音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

不定調性論と「ハーモニー探求の歴史」4;読書感想文

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4第6章 独自論の誕生

同章で紹介されるシェンカー理論の考え方は優れた独自論の在り方を示しています。

独自論とて公開されれば、世界に何人かはそれに影響される人、同調できる人が現れます。その理論が優れているかどうかではなく、「似たような感性を描いていた人」「考え方が似ていて共感できる人」が確率的に存在する、というだけです。ましてや影響力のある人がそれを良し、とすればまたその話は広がります。しかしやはりそれに共感できる人はタイプが限られています。

戦後の教育システムのように洗脳教育としての勢いを持って普及させないとなかなかそれを「主流」と思わせることは出来ないでしょう。それとて偶然の産物です。ゆえに方法論を押し付ける人もいれば、とっとと自分のやり方で走れる人もいます(教育が充実する、というのはとても良い事だしディメリットもあって当然。常に改善あるのみ、と言いたいだけです)。

しかしすべてはあなた自身の選択の責任です。

 

だから「主流でないから二流」とも言えず、「主流だから素晴らしい」とも言えず、これらは親の世代からの洗脳によって判断をさらに曇らせてしまいます。食えているから偉いのでも、世間の物笑いだから人より劣る、ということもないと思える時代になりました。

どんな生き方をしても後悔するのですから、せめて自分が望む生き方を選択し続けていきたいものです(ちょっとでも理想に近づく)。

同書では、シェンカー分析の中身に触れていないので、ご興味のある方は下記を読むと良い、と紹介されています。

西田先生!

 

調性音楽のシェンカー分析 

シェンカーは音楽を「ひとつの生き物」のようにとらえ(有機体)、ハッピーエンドの物語のようになっていて、不協和音は協和音(主和音)に最終的に解決される、といったイメージでいたようです。

 

これを同書では「メタファー」と読んでいます。メタファーについては下記で述べちます。

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これも個人の共感覚的な知覚に基づくもので、シェンカーは、なぜリーマンはそのように感じないのか?とでも思っていたかもしれません(リーマン理論には批判的だったようです)。

しかしリーマンにはリーマンのメタファーがあり、それぞれが自分の肉体がフィルターとなり感じられる音楽の映像を理論化していったにすぎないわけです。

結局、個人の感覚ですから、どっちが正しいか?ではなく、人の数だけ価値観がある、となります。意外と近所のおばあちゃんの「お風呂で歌うのが一番よ」というのが人の真理だったりするわけです。

 

シェンカーの「音は概念上は持続している」というような「シェンカーのイメージ」もまた、彼にとって都合の良い解釈であり、それによって彼は首尾一貫した感じ方ができたのでしょう。それがモチベーションになり自分を邁進させられます。何より「自己確立による自己承認」がなされ、これは快感以外の何者でもありません。

 

あなたもあなた自身のイメージを受け入れ、構築し自己を確立し、あまり人に押し付けないほうが良い、となります。

 

また"耳は第五倍音までしか進まない"というようなシェンカーの主張も、結局「自分ルール」です。拙論で

ひとつの音がどこまで親和するかを自分で決められる

とした発想です(音の反応領域)。この発想が生まれた日は一日狂喜していました笑。そして凄く楽になりました。これは世の中の真理を見つけた、というよりも単に自分に合う考え方を見つけたから楽になった、というだけの話なのでしょう。

ただしこれを世間に言えば、そんな自己満足など意味がない、と言われるだけです。

だからこそ論文や著作発表などを好まない人は、独自論は秘匿的に確立し、それによって作品制作に邁進すべし、とこのブログでも書いています。不定調性論を独自論として提示しているのは、とても恥ずかしいことですが、「独自論とは?」という明確な学問が世界にはないため、その一例として発信しているに過ぎません。皆さんは何もぞ分の独自論い名前などつける必要はないと思います。それで作品ができ、十分に家族を満足させる生活ができているなら。

 

第7-8章 

シェーンベルクの登場です。

"ひとつの楽曲には一つの調しかない"

シェーンベルクの言葉です。不定調性誕生前夜ですね。同書ではここでビートルズのGooday Sunshineのヴァースごとのキー分析しているのも面白いです。

何よりシェーンベルクがリーマンとも、シェンカーとも違うアプローチで和音の構造を示しているのが面白いです。

きっとこれからも新しい和音の解釈は生まれるのでしょう。現代も17世紀と同じ過渡期である、と思っていれば間違いないでしょう。

 

12音技法やピッチクラスセット理論についても大方の説明が触れられていますが、あくまで導入的です。

 

アメリカが西欧に負けない独自の方法論を作るんだ、という意気込みがあったのでは?という指摘は面白いです。さすがアメリカ。

ピッチクラスセット理論は今にしてみればコード進行論に似ています。

あの曲とこの曲はコード進行が一緒なんだぜ?

みたいなことを1910年代に述べる人がいたら、それこそ歴史に名前が残ったでしょう。

ピッチクラスセット理論は、曲中の無造作に見える音の連鎖の数理から共通性を見出し、だれだれの無調の曲のこの部分は、モーツァルトのこの曲のこの部分と同じである、ということが言えた、という点が画期的でした。

でもこれは結果論であり、あくまで楽曲の構造分析法に過ぎません。それをそのまま利用しても、「ただの真似じゃん」という人も多かろうと思います。そしてそこから構造を発展させていようしても「そんなの言わなきゃわからんし、いや、言われてもピンとこんし」という人が多いことでしょう。

 

人々は気がついたんです。音楽は聴いて心地よけりゃ真理はいらない。

ゆえに方法論を広めようとするよりも、独自論として確立し、あとはひたすら作品にて人々に問うた方が良い、と。

 

12音技法は作曲技法ですが、ポピュラーミュージックに応用しようと思うと、

・一つの音列→モード

・転回/反転自由→ネガティブハーモニー的、ポリモード的

となり、結局は無調にしなくてもいいので12音技法を応用する、となれば、不定調性、という概念が最もしっくりくる、とわたしなりに感じます。60年代以降「汎調性(pantonality)」という言葉が出てきました(60年6月,ジャズレビュー、ジョージラッセルの定義。-出典;オーネット・コールマン『ジャズを変えた男』-)

 オーネット・コールマン―ジャズを変えた男(amazon)

社会学としては主流は彼らの考え方で良いと思います。

私は調性など定めたくても定まらない、という心境でそれをまた楽しんでいるので「不定」なんです。むしろ汎調性=無調または不定調と解釈してもいいくらいです。

不定調性は、調的な要素を用いながら、求める方向に自在に展開していくので、

・定めることをしない

だけです。

その対義語は「定調性音楽」であり、従来の機能和声、旋法音楽など、調べが一定の規則に定まっている(意図的に収められている)音楽などを含みます。

 

時代が調性音楽、複調性、多調性、汎調性、無調といった段階を経ながら拡張してきたのでたくさんの言葉が生まれているだけで、それを逆から見れば、定調性か不定調性のグラデーションに過ぎません。

逆に私が「不定調」という概念を作ってしまったことで、プロの方の適当な概念の確立を邪魔しているようで申し訳ないです。でも自由に使ってください。私には社会学的な権利がありませんし、権威もありません。

使用されていることを自慢したくて宣伝はするかも、ですが。

権威がない以上、他愛のない行為を超えることはないと思います。

 

おまけ

西田先生の発表をリズム学会の発表日が同じ折があり、拝見したことがあります。スマートで声も物静かな綺麗な研究者だったと記憶しています。

この「ハーモニー探求の歴史」計五名で書かれた力作です。ぜひお手に取ってみてください。音楽史系の専門家用かもしれません。一般の方だとこの話を披露する機会も引用する機会もかなり限られてくると思いますが、話のネタとしてもとても面白い話が沢山出てきます。

 

また同著に登場する、今野氏の音理研の発表内容など、こちらでご覧いただけます。

スキンヘッドの元ハードロッカーです。何度かお話をさせていただいたことを記憶しています。 

Society for Music Theory of Japan

<概要文の紹介>

http://sound.jp/mtsj/Konnnoresume.pdf

http://sound.jp/mtsj/20161002Konno.html

こちらまでお問い合わせください。