前回の話をさらに抽象化、より演奏現場での即興作業が落とし込めるタイプの思考に向かっていきます。
<再掲>不定調性論では12音の関係性(12音連関表)。
文化的先入観を排除するため、時には音の動きを記号化して、あらゆる振動数の動きそれぞれが「意味」として扱えます。
C△という三つの集合も完全に同時に鳴ることはあり得ません。DAWなどの究極的な同時発音のみです。ほとんどの音集合はタイムラグがあります。
あとは「同時」という意味をどのように捉えるか、でこれも考え尽くせばキリがありません。
1小節を一単位とするか、0.0001秒を一単位とするか、20秒を一単位とするかも本来自由ですからこれはここで定めるのはやめましょう。
例えば、森の中の鳥の鳴き声3秒間の音が次のような範囲に含まれる時、一小節のC△もまたこの連関表の中に振動として落とし込めるのですから、鳥の声もC△も「十二音連関表の中の同じように落とし込める和音だ」といえます。
こうしたフォーマットが創れることで、あなたがもし鳥の鳴き声もC△の小節も同じように「明るく朗らか」と感じるのであれば、それらは「音楽的に代理関係にある」と初めて言えます。
このことは「自分の頭に浮かぶことは、自分の思考の範囲」であることを発見する行為につながり、クリエイティブのマンネリを防ぐために活用できる、という締めくくりで今回のまとめとします。
範囲の狭い音楽理論や音楽慣習にとらわれない場合、人は意識と心象と時系列事象の関係性の把握によって認識を身勝手に決めます。
これにより、リラックスしたいときに、
・森に行って鳥の声と風の音を聞くか、
・海に行って潮風と波の音を聞くか、
・部屋でバッハを聴くか、
・ドライブしてメタルをギンギンに鳴らすか
への欲求が同等となり、それぞれをあなた自身が自分の欲求やクオリア感覚で選択することができます。
どれをしなくてはならない、社会人ならこうすべきだ、音楽家ならこうするべきだ、という経験値によって歪められる強迫観念は「強迫観念だ」と感じる選択肢もこの時与えられます。
「明るく朗らかな音(楽)を表現したい」
という時、ロックバンドは、ステージで爽やかな曲を演奏するでしょう。
しかしその代理方法として彼らはステージに小鳥を連れてきて、マイクを通して鳴かせることも「人前で明るく朗らかな音を発信している」ことと同等になりました。
ロックバンドがステージで曲を演奏するのは社会的価値によってとらわれた手段です。
適切な表現を行う、という行動にも二種類あります。
・社会的価値の基準に準じる方法
・個人的価値の基準に準じる方法
全てのアフォーダンスをなくす試みをやることで「しなければならないこと」から解放されます。商業的には抹殺されますが、あなたは解放されます。
ヴァン・ヘイレンの曲をやれば、「明るく朗らか」だけでなく、セクシーで、叫びたくなったりします(逆の人も)。
一方ステージで男性が、よく訓練された小鳥を肩に乗せ、肩の小鳥が朝のみずみずしい鳥の鳴き声で会場中に響かせたとします。
1ステージ見るのに五千円も払った大きなアリーナで、ただ鳥の声を聞いた時、それがあらゆる意味でその場で成り立っているかどうか、です。
その男性がエディだったらまた別でしょうが(いまステージには何もないが、それはセットであって、その後彼らは曲をやってくれるだろう、と思い込んでいるから)。
またその人物が裸であればまた違うart的意味を与えるかもしれません。
「自分達はステージで鳥を鳴かせる選択肢はない」と思い込んでいると、本人たちにとってストレスになります。思い込みでもストレスは起きます。
また観客も「ヒット曲を生で聴けるのが楽しみで来た」と思うことで、それが演奏されないときに多大なストレスを感じます。
しかし開始10分前に、中止が宣言され皆が帰る寸前、やっぱり再開が決まり、とりあえず3曲だけ演奏する、と最初に宣言し、再度時間がまだあるからと、もう3曲演奏してくれたら、それがヒット曲であろうがなかろうが感動するでしょう。
人はバイアスを愉しむようにできています。人は時系列情報に左右されています。
あとはどのような時系列情報を与えていくか、です。
そしてそれがコントロールできるとは限りません。
ヴァン・ヘイレンは素晴らしいですが、朝寝起きで、いきなり爆音でヴァン・ヘイレンが流れたら、問答無用の迷惑行為としか感じない人だっています。
動物園でライオンを見てもかっこいー!!と思うだけですが、自宅の裏の森からライオンが出てきたら、死を覚悟するでしょう。
人は自分が心地よく都合よく生きる必要のためにそうした区別や差別、分類や排除を行います。社会もそれを容認します。
「自宅の裏からライオンが出るなんてあり得ない」と思い込んでしまうからです。
価値は普遍ではありません。
どうして思い込むのか、という点には教育の問題もあります。
事実は普遍としても、妄想ではなんでも許されます。
妄想を犯罪ではなく、クリエイティブな方向に発揮できるように早期に歪んだ妄想を発見し、上手に導くことが社会落伍者を作らない義務教育時期の大切な工夫だと思います。
教室の音楽のレッスンではC△を教える時「あ、そういえば鳥の声もC△のような朗らかさだね」とは先生は言いません。
この時すでにC△と鳥の声は、別次元の存在として切り分けられます。
逆に不安や不具合を楽しむために、ステージで小鳥の鳴き声を鳴らすことを生み出したのが「現代音楽」の隠された価値観の再発見でした。フラットに考えれば当たり前のことを、それまでの価値観を前提に考えると奇異に映るだけです。
だからそれは1作で十分で、同じ「価値観に気づく音楽」を再現する意義は社会的にはあまりありません。ケージによる価値観の再発見が面白かったのであって、作品が面白いかどうかはまた別の視点の面白さの発見です。
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例えば景色のいい山道をサイクリングで下る動画にBGMを載せる時、相応の楽曲はもちろん、鳥の鳴き声も、猫の鳴き声も、雷の音も、雨の音も、道具箱の音も、お風呂の音もトイレの音も、本来はBGMの候補であり続けます。
あなたが勝手に時系列情報の認識として、
「自転車で山降るんだから、トイレの音は必要ないやろ」
と勝手に決め、自分が心地よいように取捨選択しているだけです。
大衆映画のBGMには、大衆がそれを観た時に適切な意味を感じ取れる音楽を、それまでの映画を先例として考えてゆきます。これは社会的価値に準じたものです。
時に予算がなかったり、思った通りの音楽があてられる時間もない、または世紀の天才が会社の主導を無視して自分の描く音楽を入れ込む、といった場合が個人的価値に準じる製作方法です。
大衆に迎合するからよくない
先例を真似るだけだから良くない
それまでにないことをやるから素晴らしい
予算がないなりに考えたから素晴らしい
と決めつけることは本来はできません。
そうした価値の常識も社会の時流に沿って勝手に決まってしまうところもあります。
だから自由な思考に慣れるまでは、あなたが選択しなければならない時、次のようなこと周辺を考えてみてはいかがでしょうか。
・ここで相手が求めてる/求められていないものは考えられるか
・俯瞰して社会から求められるもの/求められないもの(コアな層なら求めるだろうもの)は何か
・私一人が今ここに求めるものは何か
・私が一番求めないものをあげるとしたらどんなものか
例えば、先の山下りのサイクリングのBGMについて考えてみましょう。
・ここで観る人が求めてるもの/求められていないだろうものは何か
・フリーの音楽で爽やかなキラキラした音楽がいいだろうな
・デスメタルとか演歌を当てちゃまずいだろうな
・俯瞰して社会から求められるもの/求められていないだろうものは何か
・やっぱりみんなが見たことない景色を載せて、その気分を害しない音楽がいいだろうな。
・一番楽だけど、自分の顔だけが写って景色が見えず、かつ無音だったらダメだろうな。
・私一人が今この動画の音楽に求めるものは何か
・フリー音源使うんじゃなくて、既存の音楽で新しめの音が使われているテンポのいいアンビエント音楽使いたい、またはその国の民族音楽のビートだけのものを使いたい、またはそれらを混ぜたい。
・私が一番求めないものは?
・シーンの雰囲気に合わないジャンルの音楽。自分がなんとも思わない自然音、チープな音楽
★ジャンルに全く合わない盆踊りの音楽をこの動画で使うにはどうしたらいいでしょう。
→日本人的なアイテムをリュックにぶら下げて、それをアップにしたときに使ってみる、とかの着想が浮かんだら、それが可能かどうかを動画素材から検討する、という手もあります。またそういうシーンがなくてもそれに準ずるシーンを作業中に思いつくかもしれません。
★"自分が何とも思わない音"をこの動画で効果的に使うことはできないでしょうか。
→たとえば動画に録音されたなんてことのないヘリコプターの音
→旅の内緒話や告発話をしている時、それが後ろでうるさく響くようにしてうまく隠す演出用に。「突然ヘリが....」
★自分が気分を害すると思う音で、何か効果的な演出はできないだろうか。
→ガラスをひっかく音とか絶対この動画では必要ない→そういえば最後の登りでめちゃくちゃ疲れて漕ぐのがやっとのとこあったな...その時の漕ぐ音にうまくサンプリングして嫌な音にならない程度に使おうかな。
あなたがその時音楽的なクオリアで想像したことは全て、あなたの思考の範囲内にあることです。決して非常識ではありません。
通例の「普通の動画」にしたくないなら、何か作業に飽きてきたら、自分が使いたいと思わないところに活路があるかもしれません。
もちろん休憩すればいいのだけど。
これらが容認されるのも、鳥の声とC△が同じ土俵にある、ということへの感覚感を持ち合わせたからです。
「自分が嫌う音」「自分が必要としないもの」と"その時感じた"ものも全て自分の思考の範疇にある、とすることで、「マンネリ」は避けられます。
本当に嫌悪するものは何らかの理由があるので、その感情がなくなるまで待つとして、ある嫌いなものに接する時「怖いもの見たさ」という欲望が発揮されるタイプのものについては、今作っている作品にそれに取り組んで上手に表現を試みても良いのではないでしょうか。
自分が意識できる全てが、本来はあなたの素材である、として今まで作っていた垣根を取り払うことを一時期意識してみてはいかがではいかがでしょうか。
また、そのように自在に物事を捉える自分なりのモデルを作ってみて、色々なことに応用してみると、また面白いかと思います。
そして、きっとその先に無意識を自由自在に泳ぐような、考えるのではなく、ただ体を浸らせて満ち足りた気分になるような表現物の制作と鑑賞の体験が待っているのではないでしょうか。
そしてそれが、社会とは一切関係なく、生命としてのあなたという存在が生み出したら、純粋な自己表現と言えるのではないでしょうか。