エルヴィン・シュルホフ”五つのピトレスケ”第三曲(1919)
http://imslp.org/wiki/5_Pittoresken,_Op.31_(Schulhoff,_Erwin)
この変な楽譜???(著作権は切れていませんので掲載しておりません。リンク先でご覧ください。)
では、今回はこの曲をアナライズ(?)というか、不定調性的に考えてみましょう。
この動画の8:08 - III. In Futurum をご覧ください。
無音の曲です。
最初は、「何この曲」「は?ありえない」とか「ふ、おもしろいね」とかそういう反応から入ると思います。
それを感じたことがまずこの曲を聴いた感想となります。それをまず認めましょう。
彼はどんな生涯を送り、何を考えて、何を残したのでしょう。
この曲は楽譜がすでに音楽を奏でています。
この楽譜を見ると、何となく楽しそうな、それでいて灰褐色の凄いメタリックな憂鬱みたいのが同居していてなんともいえない鬱屈した滑稽感を覚えます。
この表情を見るだけでもう十分この音楽を聴いたような気分になります。
低音譜表が上段にありますから、低い音域のメロディを力強く打って、高い音域で無表情に伴奏を取ります。頭の中にあるのは、右側が低くなっていく鍵盤かもしれません。
しかしながら、音を聴いても聴かなくても相応の印象を得る、というのはどういうわけでしょう?この辺りが不定調性論的思考になります。
つまり音楽があなたに印象をもたらしているのではなく、あなたがそれに接しようと思い、積極的にあなた自身がその印象を得ているわけです。
次に感じるのが「休符」の存在感です。
究極的には、音と休符は同じものです。
音は指定された音、
休符は指定されていない音
です。正しい定義ではないけど。
休符=聴き手がそれぞれの音高を作ってオッケーですし、音高ではなく「ああ、今日は昼、何定食をたべようかな」っていう思考そのものでもおっけーになります。
それは音でも休符でもない、と仰るかもしれません。
でもそれは「あなたの休符がなんであるか」という前提が他人と異なっている、ということをまず議論しないといけなくなります。そしてそれは面倒です笑。
あなたが誰であるかを決めるのはあなただし、それは誰かに許可を取る必要はありません。
だから「指定されていない音」に対してあなたはあらゆる印象を想定することが許されているんです。逆に音があると作家に押し付けられたものを無理やり食べさせられる感がありますよね。ときどき。何か感動を強要されるような音楽とかあるじゃないですか。音楽が鬱陶しい映画。
そういうものがないことを主張する音楽があっても良いですよね。
そういうことも印象です。それを自分にとって適切に判断するんです。
つまり感じ取ったことすべてがこの曲の印象で、あなたはそれを素直に感じて受け取ることができる、それが不定調性論的楽曲鑑賞です。
・こんなのつまらない
から始まり
・これは締め切りに追われた音楽をひたすら作っている20世紀への皮肉だ
という印象に発展するかもしれません。そういう鑑賞を伝統音楽理論的アナライズでは得られません。そもそもあの時代にこういう音楽は存在しなかったらアナライズの文化が追いついていないんです。
それ補いたくて不定調性論的思考を作りました。
これがあれば、無調音楽へのアナライズも簡単です。
どういう印象をこの作品から得て、どう自分の人生に活かすか。はどの時代の音楽文化も同じです。
この動画のみなさんのコメント読むと、皆さん、よくこの作品をわかってますねwww。
現代的な鑑賞がこのように成り立つことをシュルホフ先生が考えていたかどうかはともかく、ちゃんと成り立っています。
もしあなたが真剣に「自分でもこういう作品を作って世間に訴えたい、作りたい」と思う人は、それ性癖ですからぜひ向き合ってトライしてみてください笑。そうすると自分のことがもっと分かるかもしれません。
アナライズは和声記号以前に、人の印象がある、ということをまず確認しましょう。
それからジャンルや時代に応じてアナライズの方法を勉強したり自分で構築してみてはいかがでしょう。
不定調性論は、そうした印象記述式のアナライズを精密に行うことで楽曲への最初の独創的理解を作ろうと試みます。