音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

ミスマッチ陰性電位〜音楽制作で考える脳科学23

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前ターム

芸術的創造は脳のどこから産まれるか? (光文社新書)

 

同書の主なテーマは潜在学習・記憶記憶、それらの機能と芸術的創造性との関わりについてです。筆者は医学博士であり、ピアノ弾きでもあります。作曲家としての一面も持っています。

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音楽家のハートがちゃんとわかる人!!っていうところが嬉しいです。

 

特に音楽家の方は読んでおいて脳と音楽とはいかなるもの?といういことを理解しておいても良いと思います。英才教育などについても書かれているので広く参考になるポイントもあります。

それなりに専門的な感じで攻めてくるので「軽い読み物」ではありませんが、すごく一般表現に気を使っていて読みやすかったです。今後の研究が楽しみです。

 

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拙論との関連性

これからの音楽に対する価値観、大衆が喜ぶ音楽が持つ性質、特異奇異な音楽を作ろうとする脳機能、などを本書の記述でまとめることができます。

脳のどういう性質が機能和声論的で、どういう部分が不定調性論的なのかもある程度明確にすることができます。

 

一般に、音楽家は非音楽家に比べ聴覚野が大きいことが知られています。聴覚は、音楽を聴くだけでなく言語の処理にも重要な領域であることから、音楽教育によって側頭葉が発達すると、言語能力など音楽以外の聴覚機能も相乗的に向上するといわれています。

 

複雑な思考も音楽や言語を通してできるようになるんですって。

音楽が得意な人は、音楽の能力を伸ばすことこそが他の教科の学力も伸ばすことにもつながる、そんなふうに解釈したら、これは音楽好きな子供にとっては朗報ですよね。

不得意な教科を伸ばすのではなく、得意な音楽を伸ばすことで不得意な教科もそれに追随するように伸びるわけです。

 

ミスマッチ陰性電位

今日も一つだけ実験してみましょう。まずこの音源を聴いてください。

音源1

続いて次の音源も聴いてください。次も音源1とほぼ変わりません。

 

音源2

退屈ですね。。笑

 

では次の音源を聞いてください。今度は少し変わります。

音源3

 

いかがでしょう。

音源1を聴こうとしたとき、ある程度の"期待感か何か"があったかと思います。

しかしただドが連続するだけでつまらない音源でした。

 

さらに音源2の説明も"音源1とほぼ変わらない"ということで聴いてみると、おんなじような音源です(実は同じです笑)。

 

そして次は"少し変わる"ということで聴いてみると跳躍があったりして音列が変化しています。

ミスマッチ陰性電位」は、脳が予測できることに対して危機感を減らして注意がなくなり、逆に予測できなかった事態に脳波は反応を示す、という「オドボール課題」という実験成果なのですが、先の三つの音源はそれを私なりに解釈したものです。

いわゆる危機管理ですね。

 

音源3でメロディが跳躍した瞬間、音楽家ならビク!とするはずです。

さっきまでとは予測しない展開だからですね。

これは期待とか、変化欲求とか、様々な心象も関わってくると思います。

解決しないコード進行もこういった意外性の感覚への欲求と似ているかもしれません。

 

音が変化すること、展開すること、ただ周波数の異なる現象に対して高度な理解を示せる(音楽教育を施された人は側頭葉などの特定部位がそうでない人より発達する)感覚を持つ人が音楽家になります。またある一定数の人が「音楽が好き」と感じるのは教育の賜物や、生育環境で獲得してきた音楽への理解があると思います。

 

また逆に決して音楽を理解しないからその人は繊細ではない、のではなく、ただ単に音楽教育を受けなかった、という解釈もあり得る、といえます。ある意味、現代社会において音楽的価値観を持たずに生きてくるという方が難しいですから、ある意味では稀有な人間と言えるかも知れません。

 

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変化することに対して、「あ、変化した」と思うこと以上に反応するのが「不定調性脳」と言えます笑。

その音を聞くと、知識として記録されているある楽曲のメロディが浮かんだり、似たような音響効果があった映画の映像を思い起こせたり、単純にそのメロディからなんらかの情感を想起したりすることができます。

不定調性論ではたとえそれがノイズであっても、全く意図しない音現象であっても、それに対して自分なりの印象を持ち、一時的解釈を捉えられる人が有利です。そういうことを機能和声論は明文化していないからです(というか産業革命期に失われた)。

 

人なら誰でも野生を内在させているので、ジャングルで一夜を過ごすとわかれば、物音に敏感になると思います。

それとは違うかもしれませんが、その延長線上に"楽しみとして"緊張感を解釈や創造力に活用するのが「音が変化することに反応する」音楽鑑賞能力であり、音楽的理解力なのだと読み解きました。

短調の曲を"悲しい曲"と言えるのも人ならではです。自分にとっての悲しい気分なんか味わいたくないのに、短調の曲は魅力的に感じるのはなぜでしょう。

人の不幸は蜜の味とも言いますが。

 

「退屈な音楽」はただ単にあなたにとって予測のできる音楽を指すのかもしれません。

「社会全体にとってつまらない音楽」というものはなく、そうした反応はやはり、その組織の文化水準や、その集団の経験値に基づく判断であると感じます。

「音源1」のようなものを「新曲です」といっても少なくとも先進国文化の中では「新曲」の文化的概念がある程度あるので、これを「つまらない音楽」ということはできますが、これも究極的には主観です。普段はそういうことを定義しないだけです。

 

同様に前回のV7⇨Iも予測に基づいた理解である、としました。

だから知らない曲でV7-Iがでてくると、「聞いたことがあるものだから安心する」と捉えることもできます。

不定調性進行への魅力が「予測できない感覚を楽しめる性癖」によるものであるとしたら??

やはり主観である、となりますね。

文化としての奇異な音楽への許容はボカロPなどの活躍で理解が進みました。

人が歌えない曲も、人が演奏できない曲も、娯楽として許容されるようになりました。

新しい価値観の創造でした。

 

あまりに多様になりすぎて、むしろ主観で楽しんだ方が楽しい時代です。テレビで皆が同じ時間に同じものを見るのではなく、インターネットで好きなページを見ることが許容された時代です。個人的価値観が伸びないはずがありません。

その先駆けを行っていたのがオタク文化だと思います。彼らは独自論を早くから形成していました。

 

それぞれがどんな生き方をしてきたかによって、脳が反応する分野や感覚が異なる、としたらやはり不定調性論のような「その時々の一時的な独自解釈を重んじる表現方法論」がこれからもどんどん必要になっていくのではないか、と思えてなりません。

 

ヒトとしての脳の機能は皆ほとんど同じであるから、似通った反応はあろうかと思います。

でもその狭間で他の人と違う感覚を自分が持っていることを理解することもまた新たな創造性を知るということになるのではないでしょうか。

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