音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

抽象的な音表現を理解する融和感分析の方法〜不定調性論的進行理解の方法4

前回

www.terrax.site

 

和音は転回するだけでも雰囲気が変わります。

ましてや組合せれば、無限の構成が可能です。

 

次はどうでしょう。Dm7 G7の後のコードを感じてみてください。

Dm7  G7  |D△/C△  |

f:id:terraxart:20210814200122p:plain

D/Cはリディアンコードと呼ばれる明るく透明感のあるサウンドです。

 

Dm7  G7  |B△/C△  |

f:id:terraxart:20210814200111p:plain

こちらのB/Cはトニックディミニッシュサウンドにつながるちょっと怪しげで、擦れるような響きを持ちます。これを焦燥感、と呼んだりしています。

 

Dm7  G7  |EM7/C△  |

f:id:terraxart:20210814200146p:plain

さらにこれになると不定調性的なコードです。

e♭はcの側面領域音、E△はc,e,gのeオンの上方五度領域和音、と呼んだりしています。 

 

私にとってはどれもトニックコードです。音楽理論が「そういうのはポピュラーじゃないよ」と言われてしまうので使うのがはばかられます。後半二つは。

 

意識の中で音を聞くと「こういう雰囲気の終わり方もありだよな」という気持ちになってしまうからです。最初の"コード進行ドランカー"としてはかなりの中毒症状かもしれません。

 

 

f:id:terraxart:20210814201306p:plain

例えばこのB/Cですが、理屈ではこの和音はd#つまりCメジャーキーの短三度が鳴っていますから本来ならしたら"すごい変な感じ"、"やばい感じ"、"理論的にアウトな和音の感じ"になります。
私もそう最初には感じていました。でも現代音楽的な好みがニョキニョキとその後湧き出てきて、この響きは、ウヰスキーの匂い、みたいな感じを覚えてしまったんです。

ちょっと気だるい曲、宵の曲、そういう時に使えるな、と感じてしまったんです。

 

この時、確かに音はc,e,gとb,d#,f#だけど、これらが一緒に響くと、メジャーコードの組み合わせではなく、もっと別な響きに化学変化を起こす、そんな風に感じるわけです。

 

それからというもの、すべての分数和音がそれぞれ意味を持って訴えかけてきました。

Dm7 G7 |C#△/B△/D△/C7  |

f:id:terraxart:20210814203023p:plain

これは4層コードです。実は12音が全て使われています。

ワインとウイスキーとビールと焼酎を合わせて飲んでいるような。乱痴気パーティのお酒の味です。

そしてしばらくして、なぜか列車が通り過ぎていく風景が浮かびます。

がたんごとんがたんごとん。

列車と線路の隙間の向こうのドラマが見え隠れするようなざわざわした光景が浮かびます。

 

だからこの和音は「列車の隙間の景色和音」です。

D△もB△も出てますね。

それらが融和した雰囲気はまた全く違う映像になって脳裏に浮かぶわけです。

コードシンボルだけで考えようとすると、なんらかのコード分析をしようと思っても「実感のない分析」になります。少なくとも自分には。

それで困ってしまいました。

こういう感覚を音楽で用いる方法論というのはあるのだろうか。と。

 

音の響きが耳の中で融和して、頭の中に電気信号として送られた時、人が作ったコードシンボルとは関係ない響きの言語が見えてきたりしませんか?

自分にしか通じない感覚。むしろ自分がそれを把握していれば、作曲の時にはその感覚を起動すれば良い、というような感情です。

D△/C△

は本当にD△とC△が合体した和音の響き、と言えますか?

 

CM7は本当に明るいC△と暗いEmが合致したサウンドですか?

それなのにCM7はなんであんな爽やかな響きがするんですか?

Emの要素があまり感じられないのではないでしょうか?

 

そういう風に脳の中で思える科学的根拠や理屈はきっとあるのでしょうが、そんな理屈の答えを知る前から、私たちの頭の中には確かにその響きが作る答えがひしひしと訴えてきます。理論的にどうこうなどと考える前に、その和音の使い方見えてきます。

 

そうだ、この感覚をそのまま使う方法論を自分で作ればいいのだ。

最初は一般論を作ろうと躍起でしたが、無理でした。

私の感覚は私にしか通じない、それを皆がそれぞれで持てば良い、という発想にいつしかなりました。

独自論探求思考の誕生です。

 

このように和音が合成されて作り出される新たな雰囲気を「融和感」とここでは呼びましょう。

 

これで最後の音源です。

①GM7 |CM7 |GM7 |CM7 |

②Em7 |CM7 |Em7 |CM7 |

③GM7 |CM7 |GM7 |CM7 |

ここに出てくるCM7は全て同じです。①〜③と流れます。

f:id:terraxart:20210814205132p:plain

①の時のCM7に対して②の時のCM7は憂いを含んでいるように感じます。

さらに③の時は、①と同じ流れなのに少し寂しい感じが追加されたような気がします。

 

それが音楽の鑑賞だと思います。時間と記憶の芸術、とでもいいましょうか。

 

不定調性論はこれを方法論化する必要がありました。

私自身が"この不思議を理解できないことには自分の曲など作りたくもない”とある時期思うほどだったからです。

www.terrax.site

そこで音の発生源を違うように方法論的に設定できたり、分析時に正負の記号を書き加えることで、それは自分にとって異なる和音だ、と示せたりするようにしました。

あとは個人がどう聞こえるかを個人が記録すればいいだけです。どこかに正解があるのではなく、一般解を出す人がいるならそれはそれでOKとして、自分は自分として別途持てる意識空間があること。という方法論にしました。

 

しかし認知心理学等ではそういうことは当たり前のように定義されていました。

 

金のドレス、青のドレスが以前話題になりましたね。

人それぞれ見える感じが違うし、見方を変えると切り替えることができます。

下記のページの"静脈は青ではなく灰色だった"っていうのもちょっと驚きです。

style.nikkei.com

「人間は夕焼けの光のもとや夜間の薄明かりの中で色を見て肉の新鮮さや果実の熟れ具合を判断してきた。もし『色の恒常性』が働かなければ、こうしたことはできていなかったはず」と東京大学大学院助教の福田玄明さんは言う。

この関学が様々な分野に働き、音楽の素養でもそれぞれが"間違いない"と感じている時、それがバイアスだったり、錯覚だったりすることに気がつきません。

それを何度もなんども正しても、次から次へと脳は錯覚します。
 これもそうです。見方を切り替えられた時は感動します。
コツは回っている影と実際の膝あたり見て(影が回っている、と思い込まないように)、一瞬目をそらすと逆に回り始めたりします。
「こう回っている」と思い込んでしまうと、脳が先にシミュレーションしてしまうので「絶対こうだ」と思ってしまいます。そのくらい脳の錯覚は強烈です。
 
それは音楽でも同じだ、と言える方法論が欲しかったんです。
音楽の印象も個人の脳が判断することだからです。だから変な和音にも自分の意思が生まれ、これだけバンドが生まれ、これだけファン層が変わり、こんなに流行がコロコロ入れ替わる。全てなんらかの集団催眠のごとく「正解」が変わって行くからでしょう。
 
社会的な解釈や多数決で決まる合意には特に異論はありません。
しかしもう一方の極に"自分で判断した自分の結論"を置いておくのも自由だと思います。どんなに未熟でも一生を掛けてその感覚を自分のやり方で育てていくのが芸術、という文化の成し得ることであると信じています。
 
左回りか右回りか、その瞬間答える人の答えが二分する状態、があり、音楽でもそれが生じている、と。 言論闘争が絶えないわけです。双方がそれを信じている。
私が今拙論を信じている状態も錯覚なわけです。
それも気がついた上で、自分が今確からしいと感じたことを元に音楽がやれる方法論が欲しかったのです。どこかに崇高な正解があるのではない、と。それを追い求めているといつまで経っても曲が作れなかったからです。
 
情報が意識の中でどのように解釈され、どのように無意識下に溜め込まれていくのかの仕組みは誰も知りません。
だから音楽を、形態分析で捉えたものを全て、と感じてしまうと逆に錯覚しますし、またそれを良し、と思っていると、他者が自分と違う認識になることが理解できず、不和が生じます。
他者の誤りを正して自己の正当性を追求するのではなく、いまの自分から何かを生み出し続けて行くことで自分の方法論が成熟につながって行く感じを体感する、という考え方です。

 

偉そうなことを言いましたが、そう思っておけば、自分が人と違うことを気にしなくてもよくなるのではないか、と思います。あとは自分のことをやるだけ。

 

現状ではこの音の塊が自分に与える融和感という意味、そして音の塊が連鎖する進行感という意味を、元に音楽を作る過程までこれました。

そしてこの発想を、メロディに、リズムに、そして何より普段の制作仕事に行かせるようになってきました。

 

音が自分に与える意味は、錯覚かもしれないし、間違っているかもしれないけど、それは全員同じだから、曲を作るしかないよ、作って自分に証明して行くしかないよ、というところまで不定調性論はきた、という話でした。

 

次はどこに行くんだろう。