音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

抽象的な音表現を理解する融和感分析の方法〜不定調性論的進行理解の方法4

前回

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和音は転回するだけでも雰囲気が変わります。

ましてや組合せれば、無限の構成が可能です。

 

次はどうでしょう。Dm7 G7の後のコードを感じてみてください。

Dm7  G7  |D△/C△  |

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D/Cはリディアンコードと呼ばれる明るく透明感のあるサウンドです。

 

Dm7  G7  |B△/C△  |

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こちらのB/Cはトニックディミニッシュサウンドにつながるちょっと怪しげで、擦れるような響きを持ちます。これを焦燥感、と呼んだりしています。

 

Dm7  G7  |EM7/C△  |

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さらにこれになると不定調性的なコードです。

e♭はcの側面領域音、E△はc,e,gのe音の上方五度領域和音、と呼んだりしています。 

 

私にとってはどれもトニックコードです。

"コード進行ドランカー"です。

 

 

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例えばこのB/Cですが、理屈ではこの和音はd#つまりCメジャーキーの短三度が鳴っていますから本来ならしたら"すごい変な感じ"、"やばい感じ"、"理論的にアウトな和音の感じ"になります。
私もそう最初には感じていました。でも現代音楽的な好みがニョキニョキとその後湧き出てきて、この響きは、ウヰスキーの匂い、みたいな感じを覚えてしまったんです。

ちょっと気だるい曲、宵の曲、そういう時に使えるな、と感じてしまったんです。

 

この時、確かに音はc,e,gとb,d#,f#だけど、これらが一緒に響くと、メジャーコードの組み合わせではなく、もっと別な響きに化学変化を起こす、そんな風に感じるわけです。

 

それからというもの、すべての分数和音がそれぞれ意味を持って訴えかけてきました。

Dm7 G7 |C#△/B△/D△/C7  |

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これは4層コードです。12音が全て使われています。

ワインとウイスキーとビールと焼酎を合わせて飲んでいるような。乱痴気パーティのお酒の味です。

そしてしばらくして、なぜか列車が通り過ぎていく風景が浮かびます。

がたんごとんがたんごとん。

列車と線路の隙間の向こうのドラマが見え隠れするようなざわざわした光景が浮かびます。

 

だからこの和音は「列車の隙間の景色和音」です。意味は本人しかわかりませんね、

D△もB△も出てますね。

それらが融和した雰囲気はまた全く違う映像になって脳裏に浮かぶわけです。

こういう感覚を音楽で用いる方法論というのはあるのだろうか。と。

 

音の響きが耳の中で融和して、自分にしか通じない感覚になります。

D△/C△

は本当にD△とC△が合体した和音の響き、と言えますか?

もっと何か違う感じ、ではないでしょうか。

 

そうだ、この感覚をそのまま使う方法論を自分で作ればいいのだ。

 

やがて、そう気がつきます。

私の感覚は私にしか通じない、それを皆がそれぞれで持てば良い、という発想に発展しました。

独自論探求思考の誕生です。

 

このように和音が合成されて作り出される新たな雰囲気を「融和感」とここでは呼びましょう。

 

これで最後の音源です。

①GM7 |CM7 |GM7 |CM7 |

②Em7 |CM7 |Em7 |CM7 |

③GM7 |CM7 |GM7 |CM7 |

ここに出てくるCM7は全て同じです。①〜③と流れます。

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①の時のCM7に対して②の時のCM7は憂いを含んでいるように感じます。

さらに③の時は、①と同じ流れなのに少し寂しい感じが追加されたような気がします。

 

それが音楽の鑑賞だと思います。時間と記憶の芸術、とでもいいましょうか。

 

不定調性論はこれを方法論化する必要がありました。

私自身が"この不思議を理解できないことには自分の曲など作りたくもない”とある時期思うほどだったからです。

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あとは個人がどう聞こえるかを個人が記録すればいいだけです。どこかに正解があるのではなく、一般解を出す人がいるならそれはそれでOKとして、自分は自分として別途持てる意識空間があること、に意義を感じる人のための方法論となりました。

 

認知心理学等ではそういうことは当たり前のように定義されていました。

 

金のドレス、青のドレスが以前話題になりましたね。

人それぞれ見える感じが違うし、見方を変えると切り替えることができます。

下記のページの"静脈は青ではなく灰色だった"っていうのもちょっと驚きです。

style.nikkei.com

「人間は夕焼けの光のもとや夜間の薄明かりの中で色を見て肉の新鮮さや果実の熟れ具合を判断してきた。もし『色の恒常性』が働かなければ、こうしたことはできていなかったはず」と東京大学大学院助教の福田玄明さんは言う。

この感覚が様々な分野に働き、音楽の素養でもそれぞれが"間違いない"と感じている時、それがバイアスだったり、錯覚だったりすることに気がつきません。

 
それを正しても、次から次へと脳は錯覚します。
これもそうです。見方を切り替えられた時は感動します。コツは回っている影と実際の膝あたり見て(影が回っている、と思い込まないように)、一瞬目をそらすと逆に回り始めたりします。少し視線を影の方に落としてちょうど向こう正面を向いた時、体を見ると回転が変わったりします。
「こう回っている」と思い込んでしまうと、脳が先にシミュレーションしてしまうので「絶対こうだ」と思ってしまいます。そのくらい脳の錯覚は強烈です。
 
それは音楽でも同じだ、と言える方法論が欲しかったんです。
 
音楽の印象も個人の脳が判断することだからです。
だから変な和音にも自分の意思が生まれ、これだけバンドが生まれ、これだけファン層が変わり、こんなに流行がコロコロ入れ替わる。
集団催眠のごとく「正解」が変わって行くからでしょう。
だから、
私が今拙論を信じている状態も錯覚なわけです。
それに気がつくと、持論を懸命に発信しよう、という気もなくなって気ました。
今は「独自論を探しては?」と提案するのみです。あとは個人の自由です。
 
結局、自分が(もっと)気持ちよくなる方法を常に探してるんだな、人は。
と思いました。
 

偉そうなことを言いましたが、そう思っておけば、自分が人と違うことを気にしなくてもよくなるのではないか、と思います。あとは自分のことをやるだけ。

 

現状ではこの音の塊が自分に与える融和感という意味、そして音の塊が連鎖する進行感という意味を元にして音楽を作る過程までこれました。

皆さんにも"自分にちょうどいい独自論"が見つかることを祈ります。