音楽教室運営奮闘記

音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

休符だけの曲をアナライズ。★★★★

エルヴィン・シュルホフ”五つのピトレスケ”第三曲(1919)

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では、今回はこの曲をアナライズ(?)というか、不定調性的に考えてみましょう。

 

もしあなたが、それはアナライズできない、と思うのであれば、あなたは「楽曲分析」について少し偏りのある価値観を持っています。

カレーを箸で食べたらうまくない、と信じているのと同じです。

 

不定調性論は、印象で音楽を考えていきます。またその発想で全ての表現物を考えていきます、またその発想で人生を考えていきます笑。

音楽と生き方についての話です。だから作品でも、人間でも、仕事でも、自分の感覚を常に真ん中に起きます。知識はそれら補填する二次的なものです(どちらを真ん中にしても失敗するときは失敗しますからね。自分を信じて失敗するか、他人を信じて失敗するかのどっちがいいか、これは好みです)。

 

だから最初は、「何この曲」「は?ありえない」とか「ふ、おもしろいね」とかそういう反応から入ると思います。それを感じたことを認めましょう。

あとはこれが、もしあなたがすごく尊敬する人が書いた曲だったら。今好きで好きでたまらない魅力的なアーティストが書いたとしたら、あなたの印象は変わりますか?

彼がどんな生涯を送り、何を考えて、何を残していったのか、そういうことに想いをはせらせるのが「音楽の印象がもたらすもの」の先にある、「人の慈悲」ではないかと思います。興味があれば調べてみましょう。

Erwin Schulhoff - Wikipedia

 

この曲は楽譜がすでに音楽を奏でています。

この楽譜を見ると、何となく楽しそうな、それでいて灰褐色の凄いメタリックな憂鬱みたいのが同居していてなんともいえない鬱屈した滑稽感を覚えます。この表情を見るだけでもう十分この音楽を聴いたような気分になります。実際無調音楽ってそんな印象じゃないですか?音を聴いても聴かなくても同じ印象を得る、ってどういうわけ?

 

この曲を演奏するときは、頭の中でも演奏できますから電車の中でも自在な即興演奏を奏でられます。ipodを聞きながら通勤するのと同じです笑

 

低音譜表が上段にありますから、低い音域のメロディを力強く打って、高い音域で無表情に伴奏を取ります。頭の中にあるのは、右側が低くなっていく鍵盤ですね。

 

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次に考えるのが「休符」の存在感です。

究極的には、音と休符は同じものです。

音は指定された音、

休符は指定されていない音

です。だから聴き手がそれぞれの音高を作ってオッケーですし、音高ではなく「ああ、今日は昼、何定食をたべようかな」っていう思考そのものでもおっけーです。それは音でも休符でもない、と仰るかもしれません。でもそれは「あなたの休符がなんであるか」という前提が他人と異なっている、ということをまず議論しないといけなくなります。それは面倒です笑。

 

だから「指定されていない音」はあらゆる印象を想定することが可能なわけです。

よし、五つのピトレスケ”第三曲を演奏するぞ、って決めた瞬間、それはアート的空間になる、というのを活用すればいい、というとても便利な表現方法をシュルホフは示したわけです。この休符のリズムに音符をあてはめれば、それだけでのシュルホフリスペクトの

「カバー作品」

ですww。

 

音を指定するのは、結婚相手を選んで結婚する事

音を指定しないのは、まだ存在しない人と結婚する事

 

とでも言えばいいでしょうか。前者の方がリスクを取って勇気を称えられる行為、とされています。そして後者はズルい行為として笑いのネタにしかなりません。こうした潜在的な「ずるさ」を感じさせるがゆえに、現代音楽も「過去のルールに則らず、自分勝手にやって評価してもらおうとする姑息なやり口だ」という意見が無くなることがないわけです。結果「評価してたまるか」「共有できない」「モテない」とかの理由から人気がないだけです。その辺は現代音楽もプレゼン不足なのですが。

ルールに束縛されていないやつは、ズルい、安易だ、怠惰だ、という論理、これは、才能ある人が束縛されて努力して一生をかけて成果を上げているのだから、才能のないやつも同じようの努力してはせめてそういう人の20%ぐらいの生き方でつつましく生きていくべきだ、という全体主義的発想からきています。

 

これ、誰がそのように仕向けてくるのでしょう。名もなき権力でしょうか。

組織をまとめ収入を稼いで家族を持っている会社の上司でしょうか。

 

たしかにこうした「人生のレール」の上から外れるのは恐怖でしょう。

でもそこから一回外れみて、自分が気持ちいいか、試すことはまだ許されると思います。そうやって怠惰と言われる生き方をしてみて、何かを発見できる人も少なくありません。それによって「頑張っている人が頑張って稼ぐ年収」を一晩で稼ぐ場合もあります。年収が全てではありませんが、それは「向いていることをした結果、周囲が与える報酬」ですから、もし周囲の生き方に違和感を感じるのなら、一回外れてみよ、

 

と、シュルホフは言ってるんですww

 

おっと、ここで俺のせいかよ、みたいにシュルホフ先生に言われないようにしたいところですが、そういうことを芸術作品から"勝手に"読み解けるようにさせる、不定調性論的思考、危険かもですね。

 

印象を素直に認め、それを自分にとって適切に判断するんです。

社会にとって適切に判断できるようにするのが通例の一般教育です。これは普通に学習していたら付きます。ただ、それが対個人、になると極度に難しくなります。

 

これ簡単そうで難しいです。反社会的な思想も頭をよぎりますし、理性と本能の真ん中に居続ける、ってバランスなんてそうそう保てるものではありません。

ホント、そこが一番の鍛錬。

 

モーツァルトの作品を「アナライズ」したとき、モーツァルトが何を考え、どういうテクニックを使い、どういうトレンドを使っていたかを知り、同時に、それをどうって自分の作品、生き方に活かすか、って言う話になると思います、究極は。

で、ここまでの文章を読んで頂ければ、ちゃんと教訓までたどりつけると思うのです笑。

どういう印象をこの作品から得て、どう自分の人生に活かすか。をです。


nicotter.net

コメント読むと、みんなよくこの作品をわかってますねwww。

もう少し深く切り込んでもいいと思うけど、さすがにそのそこまでまともにニコ動で語らうのはまだ恥ずかしいものと見える、、若いな笑。

みんな、遊びに付き合ってる感が出てますよね。でもバッハの宗教曲でも、この曲でも価値、というかどれも真剣なものであり、どれも遊びに付き合ってる感で良いと私は思います。人間が互いを崇高なものだと思えばいいだけなんですよ。これはダメな奴、これは凄いやつ、って言う振り分けは自分の好みの中で行われてる勝手な判断だったり、他者への従属とかで起こっていることだ、と。互いにちゃんと尊重すれば、無料で聞けるから崇高ではない、って思ってるとあとでしっぺ返しを食らうし、高い金を出したからって期待しているとがっかりすることもあります。

じゃあ大事なのは何か?じゃないですか。結局自分の期待値や印象、想定で人生を判断しているので、苦労して貧乏、より、楽しんで儲かるほうに全力を注ぐべきであると思います。動物の中に「自分が苦労するように備わった体の器官」なんて一つもありません。

あなたは自分が思う幸福をもっともっと求めていいんです。

 

 

そして、真剣に「自分でもこういう作品を作って世間に訴えたい、作りたい」と思う人は、それ性癖ですから笑。安全にそれを満たすためにアーティストになるために研鑽する、というだけであると思います。

 

でも社会は弱肉強食。いつも頭を使っていないと、狡猾な人に出し抜かれてしまいます。でも一回負けても踏ん張って!感性で次の策に出て頂きたい、何度でも追い抜けますから。単純ではなくとっても複雑なのが実際の社会、かならず突破口はあるので、諦めないで考えてください。そのとき「理論」が邪魔をするので、いつでもそれを解除して秘策を生み出すのが不定調性論という思考のプラグインです。

 

ちょっと意味の分からない記事だけど、後日リライトしよう。

シュルホフ先生、素晴らしい曲をありがとう。

おつまみ。