音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

なぜV7⇨Iは解決するのか?〜音楽制作で考える脳科学22

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前回

 

芸術的創造は脳のどこから産まれるか? (光文社新書)

 

皆さんは下記の進行に解決感を覚える理由を説明できますか?

key=C dur 

G7⇨C

不定調性論では、この進行が解決感を持つのではなく、特定の条件で

「解決感を覚えてしまうようになったから」という答えにしています。

音楽理論では声部進行や自然倍音や色々な説明をする慣習がありますが、そうした考え方に加えて、というニュアンスで拙論的な考え方を並立させると便利だよ、という意味です。

 

「自分がそう感じることを感じないようにする」ということは大変負荷がかかります。痛みや気分の悪さなどを無視するのは不可能です。

そもそも感じないことは意識の上には上がってきませんから、感じないようにすることすら初めからできません。

 

また人には無意識という領域があり、そこが勝手に起動してしまう以上、自分が何を感じるかを厳密にコントロールすることはできません。

(ただしいわゆる脳のRAS機能で、見たいものを見ていく、という選別は可能。)

 

「解決する和音進行」

ではなく

「解決すると感じてしまう慣習的刷り込みによって解決すると認識するようになった和音進行」

とするのが不定調性論のその時々の音楽解釈の基盤になります。

 

こうしておけば

解決しない和音進行に対して不完全、不安定、未熟、1ランク下、というようなイメージも

与えなくて済みます。

属和音が解決することが常に最上級の表現、という時代ではありません(そういう縛りで音楽を作る人以外においてはの意味)。

 

不定調性論的感覚を書いておきましょう。

Dm7 G7 C

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「穏やかな終止」です。

Dm7 G7 FM7

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「ちょっぴり切ないけど、私は大丈夫」的終止です。

 

Dm7 G7 DbM7

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「思ってた以上になんか嬉しかった」的終止です。

 

Dm7 G7 AbM7

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「もう少しだけ優しくなれそう」というような自分を促すような終止です。

 

Dm7 G7 BbM7 

 

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ちょっと変則な場合も「解決させてやろう」と思うとそれっぽくなってきます。

手前にGm7?G7(#9)のスパイスの後、Bbが鳴っているぶん、スムーズ?

最後にUSTでC△が鳴りますからここでつじつまを合わせた感も知識によって演出できます。USTを知らなくてもなんとなく解決感を感じてしまうのは、過去にそういう曲が世界にたくさん生み出されているので知らず知らずに聞いて親しんでいるだけです。

私はこの最後の進行に「曇りだった景色が急に晴れたような、動きの大きいダイナミックな終止」を感じます。

 

これらの和音進行の感じ方はあなた次第です。

このようにドミナントモーションだけが終止ではない、と考えるのが不定調性論的な和音連結の捉え方です。

 

これらの進行は、ビートルズやジャズが世界市場の上で開発し、親世代からもう耳に馴染んでいますから、理屈うんぬんというよりもやはり「解決するという意味を耳になじませた人」にとっては、これらは音楽であると感じてしまうはずです。

 

こういったコンセプトで音楽表現を拡張したい人=学校で教わったもの以上の自分に向けた表現探求を行いたい、という人に不定調性論的思考は有益です。

 

まだ存在しない法則を発見する、まだ作られていない作品を作る、ためには絶対にこうした試みに感性を開きながら制作することがとても大切であると考えます。

 

この感覚を脳科学で説明しようとすると、どういうことになるでしょうか?

今回の参考文献「芸術的創造は脳のどこから産まれるか? (光文社新書)」は

developmental-robotics.jp

医学博士が書かれた著書ですので、私が話すより信憑性があるでしょう笑。

 

 

我々は日々、意識にかかわらず様々な音楽を聴いています。この全ての音楽を一つ一つ新たな情報として処理していては、脳の負荷がもの凄くかかってしまいますので、脳にはあらゆる音楽を普遍的知識としてできるだけ簡略に整頓し把握しようとする機能があります。それによって、新たな音楽を聴いても、次に何の音が来るかをある程度は予測することができ、脳の負荷を下げることができます。この予測しやすさは、脳が長年かけて作成してきた音楽の普遍的モデルがどれだけきれいに整頓されているか(不確実性が低いか)と関連しています。(中略)一方、ひとたび音楽構造を完全に把握しきってしまえば、もはやこれ以上の報酬(知の喜び)を望めないので、脳はつまらない情報とみなしてしまいます(中略)。それに対して、なにやら得体が知れない音楽は、不確かではありますが、もし構造を把握できるようになれば非常に大きな内発的報酬が期待できるので、脳はそういった不確かな音楽に興味を持つようになります。つまり、脳は潜在的に、さらなる内発的報酬を求めて、あえて音楽構造のエントロピー(不確実性)を上げるのです。このエントロピーの変化こそ、芸術的創造性や感性の起源なのではないかということが、近年の研究では示唆されています。

 不定調性論的思考は、まさに「さらなる内発的報酬を求めて、あえて音楽構造のエントロピー(不確実性)を上げる」ために用いる思考法です。

 

V7⇨Iが「解決する」のは、「脳は予測する性質を持つ」というところからきているとすれば良いのではないでしょうか?新しい曲は情報の洪水です。だから時折挟まれる「聞いたことのある進行=カデンツなど」にはある種の安堵感を覚えます。

そしてどんな新曲も慣れてしまえば"脳にとってはつまらない情報"になってしまいます。

 

「脳にはあらゆる音楽を普遍的知識としてできるだけ簡略に整頓し把握しようとする機能があります。それによって、新たな音楽を聴いても、次に何の音が来るかをある程度は予測することができ、脳の負荷を下げることができます。」

 

これが解決感の正体の一つであるとしたら音楽理論はどう解釈されるのでしょう?

音楽理論ができた頃、脳科学はなかったわけですから。

 

声部進行の学習もまた「こういう風に進行させると解決する」という習慣がもとで、同様な安心感を作り出していたとしたら?ドミナントモーションの解決は声部が行なっている、のではなく、そういう風な一時的解釈がさらに慣習化することで解決感として親しんできたとしたら?

 

この「従来の音楽理論的常識が脳の慣習に関わる」という視点を持つことは重要だと思います。

 

そうしたい人、そうしたくない人もおられましょう。

不定調性論は、ミクロな視点での正否にとらわれず、脳が作り出す様々な感覚をベースにして音楽制作をしていきます。これもまた「そういう風にしたい」という私の希望が具現化したものです。 

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