前回
十二音技法では、基本となる音列を「Prime」と言います。
シェーンベルクの書簡集ではOriginalとも言っています。私はPrimeと習いました。Oと使うべきだったかも知れません。
そして12音音楽を作るために、音列のバリエーションが用意されることになるのですが...
まず、わかりやすいところで、十二音技法作曲時には、このP音列は12のキーに"移調"して用いることができます。
g#から始まるPをP1として、aから始まるPをP2
などと表記します。
ここで鋭い人は疑問に思うはずです。
あれれ、12音技法なのに、こんな風にいくつかの型を併用していいの?と思われたことでしょう。
潔く一つの音列で作ればいいのに。その方が簡単だし、制限された感じが面白そうじゃん!
と思いませんでしたか?
これには方法論に対して知らず知らずに信念を歪ませる、独特の心理状態が関わっている、と私は思います。これをここでは"自己方法論許容心理"とでも呼びましょう。
アインシュタインが自己の理論を補完するために「宇宙定数」を考えてしまった、みたいなことが有名です。
(これも"アインシュタインもミスったんだから、俺もミスっていい"とは違います)
これは方法論を作ったことのない人にはわからないでしょう、、。
これは、あくまで私の見解です。でも正直に書きます。
これで12音技法がなぜ、これを許容したのかがわかります。
基礎音列一つだけでは、
・12音が全て出てから次の音列を出す
という約束があります。ではP1だけで作ってみましょう。
これはP1を4回使ってみた結果です。うーむ、バスがないからなんかただメロディ作っただけで、音楽的な深みがないな、と感じました。
そうか、音をピックアップしてバスを入れれば良いんだ。
これでそれっぽくなりました。でもなんか厚みがないというか、薄いですよね。もう少し声部を分厚くしたりしたい。でも音をどんどん詰めていくと、三拍目には次の音列タームが来て、音列頭のg#が出てきてしまって、どうにもg#が旋律発想の起点になりがちになってきます。
うまくg#の起点を壊そうと色々やってみていると、12音列の順番に気を使ってただ支配される制作作業になってしまい、大変"愉しくない"のです。さすがに音列一つだけだど音の構成も数分後には覚えて、本気で飽きてきます。
これをやってて「もう少し作業にバリエーション欲しいな」と感じました。
"自己方法論許容心理"が生まれるのはこんな時です。犯罪者が「魔が差した」というのが子供の頃は理解できませんでしたが、不定調性論を作ってよく理解できるようになりました。自分の方法論を擁護補完、拡大解釈したくなるんです。時には方法論を最初から見直さなければならない場合が出てきます。リディアンクロマチックコンセプトは、この補完作業を十分に行う前にリリースしてしまったので、その後何年も改定され、結果第二巻は発売できずに終わりました。この補完作業は初めから見直していかないといけなかったので第二巻はきっと冒頭から何度も書き直す羽目になったと思います。不定調性論も(覚えてませんが)三度ほど冒頭から全て書き直しました。書き直すだけで数年以上かかります。3回だと10年余裕でかかります。
現代において、このP1だけでメロディを作る作業は、音楽性を確認するにはちょうど良いです。16小節ぐらいで作曲志望の人にやっていただくと色々談義が行えるかもしれません。
飽きと目的意識の戦いを体感できますし、昔の芸術家の仕事の気分を少し感じられます。
スマホ時代にはない忍耐だったろうな、と。冬は寒いし、夏は暑かったろうし、戦争怖かっただろうし...。その中でよくこれ作ったな、と感じます。ウェーベルンやベルクの作品とか、その作業工程を感じ、無調音楽を聴いて泣けてきます。いや、半分は美しすぎて笑ってしまうのですが。ストップアニメーションを見て泣けてくる人はこれがわかるでしょう。
"これひとつひとつぜんぶやったんか"感動。
音楽鑑賞としては誤っているでしょうが、これも「音楽的なクオリアだ」とすることができるので拙論便利。
話を戻します。
一つのアイディアとして、例えばP1を二つ使うとどうなるか、というと
(これはひどいので音源なし)
この場合は、音をずらして作っても、オクターブずらしても結局どれかの音を強調してしまうような効果が出たりします。音列が同じですから、タイミングをずらしても他のところでやっぱりかぶります。
何より、12の音が一度ずつ出てくる、みたいなことを真っ向から否定します。
強調される音があれば、主音に感じさせる、というのがシェーンベルク派の弁です。同じ音列だと不意に調的な流れができないとも限りません。「音がかぶるから」といちいち直すのも創作意欲を幻滅させます。それは自分がいまやった作業を否定する精神的行為だからです。方法論の書き直しに似ています。
ここで忘れてはならないのは、
"主音に支配されないための方法論"
を作っていたから、こうした状態はNGとされた、ということです。
現代ではとても持てない信念です。
つまり不定調性時代においては、「多少の調性」が生まれてもいいのならこのやり方も面白い、にできます。
なぜなら、その響きに統一感が生まれてくると、前後の音が似ているので、なんらかの長調短調ではない調性感(広義の不定調性感覚と言って良い)が生まれる感じがするからです。
実際作曲方法は音列1つより少しだけ楽しかったです。
ここで、同じP1だけでは難しい、となれば、ずらしてみよう、ということでこの12のキーへの移行が許容された、として作業をしてみます。
この中で、P3の音列を使ったとします。
これをうまくまぶしてみましょう。
(これも音無し...)
しかしこれでもP3は全音離れた関係ですが、同じ音程差でずれているので、制作時に妙に全音の関係やそれらが合体して半音連続になったり、それを避けるために必要以上にオクターブ離して作る必要が出てきます。
不定調性時代的には二度和音がいい感じのパターンで表出して面白いのですが、相互に依存するだけの関係を作ろうとしている十二音技法的には、"良い"とは言えません。
失礼な話ですが、ちゃんと方法論作ってるなぁ、と感心してしまいました。
方法論て、この精査過程で嫌になってしまうんですよね。私も不定調性論的作曲実践いついては10年ぐらい全く前に進まない段階がありました。
自己の方法論を作っていれば、こういう「自分が感じる不具合」が気持ち悪いものです。そして時々「こんなやり方で新しい音楽なんて生まれるわけねーじゃん」なんて落ち込んだりするんです。
で、また数週間経っていろいろ考えるわけです。なぜって、解決するまで頭を離れず人生どころではないからです。そうやって数年すぐ過ぎます。考えるのは一週間に一度ぐらいだからです。毎日考えてるとノイローゼになるし。
なんとか、12音が均等に現れて、かつ変に似通った音が出てこないようにするにはどうすればいいのか。しかし別の音列は使いたくない...
もうこれほど社会に役立たない葛藤もありません(ああーよくわかる笑)。
もし私がシェーンベルクの生徒だったら、狂喜して師匠の家に寝泊まりして一緒に考えたと思います。
これ、要は最初の小節で12音が自在に使えて、音程差もバラバラになればいいんです。
そうでないと曲の頭はいつも5音とか6音でしっぽり始めるしかなく、なんか曲の可能性が小さく、曲の始まりも現実的に”小さい”ものしか見えてきません。
この「問題点」に気がつけば、あとは悩むだけです。
音列1と音列2の前半を足しても12音になるような状態で、かつ音列1と2が無関係ではなく、二つは音列1に関わっている関係を作る状態とは??
十二音技法の出した答えは一つの音列の後半を最初に使えるようにする、
線対称、いわゆる「retrograde」=逆行の音列を同時使用OKとすることでこれが可能です。これで音列1の後半が最初に出てきます。
見事に最初に12音使えます。しかも音程もバラバラ。この関係性を「二つの音列は別のものではない」という関係性にしようと決めたわけです。
実に恣意的です。でもこの決定には同情します。これを"自己方法論許容心理"といいましょう。
ここで最初の特別ルールが策定されます。
音列1つを使う、という発想から「12音が一度期に出てくるような音列構成であれば、併用可能」としよう、という"代理和音的"概念です。
CM7のところではAm7も代理できることにしよう、と似てるかな、と。
これが一つ見つかれば、
タイムラインに線対称な、Inversion.「転回、反転」型。
そしてInversionの逆行型。
もアイディアとしてすぐ生まれますね。これらのP以外のI、R、RIを誘導形または転回形と呼ぶそうです。
このIとR、どちらが先に着想されたのかわかりませんが、シェーンベルクはその書簡集のなかで、クラシックの対旋律、対位法などの技法的文脈が歴史にはあるではないか、という文脈的説明でこれらの誘導形が存在することは必然なのだ!と被せてきます。
対旋律的に音楽を作る習慣があるではないか!という文脈を採用???出典は当ページ下段のシェーンベルクの書簡集の中での一節です。
あれ?そういった伝統技能を破壊したい!調的システムを破壊したい?という意義で始めたのではなかったのかな?
みたいなツッコミを入れてはいけません。
これから解釈する我々が新しい価値をかぶせて行くことで先人の文脈を活かそうではありませんか。
方法論を作るときは、「根拠」を急に見つけたくなるときがあり、それが見つかると天下を取ったかのごとき興奮する「根拠発見興奮錯覚症」が起きます。方法論を誤るのもこんな時です。今はTwitterにあげれば数秒で誤りを指摘してもらえるから便利です。
おそらく一つの音列がつくる"旋法=旋律の法則"が十二音技法の新たなる音楽のありようなのだ、と言ってしまった手前、とにかく音をもっと使えるようにしたい、とは言いづらかったのかな、と感じました。発表を先にしてしまうと引っ込めるのが大変です。
そこで上記のような大御所作曲家時代からのカノンやフーガの伝統に文脈を見つけ、「ゆえにPとIは対位法の伝統から、これらのPとIは関係性を持っているのだ」と宣言したのかな、とも感じました。文脈に沿った適切なスタンスとも言えます。あとは言い方の問題だけ、かも知れません。
このようなことから音列のP,I,R,RIは関係性を持ち、相互利用してOKということになりました。これで可能性も増えましたが作業は48倍大変になります。
個々人の音楽性にも依るのだと思いますが、これらの組み合わせは膨大で、シェーンベルクをして「この技法を用いることによって得られるものは何もない」と言わせるほどのものです。我々がマスターできるはずがない?なんて感じてしまいます。
逆に言えば、より現実的な一般技法として、DTMでサンプルを音列のように並べて並べ替えて音楽を作る、という作業自体は、十二音技法から発展した一つのトータル・セリエリズムだ、と言ってみるのも一興です。そこに文脈が生まれるからです。あとは言い方。
必ず基礎音階一つを使う、ということについてはシェーンベルクのある思い出(?)もあるようです。
十二音技法を用いて作曲することによって得られる利点の主なものは、楽曲統一が効果的に行なえる、ということである。私はかつて自作のオペラ『今日より明日まで』に出演する歌手達の練習に立ち合っていた時、つくづくとこのことが正しかったという満足感を味わったものである。歌手達は全員が絶対音感の持ち主であったのだが、このオペラはどのパートもリズム、イントネイション、技巧、いずれについても極度に難しいのである。ところが、急に一人の歌手がやってきて言うには、基礎になっている音列にひとたびなじんでしまったら、たちまちリズムもイントネーションもみんな非常に楽になった、というのである。私は非常にうれしかった。(中略)
ワーグナー以前の音楽はほとんどがそれぞれ独立した小曲の集合から成立しており、その相関関係は音楽的であるとは思えなかった。
私自身の音楽観からするならば、偉大な作品が劇的進行の表面的一貫性だけからつなぎあわされている、というように解したくはないのだ。たとえ或るオペラの中で歌われる一つの旋律がその作者の最も安直な他の作品から引用された「穴埋め」にすぎないとしても、"何か"がこの作曲家の楽式感覚と論理を満足させていたにちがいない、と私は思うのである。われわれにとってそれを発見することは不可能なことであるのかもしれないが、それは厳として存在するのである。音楽にあっては論理を持たない表現形式は一つとして存在せず、また、一貫性のない論理も存在しないのである。
私はワーグナーが「ライトモティーフ」を導入したとき--私が基礎音列を導入したのと同じ目的で--「統一あれ」と命じていたに違いない、と信じているのだ。
絶対音感があると、音列が一つ指定されれば、イメージが湧く、というのはなんだかすごい話です。
十二音技法は絶対音感のある人だと、聞こえてくる世界に違いがあるのでしょうか。
そうなると、やはりシェーンベルクぐらいの人だったらこの十二音技法はそこまで難しくない、のかもしれないな、とただ遠い目になりました。
ここに書かれた近代音楽批判もシェーンベルクらしい戯曲調の物いいですが、現代から振り返れば、ワーグナーらの作曲方法はプログレッシブロックの先駆けであったわけで、決して一貫性がない、とは感じません。それもやはり我々の音楽感覚が変わってきたせいでしょう。そのへんはこの文言を現代的に読み直す必要があると感じます。
次回はこれらのルール体系に基づいた十二音技法の現代的意味をまとめて終わりにしましょう。