個々人の音楽観においてコードネームや調性支配が現代的音楽においてどのような範囲まで影響を及ぼすかについて。
不協和だけど、個々人がカッコよく感じられてしまう音への柔軟な理解のあり方を展開してみようという話です。
CM7というコードが書かれた小節を題材にしてみます。
下記のように一小節があったとします。
この小節の上にCM7と書かれてあれば、
この小節全体をCM7が支配する、と考えるかと思います。
この「指定したコード概念が影響を及ぼす範囲」のことをここでは、
Harmonic Impact Range=コードの影響範囲
としてみましょう。
ここにジャズのII-Vの慣習が入り込むと、
小節の後半に勝手にソリストがドミナントの領域を配置して、ソロの中にアクセントや浮遊感、アウトサイドを演出します。このソリストにとってCM7という小節の解釈は上記のように拡大しています。
この辺りはこれまでのセオリー(慣習?)の通りです。
では、
この場合、ほんの一拍目の頭だけにしかCM7の範囲はない、として、それ以降にCM7とは不協和なメロディや音色が支配する場合、とします。背景に和音がない場合などです。
また
これなどは、先ほどのII-Vの介入の思考の拡張版です。
低音部はCM7でありながら、上部のソロやメロディがV7系のオルタードテンションと解釈させてしまうようなアイディアです。
この場合、この小節のサウンドは「従来の音楽理論的不協和」になる場合があります。
低音から、
c#
f
e
c
といった配置になっていたとき、これは、例えばG7(b5)/CM7的と解釈しても良いでしょう。
これから打ち破れる最も身近な挑戦に、明らかに理論的に誤ったと誰もが思う音の使用の工夫があるでしょう。
ホリゾンタルな不定調性はこれまで許されてきましたが、バーティカルな不定調性を行う、です。
当ブログでは、米津玄師作品でその考え方に触れたことがあります(ノイズが楽曲のキーに不協和を起こすがある種の奇妙な印象を感じさせることでハッとさせられる効果=不協和の新たな表現)。
垂直といっても音楽は完全に停止しているわけではありません。
また昔と違い、DAWの進化で、定位も変幻自在、タイミングもコンマの世界で変幻自在、もちろん音色も変幻自在、ですから、伝統音楽理論が示してきた協和と調という集合が持つ引力の隙間を縫うような音も可能かもしれないのです。
「それはありえない」を疑う、これが感性が最も得意なスタンスです。感性は常に新しいものを求めていますから、「違和感」は意外と大好物(体調の不具合、バランスの不具合などに気付きやすい人の感性の性質を音楽表現に活用する)です。
逆に伝統知識とはそういったアノマリーをろ過してきた智慧のマジョリティです。その両極端のどこに自分を置くか、そしてどんな手法で自分が音楽をやるか、です。
その正当性は後世がその都度評価し続けます。
サウンドの濁りや、エフェクト音との曲のキートーンとの濁り、などの「明らかに理論的に誤った濁り」であるにもかかわらず、それを繰り返し聞くことによって、人はそのサウンドに慣れてしまう、何度か聞くとカッコいいと感じるようになる状況が起きやすくなります。
音楽を繰り返し聞くからです。
演奏会でしか音楽を聴くことがなかった時代と違い、今は繰り返し聴くことができますので、違和感に慣れるスピードも早いのではないでしょうか。
「かっこいいから、別にいいじゃん」のままに放置してしまうと、逆に(あなたにとって)もったいないというか、あなたの感じ方を拡張した表現手法にまで昇華できると逆に武器が増えるかなとも感じます(米津氏が実行し、トライしているように)。
先の例に戻りますと、
本来であれば律儀に小節上部にG7(b5)/CM7と記入する必要があるのかもしれません。しかし人によってはいちいちそれを明記しません。
それを言うなら、現代はDTMでドラムの音もエフェクトの音もピッチを量ることが可能です。いちいちそれらをテンションサウンドとしてコードネームに表記することはしません。
それらのピッチもコードに反映させるとしたら、例えば「スネアの音程がCM7ではないからダメ」「シンバルの音がCM7でないからここは不協和だ」などと突っ込むことができます。それをしないのは、そうしたことまで和音に含める慣習がないからです。
科学的に言えば、その小節は限りなく不協和です。不協和を唱える人もまた慣習の中にいるのではないでしょうか?
Harmonic Impact Rangeは原稿の音楽理論の中でも本来2層になっているのかもしれません。
音程のはっきりしている楽器のピッチ(音程楽器を対象)と音程のはっきりしていないピッチの層(打楽器、FX、人に聞こえづらい音域)があるという意味です。
では、ドラムの音も全て、キーの音に合わせ、全ての音がバランスを保ち、協和を保っているから、その音楽が常にかっこいいかというと、やはりそうとは断言できないと思います。不協和の度合いが音楽のテンションを作ります。
こうした感覚的主張を方法論的に補うのが不定調性論的思想です。
不定調性論は「聞いた感じに感じること」が自分にしっくり来る時、それが理論的に成立しなくても採用してみる、という音楽表現の動機が根本にあります(音楽的なクオリアの鍛錬=文字通り自己表現)。
個の道には音楽理論の後ろ盾はありません。そういうことを気にしないタイプは下手に音楽理論を学習するよりも、自分の感覚を誰よりも研ぎ澄ます方に進むのが良いでしょう。勇気が人一倍入ります。
Harmonic Impact Rangeの考え方も、個々人の繊細な感覚そのものを従来の音楽理論思考から拡張するために設置したものです。
こういう時に、従来の思考を拡張するか、従来の思考に当て込むかは教育者によっても手法が分かれると思います。
不定調性論では、こんな風にコードの一時的特殊解釈をすることが可能です。小節の中が三次元になっている状態です。結局12音が使用可能になるのですが、小節の中がこのように立体的に感じられて楽しむ性癖があるためです。
作られた音楽がどのような嗜好で縛られているか、は作曲者本人に聞いてみないとわかりません。また解釈する側も自由ですから、聞き手一人一人によってもその音楽理論的解釈は違います。
そう感じるにはそう感じるだけの必ず論理的な理由が個々人の中の理屈にあります。
30年ほど前の音楽は現在の音楽理論で説明できるようになりますが、今現在の音楽は現代の音楽理論そのものがまだ成立していない状態で作られていますから説明できないものが多いです。それはジャズやビートルズなどが証明してきたことです。
現代という貴重な時空間では答え合わせをするだけではなく、論理そのものを創造してみる、という贅沢なことができる、それが今を生きている人の特権ではないでしょうか。