この話は音楽の流れに意味や心象を強く感じてしまうタイプの人に限る話かもしれません。
われわれは感覚が不完全なので真実を判断することができない
-Anaxagoras c. 510 – c. 428 BC-
感覚の能力は、万人に共通でもなく、同じ人の中でも常に同じではないのである
人は真実を求めようとするが、それゆえに、変わりやすい判断をたよりにするしかないのである
-Anicius Manlius Severinus Boëthius c.480–524 AD-
音楽の心理学 ダイアン・ドイチェ著、寺西立年/大串健吾/宮崎謙一監訳 西村書店上巻 序文より
古代ギリシャから、人が不完全な判断しかできないことが嘆かれています。
完全であることとは、彼らにとってどのような存在だったのでしょう。何千年も経って、果たして人はちゃんと"判断"できるようになれたのでしょうか。科学を駆使してどのくらい完全な判断ができるようになったのでしょうか。
まず、自分がちゃんと自分で判断できているかなんて、私はわかりません。
教科書にも「私がどうすればいいか」の答えは書かれていません。
30人いて自分の感覚だけがその他全員と違っていても、自分の感覚を信じることが出来ますか?うーむ。
それでも未熟なりに「自分が現状どう感じているかを把握すること」が最初の課題です。
「音の印象を自分の言葉で語ることで理解・展開する」というやり方で作曲をしていく手法を不定調性論は用います。日本音楽理論研究会などでも発表してまいりました。
こちらは実際に感覚で作ることの実践です。
考えないのではなく、答えを根拠づけようとしないだけです。
根拠のわからない答えに飛びつく勇気、それで失敗する経験、その感覚を磨く集中期間、そういったことに注視できるようになると本当に呂色なことが楽になります。
・あなたが聴いた感覚をあなた以外とリアルタイムで完全に共有できる人はいない。音情報自体は脳の中でのみ作られる。
・和音に進行感があるのは、和音が内部でそう感じるような動きをしているのではなく、あなたがその和声の動きに対して、そう感じているだけに過ぎない。
この考え方に拒否感を感じる方は、その根拠を述べてみてください。それがあなたの独自論です。
誰もが音楽を聴いて背筋がゾクッとするわけではありません(または脳の特殊構造?)。
作曲時に、理論よりも「脳」機能を十分に起動させるような方法論がほしかったのだ、と後で気がつきました。
音楽の分析時はまた違う脳の部位がはたらきます。詳しくはこちらのシリーズを。
例えば、フェスで盛り上がってモッシュ状態にいるお客さんは和音の声部の動きを捉えるのではなく、もっとエキサイティングな音の動きを抽象的にとらえ、体が先に動いている(音の律動に反応する脳機能-小脳-があることは解明されている)としましょう。
作曲時にも、そのモッシュ感覚を体感できて、それを直接音楽にリンクできる制作方法論が自分の実感に近い制作法ではないか?と感じたわけです。
音楽を聞いてモッシュしたくなるか、音楽を聴いて作曲したくなるかで、その人の行動が変わるだけです。どちらが偉いとか凄いではなくて、それぞれが自分がしたいと思うことを法の範囲で工夫して楽しんでいるんです。そこにそんなに大きな違いがあるでしょうか。
そのシンセの音色がエキサイティングだ!とか、このビートは腹にくる!とか、そういうことを感じて音楽を作る時はありませんか?
その、何の価値もないような独自感覚の把握自体(個人の感想)を方法論にしたわけです。
もちろん勉強、実践、学習の努力は日々行なっている、ことがとても大切です。
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長い前置きでした。
よって、
今聴いた音楽に対する感覚は、自分だけのもの、と、ここでは考えていきましょう。
初期学習時は「音楽の価値観」を他者から学習します(学校音楽)。
学校では歴史的権威からの同調圧力に従うことを自然と身につけます。
しかしあなたが好きと思える音楽は、母親の胎内にいる頃から音を感じながら形成されています。権威というより、母から引き継いだものが文字通り母体になっているとも言えます。
不定調性論は自分に残る"本来のあなた自身"もう一度丁寧に揺り起こす方法論です。
具体的には、先入観なしに様々な音に対して自分なりの言葉、心象を当てはめていく積み重ねを行うだけです。
様々な概念や常識、感じ方を学ぶかもしれませんが、それはあくまで世渡りのための知識ですので、それはそれです。
独りになった時、いつでも自身で判断決断できるように自主感覚を想定する作業に慣れてみてはいかがでしょう。
和音の印象を創造してみる
CM7
この和音、単品で弾くと、どんなイメージを感じますか?
下記は私が考えた印象ですが、
「さわやか」「洗練的」「都会的(都会のビルや喧騒の間に立ったような感じ?)」「すずやか」「さみしげ」「白色的」
音楽的感性のある方は、いろいろなクオリアを感じると思います。
音現象がなんらかの言語的表現になるきっかけとなる心象を「音楽的なクオリア」と言います(拙論の表現)。
不定調性論は音楽学習と並行してこの音楽的なクオリアの具体化力を鍛えていきます。
音を自分なりに把握できれば、次にどんな和音を続ければいいかも直感的に把握できて展開できます。理論書などの手引きを超えて判断を感じることができる訳です。
最初は難しいかも、ですが数ヶ月もするとそういう脳回路が出来上がります(個人差あり)。
また一般理論の学習、歴史的な伝統の把握、も個々人によって差はありますが、相応量必要です。
では、
CM7 |AbM7 |EbM7 |GM7 |
rechord.cc(↑こちらで音が聴けます)
(もし速い!という場合は、
リンク先の操作画面で、テンポ数を下げて聴いてみてください。上の「piano」のところで音色とかも変えられるよ!セルフサービスですみません。)
というコードの流れには、どんな"感じ"を得ますか?
「うーん、微妙だなあ、別に何も感じないね」
でしょうか(最初はそうかも)。それとも
「あぁ、これは春のさわやかな風だね」
とぱっと印象が決められるでしょうか。
不定調性論は、より後者のような人に通じる考え方であると思います。
これは最初は、無理くり感じようとしないとなかなか出てきません。逆にこれが出来れば、街のノイズにさえ「郷愁」を感じることができます。
そしてそれを音楽に使おう、というアイディアになります。
音楽を行う全ての人がこの感覚を持っているわけでもありません。
ただ、この感覚に注視して音楽を作っていこう、という方法論が自分は過去の事例に見つけられなかったので、自分なりに作ったに過ぎません。歴史上の世界はどこかには同様な方法論を考えた人が必ずいるでしょう。
普段は自分に染み付いた、教育された美的価値観を疑わないので「自分の美意識は、世間が美しいという音楽に感じるべきだ」というフィルターになっているので、街のノイズから"美しさ"を感じることを忘れてます。それを美しいと思ってごらん、と言ってくれた先生がいない場合なおさらです。
Cm7
これはどうでしょう。先のCM7と比べると、
「さみしげ」「だんまり」「ひとり」「すきま風」「秋」
ちょっと淋しいイメージが多いでしょうか。CM7でもさびしげ、という言葉が出ているのが面白いです。CM7は「寂しげ」で、Cm7は「淋しげ」でしょうか。
何でも感じたままを書いてみたりしてください。「真夏!」って思う人がいてもいいと思います。サーフミュージックではテレキャスギターでCmガギョーン!で常夏!でしたしね。
しかし、これを並べると、
Cm7--Ebm7--Bm7--C#m7→最後にもう一回Cm7
どうでしょう。淋しい、というよりも「淡々とした冷静さ」とか「面倒くさい焦り」とか、より具体的な表現を感じる方もおられるでしょう。
まずマイナーコードの「悲しさ」は無くなり変質します。
脳は複雑。
もちろん最初は言葉にできなくてもOKです。
まず音を聴いて、何かを感じること、が不定調性論では重要です。
それが個人らしさ。
誰からも"あなた自身の使い方"は教わっていないはずです。
あなた自身を知る手掛かりを、こうして外部刺激から生まれる自分の感情を通して"識る"わけです。
トニック、ドミナントという感覚はF.リーマンらが作った独自論の体系の名残りです。
あなたが伝統理論の全てに賛同する必要はなく、そもそも100%の受諾は難しいはずです。
あなたとリーマンは、人種も生まれた時代も環境も思想も全て異なるからです。
音楽で常識的に生き抜いていくために、これらの価値観を覚えておいた方が便利だよ、というだけなのに、妙に同調圧力があることを教師は見ようとしません。
Cm7(11)
いわゆるテンションコードです。テンションと言うとなんだか硬いイメージがしますが、この和音は、大変柔らかいです。
「雨上がり」「静かな午後」「しっとり」「思い過ごし」「忘却的」
とか。
どことなく空虚感がありながらも、暖かい感覚を残してくれると感じます。
m7だから常に暗いんだろう、というのは先入観です。
あなたもあなたなりに感じたことを描いてください。
こういったサウンドは映画やドラマなどで効果音としてもよく使われていますので、自然とあなたが生きた時代の音楽が入ってきていると思います。
Cdim(M7)
クリスタルコードですね。島岡譲先生の門下生の皆様にはおなじみです。ジャジーなサウンドですが、バッハの時代から使われているそうです。
どんなイメージですか?
「近代音楽的」「コンテンポラリージャズ的」「解決しない疑問」「水銀の味」...
2014年3月の音楽理論研究会発表では、これを「台座からずれた墓石」という印象を堂々と宣言し、ちょっとへんてこな小楽曲を作りました。当然島岡先生、青木先生以外ちょっと白い目で見られました。
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不定調性論では、どんな和音にも情感を作れる、と考えます。
近代音楽作曲家が感じていたように。
結果として既存の機能感を一切伴わず、音の連鎖を作れます。
その代り調からの逸脱がすぐ起きるので、「調性を定めず」という「不定調性」と言う名前がついています。 具体例は例えばこういう感じです。
(上記アレンジ解説記事)。
自分には自分に合う服のサイズがあるはず、と思ったのです。
そしてそれが売れる音楽であった人は「あたり!」です。羨ましい!笑。
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たとえば、メロディ音にc音があったとしましょう。
そしてそれらのcの音をそれぞれの和音の一番高い音(トップノート)において弾いてみてください。ただあなたはcを弾いていれば良いです。
「ドードードードー」ってずっと同じ音でみて歌ってください。
C△-Cm-Csus4-Caug-Cdim-CM7-Cm7-CmM7-C7-Cm7(b5)-B7(b9)-BbM7(9)-Bbm7(9)-A7(#9)-Am7-AbM7-Ab7-G7sus4-F#M7(#11)-FM7-Fm7-E7(b13)-EbM7(13)-Ebm6-D7-Dm7-C#M7
同じcでもこれだけの音色を背後に備えることができるわけです。
これと同じことが島岡先生の「総合和声」にもありました(p464下)。
そうなると、この音楽が示すのは「響きの連鎖」であり「響きが作る言語」です。
では
問;「寒々とした灰色の空の湿り気」を和音四つで表現してみてください。
どうでしょう。例えば、私なら、
CM7(b5) |Bm7(11) |A7sus4 |Db7(#9) |
とか。
最初のCM7(b5)はなんとなく楽器を持って直感的に置いただけです。
あとはイメージと照合しながら、CM7(b5)からのヴォイスリーディングを展開しました。だから最初の和音は別にこれでなくても良かったんです。
私にとってはこの和音の流れだけでももう十分に音楽です。これではヒット曲など作れまえん。和音が鳴るだけで満足なのですから。
そして、明日はまた違うは和音連鎖を作るでしょう。人の心象がコロコロと移りゆくからこそ新曲は生まれ続けるのだと信じています。
少しずつ音が自分に与えてくれる反応を感じてみてください。
「間違い」とか「不協和」という表現が、あくまで人間のエゴである、と知った上であえて用いたくなってきたら、そんな冒険心を感じてきたら、あなたは自分の中の自分の感覚を発見しつつあるのかもしれません。
こちらもどうぞ。
参考
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