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音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

100(番外編) Air/武満徹 とある解釈(2018版)★★★★★

Air (1995)/武満徹を印象で考えていく(楽曲解釈の一つの方法)2018版

 
同曲の解釈作成にあたり下記動画を参照。

Tōru Takemitsu: Air (1995) - YouTube

 

 

 

 

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■はじめに
こんな難しい曲ぜったいわかんない!!

 

とされるのが、芸術音楽の一番のディメリットであることを芸術家は気に留めません。

 

なにせ理解できる人が、価値を感じる、という至極シンプルな理屈しかそこにないからです。

 

でもアイドルの曲も世界のタケミツの音楽も空気の振動だよ。。

同じ存在だよ。まあチョコレート味がするか、しし唐の味がするかの違いは確かにあるけど。しし唐美味しいでしょ?

 

だからオタクの代表として、チョコ食べる時としし唐食べる時、それぞれ楽しもうぜって言うのが今回の企画の主旨です。

 

この曲がチョコレートで、アイドルの曲がしし唐という人もぜひ。

 

 

下記の同曲ないし武満の解説、

エア (武満徹) - Wikipedia

武満徹 - Wikipedia


などは誰でもアクセスして、読み得ることが出来るものとして考えますね。

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■プロット(あらすじ)
同曲はフルートソロ曲で、六分以上の楽曲(1995年作品)である。

同曲の解説にみられるa音の重要性について。

同作品に用いられたa音の数は65、武満氏の享年も65、単純に偶然であろうとは思う。ただ、そうした関連性を人の心が知ってしまえば、無視することがどれだけできるだろうか。

結果的にこの作品のa音は武満氏の1年1年を経てゆくがごとくの縮図に感じることだってできる。

AirのAであり、アルファベットの始まりのaであり、音階の基準音としてのaである。音楽と言語と物事のコアのようなシンボル「a」。

なお、添付楽譜の赤線の付いた小節はa音がない小節である。前半は二小節単位でそうした小節が挟まれ、後半はわずかな音価のaを挟むだけの、a音の無い小節が連続する部分がある。これは意図した統一性なのか、意図しない統一性なのか。

 

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■詳細
1-6小節---「主題と縮図」
この楽曲で最初と最後で明確に繰り返されるメロディ。

始まりと終わりが同じ=死生観、輪廻感。

メロディの印象はソロ楽器ゆえに淋しく孤独。

ここではa音が音価の長い音として用いられている。

二小節目の下行フレーズはホールトーンスケール(全音音階)的であり、不可思議感あるいは疑問を覚える。

一小節目のジグザグに上行する旋律は空気のゆれのようでもあり、人の呼吸(吸う方)のようにも感じられる。

このとき問いかけを行っているが、帰ってくる下行フレーズでも疑問は解消されず、疑問に対してさらに混乱を引き起こすような疑問だけが述べられている文章のようである。

95年当時の同氏を慮るに、死への疑問、病への疑問、人生への疑問などが感じられる。

 

そして四~六小節までの、e-dis-cis-aという音の組み合わせは、A△(#11)という和音であり、e→disの流れは、M7下行であり、とても落ち着かない。

座ろうとするが、体の中に違和感があり着席できずに居ても立っても居られないような心地悪さを感じる。
この二回繰り返される旋律は、森で優雅に鳴く鳥の声のようにも感じられる。全く前後の見えない暗い森の中で、つがいや仲間を捜して、えさを探して、何かを求めて鳴く鳥の声のような、静けさの中の何とも言えない寂寞を感じる。

 

無調的な楽曲において、繰り返される旋律が放つ聴覚イメージは無色ではあるが強烈であり、どうしても意味を求めてしまう。

作曲においては効果的である、と同時に、様々に理解される恐れもあるわけだから、作曲家は時には「攻めの姿勢」でそうしたモチーフを意図的、又は無意識に置くのではないだろうか。

 

7-14小節---「より深き疑問によってうごめく真実」

主題が終わったかと思うと、人の焦燥感をもてあそぶような、十六分音符の旋律が二小節続く。 

まるで人生に対して疑問を抱いた人間が、思いつめ、そうした目ですべてを見たとき、急に全ての世の中の負の真実が堰を切って頭の中に襲ってくるような出だし。

 

やがて、その負の真実を見まいとして、すぐに呼吸は整えられる。

後半の小節は静かな旋律が深呼吸するように配置されている。

 

15-22小節---「主題の変」

最初の主題と類似したラインが微妙に形を変えて現れる。

まるで空気の中にあった得体の知れない真実の形が人間の意思をはらんで、少し違ってその真実が見えている様を音形で表現されているような印象を受けた。

 

最初に主題があり、そのあと細かくランダムな旋律があり、そのあと崩れたような主題が戻ってくる、という構造は、ジャズのテーマのようでものあり、また疑問と不可思議だけの生の世界(主題)と、餓鬼と混乱と混沌だけの世界(死の世界)の狭間を行き来しているような印象も覚えた。

 

23-31小節---「hの浮き立ち」

このセクションでも後半、主題を崩したような旋律がほぼ類似した構成音を用いて構築されている。ただ、ここで変化が起きる。24小節から、hの音が伸ばされているのである。 この変化が意味するものは作者にしか分からないが、ある意味での転調と考えても良いし、冒頭のa音の数が人の人生の一年一年と理解するのであれば、それは一つの時期を象徴したもの、と観察することもできる。

一体何が起きたのだろう。そして31小節までは主題と同じである。

 

同曲では、22,37,54,61,71小節に全て2/4拍子の全休符の小節がある。 

それ以外の拍子は、変拍子の概念を越えて、小数点まで用いた多種多様な拍子があるにも関わらず、全休の小節は全て2拍子である。

これらの数に意味を求めても良いだろう。

この楽曲は98小節ある、という点にイメージが広がるのだ。一小節を1年として、彼はせめて98まで生きて、沢山の作品を残し、迷いながらも自分の人生が完結すべき年齢、としての98を考えるのである。

22歳の時、彼は作曲家デビューし、37歳でかの「ノヴェンバー・ステップス」を書いている。全休符が置かれた小節数と一致するではないか。

では54,61,71は何かとなれば明確なことはわからない。すぐこのバイアスは破たんした。

 

32-37小節---h主体の上昇の項ここからは上行主体の旋律がみられる。そしてここもh音の音価が長い。

 

38-43小節---c#の突出先に37歳で「ノヴェンバー・ステップス」を作曲した、と自分で書いたことから、どうしてもこの40小節目のポルタメントと、42小節目のトレモロは、尺八の音に聴こえてしまう。

このセクションではf音の音価が長い。

また転調しているとも言える。そしてcis音が全く曲とは関係のない音のように突然ホイッスルを吹く(38小節)。

合図なのだろう。

また41小節の後半のパッセージの使用音も主題の使用音と同じであるから、これらの関連性、および響きの調性的バランス、コンセプトは冷静に保たれている。

 

46,47小節の繰り返されるパッセージは、どこか不気味で、「あれ?これって、なんかおかしいんじゃないか?」というような疑問みたいなものが無意識のうちに湧いてきているような印象を持った。 

そして不可思議な48,49小節の四音である。 ため息のようでもあり、何かを悟り、覚悟を決めた(ある種の悟りを含んだ)ような宣言のようにも感じる。

 

続く50小節のパッセージの動きはとてもランダムだ。まるで吹っ切れたようでもあり、不条理を乗り越えたようでもある。そして52,53小節はまるで歌うように軽やかで、この曲の旋律の中で最も「歌謡曲的」というか、商業音楽的な要素を感じる部分である。 

 

55-61小節—

主題的な旋律構成がされてはいるが、伸長音がf主体となっている。a音を持たない小節が主体になっている。

 

62-71小節---eの伸長が目立つ。

享年に当たる65小節目を難なく飛び越え、71小節目に全休符が置かれる。65年の生涯であるとは全く感じていなかったという事であろうか。

それとも氏自身ではなく、別の人間の人生をかたどったものだろうか。それとも人生とは関係のない別のテーマだったのだろうか。

 

はたしてこうした個人的印象を全く考えずに音楽を聴き、演奏し、解釈することなど出来るのだろうか。


このeの項目の楽曲における必要性はどこにあるのだろう。

これが今回の分析で私には当初分からなかった所だ。a音が避けられた項目を作ることによってモーダルな変化、展開感を持たせた項、と捉えれば簡単であろう。

 

同曲は、フルート奏者のオーレル・ニコレの70歳記念コンサートのために作曲された、とあるが、武満氏当人はその年齢に対してどのように思われたのだろう。


72-87小節—聴感上最高音のeから、転げ落ちるような旋律で始まり、伸長音は安定しない。

不思議なきらめきのある項。

 

そこから体勢と息を整えるように、様々なつぶやきの果ての結論を述べるかのような流れの中で主題の旋律が現れる。

フォルテッシモが力強く空間をえぐってくる。主題であるから当然後半はa音が主体になる。

ここで曲を終えても良いはずであるが、聴いた感じは、ここまで来ると、このままでは終わせない、という印象も与える。

72小節からの下降は、まるで天界から下界への転落である。ここで蘇ったのかもしれない。

復活しても、主題の動機や疑問、不可思議感は変わらず、輪廻があるのであれば、それを受け入れ、やはり生きても、死しても、疑問と不可思議というのはそのまま変わらず、まだ地上に存在している、これを受け入れよ!という強い調子を主題のフォルテッシモに覚えた。

ここで、先に保留した62-71小節は、疑問を持ったまま静謐な状態で死した情景だったのかもしれない、というような想いを得た。

 

88-92小節—勢いを持って投じた主題の先の旋律を再度噛み締めるような項目である。ここでもa音が主体を保ち、決して狂乱してはいないことを、己を見失ってはないことを示しているように感じた。

 

93-98小節---最後に全く同じ形式で主題の旋律が繰り返される。

生まれ出で、生き、死に、そしてまた生まれ出でても、疑問と不可思議は全く、何の変化もなく、そこにある。

 

武満氏が98歳まで生きたら、2028年ということになる。

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みたいに考えてみました。

こうやって、何でもかんでも人生に当てはめるのは便利です笑

 

誰でも共通してイメージしやすいですし。

 

随筆でも読んでいるような気分ですよね。

でもたまには古典の名作もいいですよね。言葉が磨かれる、というか、無駄な欲望や感性がそぎ落とされていくというか。

 

ビートルズなどにも理解を示した同氏が「現代音楽」という色合いの音楽の中で生きた中でどのように音楽を捉えていたのか分かりませんが、この曲、とってもポップだと思いません?すごく言いたいことが伝わってくる作曲家。同じ日本人だからかな。

 

 

今回書いた内容で、同曲の真意を理解している、というわけではありません。

 

そう聴こえ、そう理解できて、そう入ってきた、ということを自分に認めてあげることで結構音楽って楽しくなりますよ。「君は間違っている」と言われるかもしれないけど、そういったあなたは私より何%正しいのか?そしてあなたよりも更に何%正しい人がこの世に絶対いないという確率はどの位か?なんて話になっちゃうでしょ?

だからあなたが間違っていることを気にする必要はありません。ことこういう話においては。

 

ぜひ、現代音楽、あなたの感性でもっとたくさん聴いて頂きたいです。

 

これ、アイドルで現代音楽とかやって欲しくなる、というか現代音楽の最先端の現代的表現=アイドル、なので、そこんとこ気がつくと、勝手に取捨選択しているのは、自分自身だ、ということになります。

何がそうさせているんだろう、それがどんな生活習慣に繋がってるんだろう、それでこれからどんな人生になっていくんだろう、じゃあ変えるにはどうすればいいんだろう、ということを音楽を通して一緒に考えるのが音楽教室の先生の役割かな。