前回
リーマンの和音進行分類
同著書P94からの表をポピュラーコードネームで書いてみました。
Fm-F△をなんで「五度転換」というかというと、
Fmの主要音はc
F△の主要音はfで
c→fが起こっているからです。
これらの名称はリーマンが独自で付けたものなので、そんなもんかと理解してもらって、面白いのは、機能によって進行する、としたうえで、機能を伴わない和音への進行も分類という名のもとに列挙されている点です。
たとえばG7→Cはハ長調の主和音への回帰ですが、Am-Fmは転調的意味合いとなり、当時の三分類の機能ではかなり拡大解釈しないと成り立ちません。
現代ではAマイナーキーのIm(Tm)からCマイナーキーのIVm(SDm)へ、という流れを説明することができます。
しかしこれはあくまで形態を説明しただけで、
・それを連鎖された時、情緒的反応として何が起きるのか(その文脈的意味)
・なんでAmはFmに行けるのか?それはG-Cのように説明できるのか。
・表の中以外の進行はあり得ないのか?
といった疑問に最後は辿り着きます。
そこでネオリーマンの学習を待たず、
・それを連鎖された時、情緒的反応として何が起きるのか(その文脈的意味)
→個人によって違うが、明確に「飛翔するような感覚」「澄んでいくような感覚」「大切なものが失われるような切なさ」といった情緒的感覚を得る、またあらゆる進行にこうした情緒を得られるよう訓練する
・なんでAmはFmに行けるのか?それはG-Cのように説明できるのか。
→作者がそこに進もうと経験上直感したから
・表の中以外の進行はあり得ないのか?
→すべての進行があり得るので分類から何かを演繹するのではなく、いかに直感的に自らにとって意義ある進行をその場その場で生み出し続けられるか、という感性を鍛えることに時間を割く
としたのが不定調性論のリーマン体系への答えとなります。
一方リーマンはこれらの関係を図示しました。
(出典;wikipedia)
そもそもなんでそれらの和音が連鎖するのかという理由(動機)を、このような数学的な配置がその背景に隠れているからだ、としたわけです。
この辺りが当時の自然科学礼賛の空気を感じます。何よりこの図を作った、というのが見事だと感じます。
これがあるのとないのとでは理論的な説得力や、イメージがまるで違います。
ネオリーマンセオリーにおいては、ここから長短三和音以外の和音を創り出そうとするわけです。
不定調性論もあらゆる和音を作り、連鎖させることができます。
唯一の違いは、リーマンセオリーはリーマンの発想に依拠している点で、不定調性論はその根拠を私の発想自体にではなく、あなた自身の感じ方の縮図に置き換えられる点です。
和音が連鎖する動機を常に上記のような図に依存していたら、結局物事の一つの側面だけからしか答えを見出せなくなるからです。
・直感による進行感のイメージ
・偶然による進行感の連結
こういった創作中に起きる様々な「副次的創作刺激」を無視したら、新しいサウンドを作ることは出来ません。ゆえに答えを教科書の中に見つけたら、それを自分の中の「直感」に取り込んで、あとは普段通り直感的思考や行動に委ねて適切に行動できるよう鍛錬しようと試み続ける、という構図にしたのが不定調性論の創作へのアプローチです。
下方倍音列存在論
和声学の自然科学的な学問への擁立のためには、上方倍音と同様下方倍音も存在していないと体裁が付きません。
しかし上方倍音のように安易に下方倍音を聴くことは出来ません。
しかし人間は、下方倍音の数理で集合させた和音に、上方の和音同様に「情緒」を感じます。長三和音と短三和音という、対局な情緒です。
ですから不定調性論では、自然現象としての倍音に何らかの和音の根拠を置くのではなく、単純に振動数比の組み合わせを元に様々な和音が作成可能だ、と示し、あとは学習者の感性、クオリア、模様感が、それらの和音の連鎖を補助する、という考え方になります。
同著には下方倍音についての議論の過程が掲載されていてうれしいですね。
下方倍音などオカルトだ、という理屈で世間はほぼ止まっているようですが、それなら短三和音をあなたはなぜ用いるのか?となります。
音に脳が、聴覚神経が、慣習的記憶回路が、どのようなバランスで反応し、なぜ反応し、反応する必要性は何故か?科学的な答えが明示されるまでは、結果として出てきた感覚を用いようと、考えるのが拙論です。
その構造理解の補助として数理を持ち足り、伝統的に命名された下方倍音列を用いますが、だからといって自然現象として聞こえる、となどはさすがに信望できませんし、それを求めようとは思いません。この書は、それがラモーの進んでしまった迷いの道だ、と説きます。
現代では、あなたが短三和音を用いるその理由は「あなたがそうしたいと望んで了承したから」である、ということ以上の結論がありません。
音感覚とイメージ 聴き方を変える
不定調性論的な発想でもあります。
そこには音響学の始祖、ヘルムホルツの話題が欠かせません。
P114
ヘルムホルツの功績は多岐にわたっており、一つに絞ることはできませんが、とりわけ音楽家や美学者に印象深かったのは、「音感覚」における「知覚」と「精神表象(意識)」の間の矛盾をしてきしたことでしょう。ヘルムホルツの共鳴装置の発明により、人間には聴こえない音が実際には鳴っていることが明らかになりました。そのため、人間は耳が受け取った感覚データを、習慣的な精神プロセスによって、ゆがめていると考えられるようになったのです。これをリーマンの理論にあてはめて考えると、聴き手の習慣によって、調的な構造(機能)を聴き取ろうとすれば、直接的な音感覚は精神によってそのように誘導されることになります。また音楽における「不協和音」が時代とともに寛容に受け入れられていく過程も、やはり精神的な習慣が関係していることが分かります。
まさに不定調性論。和声学が完成したころには、不協和音の追及が盛んになり、絶対的な美の定義は拡散されたまま戦争の時代に突入し、気が付けは雑音や静寂すら音楽になっていきました。そうこうしているうちに産業、IT 、様々な無数の娯楽への人々の関心が、美的定義の追及や探求を日頃考えるべきことから除外していきました。結果の現代。
「自分がどう感じるか」の追及と、伝統的な美意識の変遷を同時に学ばなければなりません。
不定調性論がその学び方の代表になる、とまでは言いませんが、音楽創造・鑑賞について「自分語」を用いて表現し、その感覚感や、脳内の神経回路を作るイメージで自分の感覚を育てよう、と具体的に述べている、という点では不定調性論の目的は明白です。
なぜ独自性を重んじるか、と言うと、ヘルムホルツが、人間が聴いていることが、客観的な事実ではない、と探り当ててしまったからです。
あなたの聞いている世界はあなたにとってのみの真実であり、あなたの体内フィルターの限界値に依存した世界(現実は自分が作っている)であるわけです。
(もしそれが背徳的で、ちがうな?と感じたら他の学習法をご自身で創造してください。)
同著にもドビュッシーの分析や、マルノルド、ケックランらの解釈の紹介をしながら
聞く耳によっては複数の解釈が可能である
ということを書いています。まさしくこれです。
「あなたにとっての絶対」は究極的には「あなただけにしか通じない」。
もし他者を矯正しようとすると、対立や衝突に明け暮れるか、批判を無視し自らの中にとじ込もるしか方法を見出せなくなります。自らの想像の時間を削ることになります。余暇の時間に他人を批判している人もいますね。趣味みたいなものとして。
この宇宙に存在できたことを善と見るか悪と見るか。
空気を吸えて愛をはぐくむ地球に住めたことを善と見るか悪と見るか。
文明国に生まれ育ち何不自由なく暮らしていけることをどう捉えるか。
これらが悪であるとするか、そんなことは当たり前とするかしない限り他者への批判は沸いてきません。
それを続けると「比較癖」が脳内回路にできてしまい「昨日の自分」と「今日の自分」どっちが勝利者か、と悩みあえぎます。
音楽の世界では独自性を打ち出したドビュッシーの存在はとても大きかったのだな、と第五章から感じました。同書に出てくるケックランの解釈も、マルノルドの解釈も「その人だけの考え」であり、ドビュッシーも「自分のイメージ」を音にしただけです。それを様々な政治の道具、名声の道具に利用する社会の構図はずっと変わりません。
もしあなたが他者を批判しなくても生きていけるなら、ぜひ自身の現実を有意義に構築したいものですね。私の場合むしろ無関心過ぎという問題があるのかもしれません。
完璧にはなれないがゆえに、それを他者に押しつけるか、自分への鍛錬の源にするか、でしょうか。
続く
和音の進行感についての不定調性論の考え方はこちら。