音楽教育活動奮闘記

不定調性論からの展開~音楽思考の玩具箱

制作メモ:夜の御花見散歩〜百花夜蘅-不定調性ピアノ曲

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今年は珍しく夜花見。

たまたま静かに小路を桜を見上げながら歩いていました。

夜の桜は怖いです。

前にも感じたのでこれは曲になりました。

歩いては、立ち止まり、しばらくすると妙に怖い感じを覚えます。

そして神妙な気持ちになって、また歩きながら桜を見ます。

なんかそういう気分を音にする感じ、でしょうか。

夜桜の威圧。

絶妙な悪心。

美しい不安。

まるで異界の神の目を観てしまったような。

...的なものを表現するのに私は不定調性が最適です。そぞろ歩いて上を見上げて、立ち止まって、また歩き出してまた立ち止まって…そういうメロディーになってます。

どんな不協和もちょうど良く感じますし、実際そういう気分そのものです。

不定調は私にとって自然な音の並びであって、西洋的な雰囲気が現れすぎてしまうと むしろ少し恥ずかしく感じます。ただすごく憧れもあって、かっこよさとか西欧人に対する憧れみたいなのも人並みにすごく感じていて、それが現れてきた時の恥辱感というのはどちらかというと誘惑に近い魅力も感じます。ただ そういう美しさに対して自己を感じないのです。多分 自己愛が強いために自分自分が出てこないと嫌なんでしょう。また好みは変わるかもしれませんね。

 

 

桜は、人を疎ましく思っているのかな。

 

それとも、夜は見んなよ...とか精一杯意思表示しているのかな。

 

夜桜をじっと見ぬよに感じ入る

 

が、互いに味わい深いのかもしれないですね。これはあまり人と関わりたがらない私の気持ちの反映でしょうか。

これは1:11ごろです。和音の動きがV度進行的で、最後にCmで着地するような流れですが、これもたまたまです。こういうコードを考えるわけではありません。

最初に左側の青枠と青矢印の音が置かれて、そこから黄色矢印や黄色和音の流れが想定され、なんとなく置かれ、その流れを聞きながら、あこ個半音上かな、とかここから展開して下がってこようかな、となって、それをまた聞きながら、青枠青矢印も直し、また聞いてくる内にぼんやり流れが生まれ、ある程度形になったら、また曲頭から聴いてきてちゃんと辻褄が合っているか、文脈に納得できるか、と言う抽象的な納得感を求めて音を置きます。

何を表現したいかではなく、今自分が何をどうしたいのか、という思いの抽象的な自己満足行為を音楽で行っているだけです。

皆さんの行為で置き換えれば、例えば海外旅行とか、家族で外食とか、フットサルの試合とか、そういう行為と全く同じです。私の場合、そう言う欲求がないので、欲求そのものがこうした音をおく行為に代替され脱欲求がなされているだけです。

花見だけでは満足が見たさあれず、一旦その思いを音において簡素化しないと受け止められないおかしなタイプなのです。言語的表現を非言語の隙間に落とさないと、いけない、というか。自分の中の"「構造源」からの呼応に答えてやった欲求"を満たしたいんだと思います。

例えば最初のアルペジオですが、b-c-eでずっと続けると暗いです。b-c#-eだと明るいです。b-d-eだと随筆すぎます。

今年度も可能な限り、やりたいことを押し進めたいです。