音楽教育活動奮闘記

不定調性論からの展開~音楽思考の玩具箱

学問の外側の話〜学問と自問、学理と自理

これは学生様のとある相談を受け。でもよくわからないのですが、歳をとると学校の意義がやっとわかるので、そこの部分を訴えてもいいかな、と感じて回答します。

 

因数分解はなぜ役に立たない?

学校や研究機関で得る知識は、体系的にまとめられた人類の知恵です。
ルール、評価、再現性、引用基準…いずれも明確で、努力の成果も成績の採点として返ってきます。

しかし実生活は、大半がその外側にあります。
採点の明確な基準がなく、誰も答えを知らない場面の連続です。
毎日毎時「どう感じるか」「どう判断するか」形にならない問いが溢れます。

"因数分解なんて実生活の役に立たない"と言ってしまう過ちがこの時起きます。

日常は混沌として騙し合いだから、ぬるい答えの見えた学問などいらない、というわけです。

しかし因数分解の考え方の知恵にドラマチックに触れた途端にこれはメタ学問になります。

という複雑な人生の問題を、

(x-1)(x-2)(x-3)(x-4)

というシンプルな「因子」に分けた先人の知恵を身につけるだけで、問題を因子ごとに解決する方法が思いつきやすくなります。答えのない問いを考える時有効なのが因数分解の知恵です。これができないと間違った結論に飛びつきやすくなります。信念も歪みます。公式の扱いを誤るからでしょう。

これは大谷翔平選手が使っているとされるマンダラチャートと同じ要領です。

マンダラチャートは理解できるのに、因数分解の意義はわからない、というのは学校教育の敗北と言ってもいいです。

原因は多忙すぎて想像する時間が欠如した結果ではないかと。

 

自身を理解してあげる

深く悩む葛藤や、性癖に触れる快感は、学問の枠内では起きません。

・なぜこの形に惹かれるのか

・なぜその選択に迷うのか

・なぜある体験が忘れられないのか

その理由は本人でさえ説明できないことが多いのに、どうしようもなく惹かれてしまう。禁止する学校もあるでしょうが、恋愛、スポーツ、アルバイトといった活動は、ちょうど学問の外側にあり、卒業後の生き方に大きな影響を与えます。

学問の外側の経験は、内側の知識よりも実生活で生きる知恵や力に立ち上がります。

抵抗あるかもしれませんが、「そう感じた自分を真っ先に理解してあげてみて」はどうでしょう。

学校教育の敗北と言いましたが、負けたのはシステムではなく学び手側、運営一人一人が多様な世界の変化についていけていないから、個人にシステムが一時的に敗北している(リードを許している)、ということなのかもしれません。

勝ち負けは最後までわからないから!

 

 

独自論と独自論論

外側で必要になるのは、私は「独自論」だと今は考えています。
そして、独自論が辿る道筋を「独自論論」と呼んでいます。

独自論は学問の内側では価値を持ちません。

しかし外側の世界での予想外の理不尽に立ち向かうことができる力になります。

もちろん失敗もしますが、道を改めて、磨いていく習慣がつけば(独自論論)なんとかやってけます。

卒業した次の日、自分の考えで、自分の責任で生きることに突き進めるのが独自論の効能だと思います。

 

だから学生時代やることは単純です。

将来の独自論のために学問を多角的に修め(先生に問う)、同時に課外活動で自分の癖や欲求、嫌悪や喜びのポイントを知り、自分が何がしたくて、次に何をしたいのか、を無視せず感じていける体感体験を大事に生きてく(自分に問う)、だけです。

「独自論」と言い切ってしまう私の変態さは別にして、これは言葉にしなくても良いと思います。宣言も必要ないのではないかと。「自分を大切に」というと下世話ですが、社会で独自論を宣言しようとするとそういう言葉になるのではないかと思います。また数学の例になりますが、「素数」を勉強しますよね。素数は自然に現れる最小の構造単位です。人も宇宙に住む以上、素数の概念を内に秘めています。

・素数は他と交換不能の唯一性を持つ

・素数がなければ構造は立ち上がらない

・複雑な全体は素数のような分解できない個の組み合わせ

という観点から「個人」という存在を眺めることもできます。学問体系の内に、自分のことをどう捉えるかのヒントが宿っていて、先生がそのことに触れてくれれば素数は象徴的な概念になると思うのです。

 

 

外側は無頼ではない

自らに由った生き方が自由、と哲学では解釈されます。
自由には正解や権威がなく、間違いを訂正してもらえる機会が極端に減ります。

私は不定調性論を独自論と捉え、そこから作る音楽も自分の価値観を象徴させる私のための音楽としました。自ら社会から切り離したので、そこでやっていることには権威も評判も寄りつきません。しかし自分にとっての指針は明確になりました。自由を得たのではないかと。

何十年も出遅れました。

ゆえに全く参考にはならないでしょうが、外側に立った悪例として私の作品や不定調性論は具体的です。先の数の事例で言えば、私は双子素数に挟まれた普通の数、みたいな感じです。一番ちっちゃいところでは11と13に囲まれた12。12自体はなんてことのない数だけど、11(不定調性論)と13(独自論論)に囲まれていい気になっているように見えるかもしれません。

 

学問も外側の統治にある程度役立ちますが、人間が人間である以上、学問だけではカレーの絵を見続けるだけで実際に食べることができないような状態です。

学問のない独自論は破綻します。

独自論のない学問は机上の空論に近づきます。

つまりどっちもそれぞれのために必要。

「知識はあるが、舵取りができない」

とならないように。

学問(外的体系) + 自問(内的問い)
学理(public logic) + 自理(inner logic)
= 独自論論

ということではないでしょうか。

 

自分が今語っていることが、学問なのか、自問なのかを分けることはまさに因数分解。

現状多くの権威人が引用する知識に基づいた発言が学問で、そうした根拠の曖昧なままの言葉は自問の領域です。

 

私も「これは学問(だと思う)」「これは独自論(だと思う)」と言い分けながら発信していきたいです。

 

3月に卒業、というわけでないなら、若い方には、学問は自身の知能指数に応じて伸ばし、同時に独自論をほんの少しずつ意識して生活していく、というのが良いのではないかと思うのです。