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不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

誰もいない森で木が倒れたら音はするか?〜音楽制作で考える脳科学45

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先に表題の答えを書いておくと、音はありません。

量子力学や認知の有無は関係ありません。

音という存在は人の頭の中でしか存在しないからです。

現実の世界に音は存在しません。

空気の振動があるのみです。

ゆえに人の耳を通さない空気の振動を音とするなら倒れる時の空気の振動は存在します。

個々人にとっての音の定義がここでは重要になります。

もしもあなたの聴覚や脳の音認知の機能を奪われていたとしたら、音として認識できるかどうか、です。

いずれにせよ、倒れた時の振動を確実に存在します。

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この本では、音楽が人の脳、心、思考、気分にどんな影響を与えるかを、神経心理学的観点な観点から探っていく。

 

発売は2006年ですので少し古い本です。邦訳も2010年には出ていたようです。今後の最新の情報/訂正が必要な概念/文章を見つけたら随時書き直しますのでご了承ください。音楽と認知の分野で大きな影響力を持った本だそうです。

 

ピッチという言葉は、生物が音の基本的周波数に対してもっている心的表象を指している。つまり、音の高低は揺れる空気分子の周波数に関連する、完全に心理的な現象なのだ。「心理的」とは、それがすべて人の頭の中にあって、外界にはないということを意味する。それは頭の中で起きる一連の事象の産物で、それらの連続によって全く客観的な心的表象または性質が生まれる。音波---さまざまな振動数で揺れる空気の分子---そのものには、ピッチはない。その動きと振動を測定することはできるが、測定値を私たちがピッチと呼ぶ心の中の性質に変えるには、人間の(または動物の)脳が必要となる。

 

音の素は空気の振動です。

音楽は心の中で生まれます。

音楽は心が勝手に作っているものにすぎません。それが良い音楽だ、と強く信じる心が人にはあり、実際にそう聞こえることになります。

そうした感覚を否定されれば怒り、称賛されれば嬉しいものです。

何せ自分にとっては紛れもない事実として感じられるのですから。

 

聞き手の気分が良い時は、よい印象で聞かれ、調子が悪い時は悪く聞かれます。

データが全く同じでも心象に左右されます。

女性が吹くトロンボーンは、オーディションなどでは受かりづらいと言われます。女性が力強い音が出せるわけがない、という思い込みです。

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これまでの音楽に対するアプローチを「音が鳴っている」とする音楽理論とすると、現代はもう一方の、互いの「心象」を交換できる音楽方法論が必要です。私にとっての不定調性論です。

 

音波は、鼓膜と耳介(耳たぶを含んだ、外についている耳全体)にぶつかると一連の機械的及び神経科学的事象を引き起こし、その産物として、ピッチと呼ばれるイメージが心の中で生まれる。森の中で木が倒れるとき、そこに聞く人が誰もいなければ、倒れる木は音を立てるだろうか?(この疑問を最初に示したのは、アイルランドの哲学者ジョージ・バークリーだ。)答えは単純だ。音は出ない。音は、分子の振動に応じて脳によって作られる、心の中のイメージに過ぎない。同じく、人や動物がそこにいなければピッチもない。適当な測定装置を置いておけば木が倒れたときの空気分子の振動数は記録できるが、本当の意味では、聞かれるまで、聞かれない限り、ピッチはない。

あのギギギギーーードンガラガシャーン!は心(脳)の中で作られて知覚されるのだから、音自体があるのではない、という理解の仕方です。

そもそも音自体が世界には存在しなかった、というわけです。

 

空気があっても伝搬してくるものは空気の疎密波だけです。

 

それらの疎密波が耳にあたり、脳が解析しない限りあの「ギギギギーーードンガラガシャーン」はその場所の事実としては存在しません。その元となる振動数の疎密波があるだけです。ギギギギーーードンガラガシャーンは人の脳の「解釈」です。

木が倒れるのを録音しても、録音されたデータを聞き取るのは、人の脳ですから同じです。世界には振動するスピーカーと空気の疎密波があるだけです。

 

だからこそ失音楽症の人にはショパンがノイズに聞こえるのだと思います。

それは脳が空気の疎密波を"音楽的に解析"できない状態、だからです。

 

だから耳が聞こえなければ音は存在しません。

耳が存在しても脳が存在しなければ音楽になりません。

たとえ音楽でも、脳が正常に機能しなければ、音楽として認知できません。

 

あるのは音ではなく「脳」です。私たちの絶対性は、私たちの認識能力の範囲内での絶対性です。この辺は昔の哲学者が既に言い尽くしていることです。

 

ある意味では、失音楽症は、または耳が聞こえない、というのは脳のバイアスから解放された人、と言っても良いのかもしれません。社会生活は音が存在する前提で成り立っているので身障者と言われてしまうだけです。

 

 

縛られているのは音楽を理解している(と強く信じている)私たちの方です。

だから、その音楽が素晴らしいと訴えるのは、社会交流であり、エンターテインメントであり、楽しみである、というところから音楽を捉えていくことが、人生を楽しくするひとつの解釈なのではないでしょうか。音楽の絶対性は、個々の基準で定まるもので、根拠はとても曖昧なものなので、音楽について言い争うのはエンタメであり、そこに答えはない、わけであり、だからこそエンタメとして評論というのは面白い存在なのでしょう。面白く表現した者が勝ち。

 

またピッチと同様に「音の大きさ」も心理的な存在であることはご存知かと思います。

音の大きさという感じ方もピッチ同様、人の聴覚機関が感知し「わ!うるさい!」というのは心が引き起こしています。猫も大きな音にびっくりしますが、彼らも同様に聴覚の仕組みによって驚いているだけで、その音に植物は別に"驚かない"わけです(植物なりの知覚はあるかもしれませんが)。

 

音の大きさもピッチも心が作っている。

 

たいていの人は60歳になる頃には1万5000Hzあたりから上の音も聞こえなくなる。内耳の有毛細胞が老化するためだ。

 

一番広い範囲で音を聞き取るのは若い人です。

老人は若い人の意見を聞こう。

老人は音だけではなく、耳を傾ける範囲も減らしてしまってはいないだろうか。

 

調(キー)は、曲を構成している音の間の重要度の階層によって作られる。この階層は外界に存在しているものではなく、私たちの心の中だけにあり、誰もが音楽を理解するために身につけている音楽スタイルや音楽形式や精神構造に照らし合わせた経験でわかるものだ。

 

メロディー(旋律)は、曲のメインテーマとして心の中で最も際立つ音の連続で、これに合わせていっしょに歌う部分だ。メロディーの概念はジャンルによって異なっている。ロックの場合には普通、ヴァース(序章部)のメロディーのコーラスのメロディーがあって、ヴァースは歌詞の変化によって、ときには演奏する楽器の変化によって、区別される。クラシック音楽の場合には、メロディーは作曲家が曲のテーマに沿って変奏を生み出していくための出発点で、形を変えながら曲全体で何度も使われることがある。

 

ハーモニーは、異なる音が持つ高低の関係と、またそうした高低の変化が作る音の前後関係で生まれ、最終的には曲の進行で次に来るものの期待を抱かせる---熟練した作曲家は、芸術性と表現のために、その期待に沿うこともあれば反することもある。ハーモニーは単に、主旋律に平行した旋律を意味することも(2人の歌手がハモる場合のように)、コード進行のことを指すこともある---コード進行は、曲の文脈や背景を構成する音符の集まりでその上にメロディーが乗る。

著書の中のそれぞれの解説です。著者は元音楽プロデューサーで、そこから神経科学者、認知心理学者になった、ということで頼もしいです。上記は定義ではなく、音楽素人向けの専門的解説、という感じで書かれ、このニュアンスでこの本は成り立っている、ということを前置きしてくれています。

 

特に「調」の解説では、それを構造と認識するのは、人の心の中における重要度の階層がそれを決める、としています。神経科学者がいう「心」の語は、重みが出ますね。

曖昧なものでここは特定することができません。つまり「調」を認識する神経生理システムは外枠しか解明されていない、という宣言でもあります。

人の心の中における重要度の階層にはある程度類似性があり、人種ごとの特性があるわけで、一人一人が全て違う価値観で音楽を聴く、ということはなさそうですが、誰もがおなじ音楽を聴くわけではない、という点から考えると、千差万別な「重要度の階層」がある、と考えてもよさそうです。

 

マイルスの場合、自分のソロで最も大事な部分は音の間の空白、一つの音の次の音の間に入れる「空気」だと説明した。次の音をいつ出せばいいかを正確に知っていて、リスナーに期待して待つ時間を与える。それがデイビスの才能の真骨頂だ。特に彼のアルバム《カインド・オブ・ブルー》を聴くとよくわかる。

マイルスは、どの音を出すかよりも、どの音を出さないかが重要だ、と言っています。ピカソもカンバスの扱いで大事なのは、物と物の空間が大事、と言っているそうですが、これは達人の思考です。

 

音楽を扱う人は、「間を大事にする人」と「間を埋める人」がいて、どちらが良い悪いではなく、そのバランスが重要です。

マイルスのモードジャズの手法が彼にとって成功したのは、マイルス自身の思考「間を大事にする」を実践できる思考がそれにフィットしていたからでしょう。つまりモードジャズはマイルスの独自論としてフィットした、と言えます。これによって、フレーズを駆使して音楽をつなげるビ・バップがマイルスに不向きだったことがよくわかります。

時代のニーズと、ビバップへの飽和、マイルスの思考があったからマイルスとモードジャズの関係は誕生した、とも言えます。

 

また「音は主観」の意味からも、フレーズとかはどうでも良くて(主観だから)、音を出したか、出さなかったか、だけが重要だ、と感じていたマイルスはやはり偉大ですね。

他者に多くの価値観を示唆してくれる人は、文字通り影響力を持つ人だと思います。

 

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