スタンダードナンバーのカバーです。
不協和を綺麗に響かせたいので、調性感が固まるほどまでに調性を配備せず、小節の"引き=弱拍??"のところで崩す、といういつもの作曲方法ですが明確な規則や意図があるわけではありません。
音の配置は「音楽的なクオリア」に全フリしています。
自分で考えた和音が自己の教材の枠に収まるのが自分で興奮しない、というコンプレックスのため、音を聞きながら感覚で配置してゆきます。それで結果的にただのM7になっても"そういう置き方が良い"と感じるわけです。
稚拙で矛盾して拗れたこの音楽感覚が自分のスタイルだ、と近年気がついてそれを実践しています。
とにかく何度も聞いて納得のいく響きの流れにするようにはしていますが、納得いきすぎると全体のバランスが崩れてしまうため、ある程度「憂い」のような気分が残るくらいの不満を残しながら先に進めてゆきます。
その諦めを含んだ制作感覚が最終的には全体の響きのバランス=侘び寂び的な?、になります。
雑草が人工的に配置されて生えないように、川の上流の岩が人の意図で正しく並ばないように配置するような気分です。
でも自然のうちにあっても時々本当に規則的で美しい並びになることってありますよね。ハッと気がつくとそんな「自然の美しさ」を求めていきたいわけです。
誰かに聞かせようとか、こう感じてもらおう、とかも一切考えないようにします。
人が入り込まない未踏の風景を作るような感じです。
こういうふうに音楽が作りたい人間だった、なんて自分のことは昔わからんかった。
もう少し早くわかっていたらちゃんと働きながら音楽やったのに。
自分探求についての努力不足でした。
「音楽的なクオリア」というコンセプトの有り様や解釈は個人で自由に追求していただきたいです。
メロは原曲のままを使っています。
原曲を知っている人は、この作品10回も聞くと、どこが変なん?別に普通のジャズやろ、と感じるかもしれません。
私たちが学び、教えてきたジャズ理論は、音楽の一側面しか写していません。
これもまた思想なので、皆さんそれぞれの思想で信念の城を築いて、それを作品に昇華頂きたいです。