、庶民さ、そういったものを感じます。
4つ目ナチュラルバージョン
この4番目の音がナチュラルのバージョンもよく聞かれますね。音が半音下がるものが元ネタのようですが、西洋音楽的には、ここがフラットするのは違和感でしょう。
4つ目フラットバージョン
上記、1920年代の楽曲"That's a Lot of Bunk"の動画の最後のリフは、ナチュラル音が使用されています。
ナチュラルな音しか出せない楽器などで演奏するときは(冒頭のアウトコール動画など)ここがナチュラルになったりしていたのでしょう。ここがフラットすると、音階的にハーモニックマイナースケール(中近東でアラビアンの香りを持つ音階=一箇所だけ広い音程部分があり、異教徒的などと揶揄された)的になり、ちょっとオリエンタルな雰囲気になります。
この4音めがブルーノート的なニュアンスも感じますが、主音から考えて第六音になるこの音がブルーノート的に用いられる例は稀ですからこの説は却下しておきます。
このフレーズが持つ異国感とかはあったのでしょうか。アメリカ人にとっての異教徒的な意味合いなどはあったのでしょうか。またこのフレーズがアウトコールや、ちょっとコミカルな場面で用いられるのも、このフレーズが「スタイリッシュでかっこいいものではない」という意味合いがあるのもアメリカ的ではない何かを示唆するような印象も受けます。考え過ぎかもですが。
そんなことを抜きにしてもこの普遍的とも言えるリズム、遺伝子に組み込まれている感すらありますね。
ウエストサイドストーリーの下記動画4:00ぐらいから聞いていただくと、途中が三連符になったになったバリエーションが聞けます。
三連符バージョン
West Side Story - Gee Officer Krupke! (1961)
こうしたもののみならず、
・ベトナム戦争時のアメリカ軍での自国兵確認の合図として用いられたり
・改造されたクラクションで用いられたり
・テレビ番組のCMの合図で用いられたり
...無数の事例によって私たちの身体の奥に組み込まれたリズム。
どんな風にアレンジしても、ちょっと崩れていてもアイコンのように感じるこのコールアンドレスポンスは、相手がいて自分がいて、阿と吽の呼吸のようなリズムが持つ普遍性。
このリズム、
タッタカ タンタン ウンタンタン
はテレビというメディアによって我々の遺伝子に組み込まれています。
このリズムを使った音楽は少なくとも微笑ましく人の記憶に残る、と言えます。
アメリカのカートゥーンアニメは言わずもがな。
しばらくして
しかしなんでこんなに日本人も反応するのするかなぁ
って思ったんです。なんでこのリズムに私がある腫のダサさを超えた郷愁を感じるか。生活感を感じるか。。
なんかもう一個、日本人なりの文脈があるのではないか、そう思ってぼーっとしてたら。
急に浮かんだあのフレーズ。ギネスにも載ってる長寿番組。
天下の中村八大先生の「笑点のテーマ」。
1967年から全日本人が聴いて人生を過ごしています。
この冒頭のリズム。
タッタカ タカタカ ウンタンタン
これを聞いた途端、悟りました。
あ、アメリカ関係ないわ笑...そんな自分の感覚グローバルじゃなかった笑。
これが入ってたんだ。
この生活臭のあるリズム。ダサさ。コミカルさのアイコン。
どんな感じで来てもこのテンポ感で来るものは全て同列で自分は判断できる自信ある笑。
このリズムのバリエーションに同種の雰囲気やコミカルさをあなたがもし感じるとしたら、自分が親しんだ長寿番組の音楽を掘ってみるといいです。関連性が見つけられるかも。
ぼくドラえもん
ぼくドラえもん 大山のぶ代 こおろぎ73 【ドラえもん50周年】 - YouTube
アッタマデッカーでーかー
タッタカ ターター ターター
これなんかも頭の中でループできます。私にはこれも同じ匂いで受け取れます。
タラッタータラ タラッタータラ タラッタータラッタ ポン!
もうこれも同じです。自分には。
このほか「あんぱんマンマーチ」とか、「きょうの料理のテーマ」のメロディリズムも同様な雰囲気として頭の中に、いや体の隅々まで入っていたことに気がつきました。
子供の頃、生活の匂いの中で家族と一緒に目を輝かせながら見たあの頃の記憶と一緒に。
そうか。このリズムの持つある種のダサさ、とは音楽がダサいんじゃなくて、きっと当時の自分の青臭さや無知な子供時代を卑下して懐かしんで、ある種の郷愁とともに昭和の生活感を感じていたのか。
これを「音楽のダサさ」と受け取ってしまうと、ほとんどのものがダサくなってしまうけど、一つそれを文化として生き生きとした視点で見れば、このリズムこそ日常の生活のリズムだったのだ、ぐらいに感じます。本来はこういうリズムで日常を過ごしていたのだ。別にかっこよくもスタイリッシュでもない空間=日常=人生。
だから日常に対してどういう気持ちを持っているかで、こうしたリズムに対するクオリアも変わるのではないか。
あとは人生において、どこまでこのリズムから逃げて離れて、勝手に"自分が思うカッコ良さ"を目指して音楽を作れるか、を競っているようにも思えてきました。
我々はドリフの全員集合で、変なリズムの早口言葉やヒゲダンスを聞いて、キャハキャハと笑っているうちに成長して、
Wilson Pickett - Don't Knock My Love Pt 1 (1971)
こういうのを聞いて、あ、これはアメリカのかっこいい!なんだ!
ドリフはカッコよかったんだ!
みたいなところからいつの間にか笑点のテーマもダサい、みたいな価値観は無くなって、顔の皺のように染み込んできて、何をどう感じたのかすら忘れていました。
偏見とは稚拙な経験しかないことで生まれるのではないか。
そうして最後は成熟した大人こそがドラえもんとサザエさんを心地良く観れてしまう。子供が観てもいいアニメ、と思ってしまう(もちろん他にも)。
一周回ってドラえもんが道具を出す音とか、とにかくチープなファンファーレもこれの類だけどワクワクできてしまう。
あれほど憂鬱になった月曜日への思いが今度は恨めしい。
この歳になると、生活音楽の原風景を作った、これらの偉大な音楽を作曲した、演奏した偉大な音楽家たちに改めて敬意を抱くわけです。
と思っていたら、急にこれが頭に浮かびました。
PPAP(Pen-Pineapple-Apple-Pen Official)”LONG” ver.
ペンパイナッポーアッポーペン
タッタカ ターター ウッタータン
このフレーズは「イヤーワーム」といわれていますが、やっぱりこのリズム。
かのジャスティン・ビーバーはこのリズムに北米が歩んできたコメディリズムの文脈と日本アニメのリズムの文脈の融合を読み取ったのではないか、と笑。
ジャスティン・ビーバーは1年単位で時代のサウンドにすぐ反応して、それをコラボレーションや、自分のオリジナルで巧みに作れるヒットメーカーです。
最新のサウンドにめちゃくちゃ嗅覚の優れた起業人でもあります。
表層の日米の文脈の融合ネタ、リズムの奥に潜むcakeworkから脈々とつながる万国共通のコメディリズムの一体化された文脈の融合を瞬間的に感じたのではないか、と思いました笑。
ちょっと読み過ぎか。
いや、天才の感じてることって我々の情報量を超えているからつい。
文脈を大事にする西欧人と、日本独自のネタ感とコメディリズムが絶妙に混ざり合った作品であることへの潜在的な親近感が普遍的な理解を生み出し、だからこそ普遍的な興味を世界中のひとにあたえた、とかなんとか、いうことはもできるのではないかと。
熱弁しましたが、これは勝手に深読みしたかっただけの記事なので、ただ楽しんでいただければ幸いです。