今年の五月の連休はなんとなく猫と過ごしながらニャコニャコ遊んだりしてモフモフ過ごしました。まだ蝉も虫もほとんど鳴かない、五月の新緑の静けさがいいなと思い、作りました。
今回はピアノがペダルを踏みっぱなしです。ずっと音はいつまでも響いている、というイメージです。おかげで見づらいですね笑。
画質が悪くて音がよく見えない時は、
ここの設定画面でいい画質を選んでください。
そもそも音は途切れだり終わったりしているのでしょうか。
音符に関わらず、人に聞こえる聞こえないに関わらず、音はずっとそこにあって永遠に鳴り響いているのでは、、静けさという音の海はずっと満たされているのでは。
この美しいメロディを、いかにも子供が歌いやすい簡易なアレンジで歌う、歌わせる童謡合唱という文化はあくまで文化の継承の役割において行われているであり、本来はもっと表現範囲の広い芸術であると思います。
日本の童謡の旋律には、霊的で、静けさを感じます。
日本の音楽に限らず、民俗の音楽は、土地に溶け込み魂を揺さぶる要素を感じます。
今回はペダルを踏みっぱなしなので音の被りによる響きの不協和、不意図な響きに空間がならないように流れの中で響く感じの丁度良さを調節しながら作りました。
例えば上図、丸Aの音のあと丸Bの音がなりますが、これは完全四度なので、いわゆるよく響くのですが、二つの音のタイミング、音の強さを間違うと「なんかウザい完全四度の協和感」が私は気に入りません。
いかにも四度で響いているから、おまえら全員了承すべきだ、という機能和声音楽文化が相変わらずにもたらす同調圧力が気に入りません(そう教育されて受け入れた自分の責任だが)。
またそのあと丸Cの音がなると、三音が響く結果となり、他の音も背景で薄くなっていますから、いかにも不協和な空間になり、工夫しないとなんともダラダラ音をよだれのようにたれながす感じで聞くに耐えません。
今回はこうした被りの音のタイミング、強さ、響き感において、音を区切らずともちょうど良い響きで鳴るように聞きながら作ってきました。一定的なリズムの流れを持たない私の作品ならそれができます。所詮はただ自分が好むかんじ、というだけでなんの正統性もないのですが。
鳴った音ではなく、音が止まった時、各々の役目を終えた音たちが重なり合って残響がキラキラと光る様子を聞いていただければそれが今回の意図です。
音を区切ればいい、というのは西欧的です。庭の植物を見栄えがいいように四角とか丸に切ればいい、というような感覚です。植物の立場を思うと妙な痛々しさを感じます。
西洋庭園には支配と力の象徴のような脅迫感を感じます。
そうではなく、鳴り響いてしまうことを受け入れ、それがお互い邪魔にならないように作ることはできないのでしょうか。
もし変な響きなる時は、次の音を遅らせる、前の音の強さを弱くする、他の音を加える、といった行為によって自分が望むタイミングで作る音楽の周辺をコントロールするわけです。旋律以外の音は「伴奏」ではありません。それらは自然に庭に生えてくれるように配置する、石や、段差、虫たち、といってもいいです。
しかしながら、結局は支配しようとしてしまってるんですね。共存したい、と言いつつ支配しようとしてしまう。
近所の川でこいのぼりが空を泳いでいました。
風に揺られ、意志もなく泳ぐ姿はとても不思議な光景です。
同時に、人がこいのぼりに興味すら覚えなくなってしまう時代にならないといいな、
と思います。
でも子供はきっといつの時代も喜ぶでしょう。
多分それは不思議だからではないでしょうか。こいのぼりが風に揺れて泳ぐ意味など、何もないけれど、心はいろんな意味を求め、ぼんやりと浮かぶ答えで遊べるから。
そういう平和な日々が少しでも続きますように。
(画はイメージです)