和音はなぜ進行するのでしょう。音楽はなぜ変化するのでしょう。
その根本的な仕組みがわかっていれば、音楽がなぜ進行するのか、もわかりますし、ドミナントモーションがなぜ進行するのか、なぜ完全静和音が動性を持つのかもわかります。
そもそも人間自体が、
・何かを見れば印象が変わる
・音を聞けば気分が動く
・同じ言葉でも昨日と今日は違って響く
という生命体です。
これは脳そのものが、もともと変化し続けるように働いているためです。
認知科学では、脳は外から来た情報をただ受け取るだけではなく、「次はこうだろう」と予測し、その予測を現実に合わせて更新し続ける装置として働いていることはわかっています。
つまり私たちの心象は、完成済みの静止画ではなく、予測と修正の流れの中でその都度創造され続けることで存在しています。
身体内部の全ての毎秒ごとの変化状態に、私の気分や印象を常に更新され、その変化の具合を比較しながら異常はないか、今心地よいか、と心象を感じ続けています。
内受容感覚に関する研究では、脳は体の内側から来る信号についても予測を立て、そのズレを調整していると考えられています。人の心象は、外界からの刺激だけでなく、身体内部の状態にも揺れ動く存在です。
心象の変化は記憶も強く影響しています。「今」を感じているのは、直前の出来事や過去の経験との幾度もの呼応の結果です。
予測処理の考え方でも、知覚そのものが、過去の学習にもとづいた見込みと現在の入力との照合の結果生じます。
心象は、外部刺激、内部変化、そして記憶と予期行動のミクスチャーとして意識の上に流れゆく川のごとく絶えず変化しています。
音楽の進行を考えるときにも、これはそのまま当てはまります。
非常ベルのように一定の音でも、鳴り始め、しばらく鳴っている時、いつまでも止まらない時、それぞれに心象が変化します。音が一定なら心象が変化しない、などということもありません。
ある和音のあとに来る別の和音は、それ単独で鳴っているのではなく、直前までの流れとの関係の中で聞かれているため、その連鎖と記憶と心象の変化が次の心象を作っているため、どのような和音も連鎖すれば「進行感」を感じてしまいます。人がそういう構造だからです。移り行くのは和音ではなく人の心象です。
人の外部と内部の知覚反応と記憶された直前と、予期される次のあいだで成り立っています。
音楽心理学では、音楽における情動や意味は「期待」がどう扱われるかと深く結びついていると考えられてきました。現代の研究でも、音楽聴取において人は統計的な学習に基づく予測を行っており、どの音やリズムが来そうか、どれくらい意外か、といったことを無意識のうちに処理していると考えられています。
音楽を音楽として感じること自体が、かなりの部分、予測のはたらきに依存しています。
面白いのは、音楽の予測が単に「頭の中の知的な計算」だけではなく、リズムや拍を聞くと、運動系の脳領域が関わったり、拍を取る、体が揺れる、足で刻みたくなる、という音楽知覚そのものが身体の時間感覚や運動予測とも結びついています。
音楽は、耳だけで起きる出来事ではなく、身体ごと次を見込む現象です。
音自体は「変化」しているだけで、「連続している」「移行した」と感じているのは人の意識だけです。記憶があるからです。
音楽の変化には「人」が介在しない限り意味を持ちません。
本質的には心象も音楽も固定されたものではなく、時間の中で更新される認識過程です。
心象の変化は、しばしば雑多で、まとまりなく、偶発的です。拙論では「音楽的なクオリア」と呼んでいます。
一方、音楽の変化は、多くの場合、必要で意図的な変化を選び取り、時間の中に配置し、構造として周囲の人が聴いて認識できる形にしてあります。
心の変化が「自分存在の流れ」だとすれば、音楽の進行は、「存在の流れへの呼応」です。ここに作曲や演奏の意味があります。音楽の進行は人の心の動きを模したものでありながら、より理想的な変化、整理されたリフレイン、などのより整理された構造にして、「雑多すぎる心象変化の雑然さ」を取り去って「理想的な変化を求め、それを世界に現そう」という人の表現欲望を感じます。
和音が進行するのは、和音そのものに進行エネルギーがあるのではなく、人間が、その和音に意味と進行する未来を与え、その期待・予期・願望に沿って、進行させるから、進行に伴う心象の変化が生まれ、そこに音楽の進行が人の心に存在物として認識されるために、「和音が進行する」という現実が意識に記録されます。
和音に限らず、舞台の上で音がひとつ鳴ると、聴き手の中にはすでに「次」を感じとります。観客が全員猫であれば、人が期待するような「次」は期待されません。
「次」が予想通りに来れば安定や納得が生まれ、少し外れれば面白さや揺れが生まれ、大きく外れれば驚きや緊張が生まれます。
現代においては、それぞれに意味があり、それぞれがその場のそれぞれの目的に叶っていれば、それは表現として受け入れられます。
従来は非機能と言われたものも不定調性という概念を設定してしまえば、非機能は求められる願望の1つとして立ち上がるわけです。
聴く心があれば進行は生まれます。そこに意味がないと言った瞬間、価値も生まれません。
和音が持つ「動性」も、人がそれを与えることで生まれます。
不定調性論は私の独自論です。私が和音に「動性」を与えるため、そのおかしな和音進行は私の中で機能しています。基準として、動和音と静和音を設定しただけで、どこかに「必ず動く和音」があるわけでも「絶対に動かない和音」がある、と定めたわけでもありません。
==========
独自論という打ち出しは、一方で他者の決める物事に距離感を持って理解する意識も作ってくれました。
「この人の独自論に賛同するつもりはない」とその人がいえば、私の音楽はその人に大きな心象を与えない、ということを認める、ことになります。でもこの線引きがはっきりできる点は非常に大きかったです。必要以上の人に聴いてもらう必要はそもそもなかったのです。
私の中でのみ意味があるものを私がまず体感し、その体感が生まれることで初めて他者への理解も生む事ができました。私は誰かを説得する必要はなくなり、まず私が私を理解することによって、私はあなたを理解するための思想ややり方を得たのです。
結果として、その方法論を用いた作曲、技法や作曲に対する信念も深めやすくなりました。当初の目的であった「自分の曲を自分がスムーズに作曲できること」という目的はこれによって達成されたわけです。
後は磨き続ける道を歩くだけです。
誰かの信頼を得るために、自己を犠牲にする必要がある時代の中で、誰かの信頼を得ることを放棄する事は非社会的でした。でも現在の社会自体が随分と非社会的ではなか、とも感じます。必要以上に過密ではないでしょうか。互いが干渉しすぎているように思うのです。
まるで嫌いな人と毎日ランチをとっているような息苦しさがあります。
独自論を意識することは、一つ手放すことでまず自分を整理する時間を手に入れる鍵ではないかと思います。