- 前談
- 「私が良いと感じたもの」とは
- 無感化した深い関心
- 反省的に更新され続ける美的判断
- そこから私的な新しさと、社会的な可読性との間を調整する判断
- 認められたくて生まれた「粉飾個性」
- コンプレックスを解消するのではなく、自己形成の燃料として運用する
- 美
- 美意識
- 美は"出来事"であり、美意識は類似した"出来事"を探索する態度
- 「美」を「羨」に
- 正しく羨む
- 自分の羨望を否定せず、それを他者の破壊や自己否定に向けず、無理やり自分の形成へ変換する
- 誰かと共有できるなら「美」、共有できないなら「羨」
- 私にとって美しい、という認識について
寝る前に読んでいただくと五行くらいで眠れます。
前談
不定調性論は、「自分が良いと感じたもの」が音楽行動の基準になる、的なことを書いてきました。
そろそろこの行動基準を深掘りしたいなと思い、美学・哲学等に軽く触れながらその奥を掘り下げます。これによって独善的に「私にはこれがいい!」がどういった表現にあたるのかを宣言しようと思います。
時を経るに従って芽吹いてきたのは、
・一旦社会から離れること≒社会的エポケー・社会的自己役割から距離を置く
・「表現したい」と純粋に感じるまで待つ≒内発的動機づけ+インキュベーション
・生まれた表現が自分であること受け入れる≒自己引受け
→そこから反省的自己形成
つまり、「自己表現」より「表現による自己生成」をするのが私は好きっぽいのです。
これは単に「君はこれこれこういう人間だね」と言われるのが気に入らなくて、「本当にそうだろうか」と疑って「自分で自分を形成したい」になっているだけと感じています。人に決めてもらうのではなく、自分の実際の行動を証拠にして、自分を判断したい的なカッコつけです。
「本当の自分は自分で決めたい」
ごく普通の欲望です。これが外に発散されず、音楽制作全般の分野に爆発しています。問題はそれによって社会参画したがらなくなった、という一点でしょう。
ただこれは私の人苦手意識もあります。
リセット症候群経験からの反省で、調和的な仕事関連の付き合いだけは続けています。
「私が良いと感じたもの」とは
つまり
社会的に形成された自己趣味が、最終的に「自己確認」や「自己適合」の感覚として働く時に得る感情
に対して「いい!」と宣言してるんです。
「美とは何か」には興味がなく「私が何故それを美と感じる気質なのか」を追いかけているように思います。実に自分本位だな、と感じますが皆さんはどうなのでしょう?
ゆえに、自分の作品も
対象の普遍的性質(これがこうだから良いと言える普遍的な性質があること)にはさほど興味がなく、対象と自分との間に生まれるその時だけの関係性を通じて、その都度自分が自分であることに得心できる快だけが頼りです。
これは端的にいうと、
「美と自己確認/同一化志向」
と言えます。
しかし、長いこと本当に自己満足的状況を止めどなく連続してきたので、自己満足自体に飽きて、その先に行きたいという欲の方が強く感じられ、今回の記事も現在の弱いところ、欠けているところを見つけたい、という発想ができるようになった、と感じます。
私が感じている「良い」とか「美」は、本来の「美しい」と異なり、もっと現実的で泥臭い複層的な性質を持っています。独断的で、自己承認への想いが強く、対象を愛でる行為に向かわず、ひたすら自己承認の先にある何か新しいであろう「快の可能性」に意識が向いています。
そこには各種バイアスによる思い違いとか偏見もあるかもしれません。
それでも音楽活動ができているのは自己的な美表現の歪さがわかっているため、それを人には押し付けず、逆に依頼者の希望に沿うことに徹することができてるからだと思います。
無感化した深い関心
自分が「あ、これいい」と感じた根拠はきっと様々あるのでしょう。
例えば美しい顔かどうか、を判断するとき、なんとなくそう感じる基準を述べることはできますが、それに伴うその人個人の好む根拠を選り分けて厳密に箇条書きする事は難しいと思います(無理やり列挙もできるが、列挙しているうちに次に向かう動機が霧散し実践的と感じません)。
「いい」という感情が湧く以前に、いつの間にか無感化してしまった古い心情がいくつも隠れているように、その影を感じます。
おそらく過去のくすんだ欲求まみれで生まれた動機が恥辱感から無意識に隠れてしまい、最終的に「いいな」でまとめてしまっているように感じます。そこには「それを美しいと表現することで人並みなことを言っている感」が出せてしまうことへの陶酔感なども含まれるでしょう。最近はそれを自覚してきたので、この「自分が感じる"いいね"」の正体を書きたくなったのです。
反省的に更新され続ける美的判断
一般には、
・自分が何を感じたか
・過去の自分と矛盾していないか
・社会的にどこまで説明可能か
・単なる気まぐれとして処理されないか
・それでも今の自分は何を選ぶか
を、「いい」と思う前に、半ば無意識に調整して社会的表現にまとめて絞り出そうとしていると思います。それが社会人ですし、共同体の中での態度かと思います。
それは社会的価値として認識し、一方で個人的価値を分けておけるなら、人生はちょっとだけ面白くはなります。
一方で自己利益を遠慮なく求めて、
「この感覚には、私だけで終わらない何かがあるかもしれない。まだ誰も共有していないが、共有可能な何かになり得るかもしれない」
という、未知の共有可能性への期待を楽しむ美の感じ方もあると思うのです。
中二病的な美意識かもしれませんが。
そこには「自分が感じた身勝手な欲望」に、まだ見ぬ普遍性があるかもしれない、と思えてしまうことによって「いい!」と思ってしまう習慣も隠れています。
「いい!」の先物取引で利益を上げたような満足感です。
不定調性論における「美」も、独自論と決めてしまったことで、「まだ確立されぬ普遍性に対する憧れ」を察知した概念について「推奨する」スタイルになっていると思います。この未到の地に踏み込んだような快感に酔いすぎると独自論の社会適合性は極端に下落します。
また、狡猾に
・自分のこの判断が社会の中で今後どの程度まで通用し得るものなのだろう...
・どこから先が理解不能または無責任と見なされるのだろう
を瞬時に探り当てて、それらの計算高い気分は表沙汰にせず、ただ「これいいな」という、穏やかな自己主張として現す、という偽りの態度を見せることもできます。
巧みに自分を隠せる人の中には当然の行為です。
よって早くそうした自己の性質を受け入れないと、虚構に逃げる自分に気が付かず、心と自我のバランスが崩れていくでしょう。
そこから私的な新しさと、社会的な可読性との間を調整する判断
が私に「美しい」を生み出すようになりました。巧みに世間体に当たりながら、独自論を狡猾に押し出そうとする露出欲求でしょう。先行研究の類似概念を目測しながら、独自性を見つけ、先行概念の権威を間借りするような図々しさもあるかもしれません。
だから、何がどうあれば美しいか、という「判断内容の一貫性」はありませんが、「判断を更新する態度の一貫性」はあります。
「自分はこれをいいと思うべき人間だ」と自ら自己像を毎度描き続けているようにも思います。
また運良く(運悪く)「独自論の哲学」を自分に見つけてしまい、結果としてそういう音楽性で生きる自己を創り上げてしまいました。
それが幸いなのか災いなのかは、私が死んだ後に判断されるもので、今は現状の自分にとっての信条に叶う方法で、可能な限り正直に述べていくしかない、と感じています。
認められたくて生まれた「粉飾個性」
借り物、模倣、憧れ、社会への適応、失敗、反復などを寄せ集め、とにかく作り続けた結果の個性を今、自覚しています。虚飾だらけの個性、と言えるのかも。
自己弁護するなら、これによって社会との距離を適切に保ち他者との関係も築くことができ、開き直ることで他者の役に立つこともでき、自己をいつまでも社会の中において巧みにひっそり置いておけます。これはとてもいい発明をしたな、なんて感じたりもします。
普遍性への憧れは、独自論を認めることで深く沈殿してしまいました。逆に自分なりの「未知の普遍性」を仮設しようとする衝動が道標となり「あ、これがいい」という感覚に感応するようになったのだと思います。
そして、この態度の社会との相性の良さも私には大きな発見でした。
独自論はそこに安住するとすぐに社会的不適合な私を作るでしょう。それを避けるために「昨日と違うことを言える状態を保たなければならない」とすることで、底が浅い人間でも、浅いまま一歩一歩前に進めたのです。
結果、自分のことでウジウジ悩むことがなくなり、周囲の人を助けることに気を配れるようになるからです。
そして独自論の適切な態度は、
「結論を更新し続けることではなく、結論をいつでも更新できる状態を保つこと」
としておくと、停滞が停滞で無くなるし、固執した信条もすぐに「固執している」と気が付けます。とても便利です。
個性があるのではなく、個性化し続ける。
だけで良くなったのです。同じ過ちを次元を上げ続けて犯し続ける、と言い直してもいいかもしれません。それが犯罪行為でなければ、社会的に強烈な個性が作れます。
完成するわけでも、ゴールがあるわけでもなく、稚拙なりに更新し続けることが社会的活動と調和してしまうのは驚きでした。どんな下劣な人間でも、社会に適応できる生き方は作れるものだぁ、と我ながら感心します。
子供の頃に聞いた「個性」って、子供の頃に聞いたから清廉潔白なイメージを勝手に持ってしまったのでしょう。学校は社会的正義を教えることができますが、個人的正義を一人一人に創造することはできないのではないでしょうか。また、個性を作り、磨くのが理性ある人の一生なのかも。
コンプレックスを解消するのではなく、自己形成の燃料として運用する
と表現できます。
人と違う自分の特性を上手に扱えるようになるのが人生で身につけるべき重要なスキルかもしれません。
その過程で構成される独自論は完成した人格を作る思想ではなく、「自己を更新する技術を鍛え続ける、終わりのないトレーニング」なのでしょう。
そのために「いいな」という感情を指針にします。
美
一回ごとに起きる現象です。
対象に接したとき、自分の過去、欲求、判断、身体感覚などが一時的に連鎖反応して「これは自分にとって意味がある」と体感される出来事です。
つまり「美」は、対象の属性ではなく、対象と自己の間に生じる一時的な衝突事故の衝撃の印象です。
美意識
その衝突事故を再び得ようとする持続的な嗅覚に対する認識です。
どの対象へ近づくか、何を避けるか、どこに注意を向けるか、何を作り続けるかを決める、いつの間にか形成され身体化された選択傾向。
良く言えばポリシーです。悪く言えば「身勝手さ」というところでしょうか。
結果、「美」は中心ではなく、その時点での一時的得心こそが手ごたえです。
その都度成立し、その都度失効します。
美は"出来事"であり、美意識は類似した"出来事"を探索する態度
と言えます。
自分が心地いいなぁ、と思えるものを探し、それを自分の生きる糧にしていきたい...
その豚肉がどんな性格な豚の肉だったかを考えないように、現在人は育っています。
自分で獲物を狩らないことで、自分の醜さや残虐性を見ずに済んでいるわけです。
自分の醜さの内包を受け入れないと、社会に潔癖を求めてしまうだけの人間になるのではないでしょうか。
「美」を「羨」に
・あのようになりたい
・あれを理解できる自分になりたい
・あの価値に自分も触れたい
・自分にも、まだ別の可能性があるのではないか
「羨」を一般的な「羨望の感情」として扱うときは「セン」と読みます。
そこで私の独自論において、その羨みを他者への攻撃や自己否定ではなく、創作と自己形成のエネルギーへ精錬する概念として用いるときは「ゼン」と読むことにします。実際に辞書ではこういう読み方があるようです。
私にとっての「美」は「羨」です。
羨(ゼン)は、羨む感情を恥じたり消したりするのではなく、自らの方向性を照らす感覚として受け止め、よりよい自己を創り続ける力へと変換する態度です。
美という概念は、私には綺麗すぎます。
美しいと感じたから感動する、とか、美しいと感じたから、心が洗われる、という感情は、社会的自己が社会との調和を図るために、自分の中に設置した陳腐なプラグインの出す音のように感じるのです。
美は、精錬された社会的価値の姿
羨は、「多くの人が美と羨む」場所へ向かおうとする人間の内的運動
美が名詞的で静的なのに対し、羨は動詞的です。美は「そこにあるもの」に見えますが、羨は「そこへ向かって私が動くこと」です。
同じものを見ていればいつか飽きる...それも認めます。
私にとっての美も普遍的ではなく、身勝手に動いては消えてゆく「羨」です。
正しく羨む
自分の羨望を否定せず、それを他者の破壊や自己否定に向けず、無理やり自分の形成へ変換する
という脳内筋トレが必要です。羨望の運用方法の正しさを創造したいのです。
・相手を引きずり下ろさない
・自分には価値がないという結論にしない
・そのまま模倣して終わらない
・羨んだ理由を観察する
・自分の材料として作り直す
・昨日の自分を更新する力に変える
羨んだ対象の価値を損ねることなく、そこに感じた可能性を自動的に自己形成の材料として受け取れるような自己形成
ができれば、拙い独自論もそんなに悪くはありません。
羨んだ対象を「自分が何を価値あるものと感じているか」に転換します。嫉妬や敵意、自己嫌悪に変換しません。ここに「精錬トレーニング」が必要になります。
その対象は、自分の中に潜む独自論を磨き精錬する、ということです。
誰かと共有できるなら「美」、共有できないなら「羨」
「羨」は美の下位感情ではなく、リアルな自分を生成し続ける別の動力だと思います。
だから、美を感じるのではなく、羨を感じることで、自分がどうしたいのかを見つけやすくなり、自分の作品も作りやすくなりました。備えてもいない「美」の概念を想像する必要はありません。
私にとって美しい、という認識について
身勝手な私が身勝手であり続けられる奔放な体感を得る「羨」を認めてしまうとすごく楽です。
ベートーベンはすごく美しいのだと思いますが、私には必要ありません、今のところ。
みたいな感覚をしっかりと自分に認められないと、自分が何をすべきかを定まらないと思うのです。
社会的に美しいとされるものについては、勉強しないとその美しさを分類できません。
一方で私は今何がしたいか、を考えることは、行動指針につながり、表現欲求に繋がります。
表現活動する人が、社会的態度とは別に独自論としての態度をしっかり心の内に確立することで、社会と自分との距離を図りながら、今自分が何がしたいかを明確にして、自分がどういう人間なのかを探りながら、それでも何ができるかに対して前向きでいられるのではないでしょうか?
私にとって美しいものは、あなたにとってしょうもないものだと思います。
「美」ではなく「羨」だからです。