音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

音楽理論を知らない人のための音楽理解の考え方と不定調性論の応用

音楽のことを何も知らない人は音楽に触れてはいけないのでしょうか。

短い人生の中で、さまざまな表現物に触れて何かを感じる時、知識が何もないなら、果たしてどのような方法でそれらに接していけば有意義なのでしょうか。

 

たしかに音楽史を知り、作曲家の方法論を知り、音楽理論を知り、楽譜が読めて、楽器も人並みに弾けるようになれば、音楽の理解は深まり、楽しいかもしれませんが、それは単に社会的価値の向上がなされ、給料がちょっと上がり豊かな社会生活を送れるだけです。

幸福になるわけではありません。幸福は自分からしか生み出せません。勉強することで幸福になれる、と信じるならそれでもいいですが、勉強は一生終わらないので、幸福のための材料にするには大変厄介な存在に頼っていることになります。

 

この記事ではいわゆる音楽理論を用いないでどうやって音楽を理解し、感じるか、について語ってみたいと思います。

 

先に結論

"わー音楽わかんない!音楽理論やらなきゃ!"と思うのは

「音楽の学術的解説が読み解けないから共通言語で誰かとその楽曲の意義を共感し合えない!」

場合のみに出すべき悲鳴です。

そもそも誰かと音楽について語り合うこと自体エンタメなので、それっぽい時間を過ごせるだけです。飲み会トークです。飲み会でそうした話に「知識がなくて入れない」のは実に健全です。洗脳を免れます。

飲み方で証明しようのない話がいくつ出たかカウントしてみてください。

もしあなたが独自性を持っているなら人と話題が共有できないことなど大した問題ではありません。そんなことで盛り上がるような話題が作れる人間になってもあなたが 研究家でもない限り、胡散臭くなるだけですから個人的には全く薦めません。

 

それでもたのしめるなら良い、という人はネットを読み漁ってください。よりそれっぽい意見が拾えます。それは恥をかくことを恐れて表面的な知識で取り繕っている行為です。

 

 

先に主題を。

・音楽の知識や常識を知らなくても、知らないことを認められる人にはそんなに人生不都合は無い

・自分が正しい、ではなく、自分の性格/思想が原因でそれをそう考えてしまうことを認め主張できるようにする

・知らないことは教わり、学ぶ

・自分をしっかり持って主張できるほうが、自分の感性に合う人に出逢いやすい。

・自分がそう感じるように、相手もそう感じている。互いの価値観の違いが作る意識の違いを俯瞰できるようになったら、議論自体がただのエンタメ。

 

そして結論は、

・自分が正直にそのときに感じた率直な意見を想起できる

・印象や心象はその都度変わるのに、それを知識で平坦化するのはもったいない

・そうした行為が好きなら、そのまま自分のやり方でいろんな作品に触れてみる

・たくさんの作品を知り、感想を語れるようになれば、あとは隣にいる胡散臭い音楽理論に詳しい人が補足してくれる

・相手を納得させる必要も、勉強になった気分にさせる必要もない。ただ自分が感じたことが言えれば、それが最も感応する分野に進み、その分野の専門を極めてゆけば良い

・あなたが音楽理論を知らなくて音楽を語りたいなら、「たくさん聞いて全部感想が言える」人になれば良い

 

とまとめられると思います。

 

ジャズはわからない?「ザ・エージェント」

誰もが音楽教育を受けるわけではありません。

トム・クルーズの主演映画「ザ・エージェント」でトム演じる主人公ジェリー・マグワイアは、ベッドで女性と向き合いながら部屋に流したマイルスとコルトレーンの1963年ストックホルムライブを聴きながら、「...なんだ、この音楽は」と笑います。

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彼が浮世離れした変人ではなく、普通の人の目線を持つ、普通の感覚を持つ親しみやすい人なのだ、という印象を与えるためにマイルスとコルトレーンは出汁に使われたのです(物語ではこのテープを誰からもらったか、も心象の遠因になっています)。

 

ジャズをそういうふうに感じてもいいのだ、と私たちは往年の映画から学びました。

(その方がモテる時だってあるのだ、とか思ったり)

 

そこには「個人の価値観」「個人の解釈」「今本当はどう思ったか」の表明ができることの大切さがあります。

それによって馬鹿にされるかもしれないし、無知だと罵られることもあるかもしれませんが、その都度謝って学べばいいだけです。でもあなたの意見に率直に共感してくれる人もいるだろうし、無理しない方があなたと同じ感性の人に出逢いやすくなります。あのクルーズの映画も共感がテーマです。

 

理解や解釈はその都度個人の中で変わっていきます。知識/解釈自慢はあくまで社会的競争エンタメであり、あなたの幸福とは関係ありません。

自分をよく見せる必要がある時もありますが、それは裏返せば「自分は本当はどう思っているか」を自覚していないとできません。

 

音楽的なクオリアで正直に感じる

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この曲を聴いて感想を述べてみてください。

背景の知識がないと「あーなんとなくアメリカの古い音楽かな?」ぐらいしか感じないと思います。

 

音楽分析だと、これが長調か短調かどうかとかを調べ、楽譜を書いて音の動きを分類し、使われている技巧を分析します。合わせてソウルの音楽制作過程を知り、レコーディング技術を語り、歌唱法のルーツから歌を評することもできます。

先のジェリー・マグワイヤ(トム・クルーズ)もその場で女性を抱くのをやめて、コルトレーンの使っているフレーズを楽譜に落とし、そのコードとスケールの関係を分析し、その美意識やテクニック、そこに使われている音楽理論を知れば、あの主人公なら感動してくれたかも知れません。しかしそんなことをしていたら、彼が今やっている仕事の未来を勝ち得たでしょうか。愛する人を抱くことができたでしょうか。

 

音楽史、音楽理論がわからない状態でこの曲を聴いた時、素直に

「古臭いな、今はもっと激しいのを聞かせてくれよ」

「いいノリじゃないか」

「セクシーな声だね、好きだよこのボーカル」

とかって率直に「今の自分の意見」を感じられることはとても大切です。

それが今のあなた自身の主張だからです。あなたの裸が鏡に反映されている感じです。

今のあなたに与える、その音楽の心象を、正直に捉える

ことは自己表現のスキルです。それがいつも良いわけではないですが、勉強すると自分が思ってもいない知識をそう思ってると思い込んで高飛車な観点から述べてしまいます。

だから理論家に直接曲を作らせたり、楽器を弾かせると大したことないのです。本当はその人はそう思っていないからです。頭でっかち、というのは知識はあるが、自分のことを知らない人のことを指します。自分がそうです。

 

その音楽について何も知らなくていいんです。あなたが生きてきた人生を総合し、今どう感じたかを率直に言うだけです。

「褒めよう」とか「ちょっとでも知ってることを言おう」とか思うのは「社会的価値への従属、健全性の誇示」です。それはエンタメですから自己表現ではありません。

それと対照的なのが「個人的価値の獲得」です。この記事では「ジェリー的発言」とでも言いましょうか。

 

音楽ではなく、出来事として捉えてみる

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では次に天下のクセナキスのピアノを聴いて、あなたの率直な感想をください。

。。

。。

、、

。。

 

「よくみんな笑わないでいられますね」

この手の発言は、社会的価値の中で生きる場合「無知」だと言われます。

そこでこのように返しましょう。

「これは今の自分の率直な音楽的なクオリアに従った意見であって、批判ではない」

と。もちろん作品や演奏者を貶すつもりなどありません。そうした悪意もエンタメであり、自己表現ではありません。ネット上ではひろゆき氏のような人物の意見が炎上しますが、あれは賢い彼が自分をよく知っているから、逆張りの絶妙なところを攻められるのであって、彼でなければ一回の炎上で追放されているでしょう。あれは全てエンタメなんです。膨大な努力の上に成り立っている演出です。そういうことが新しい(それまでのyou tuberやホリエモンのような人物の注目から割り出した手法?)から、誰も彼のトリックに古臭さがなく、新しい人、今っぽい人、として確立できています。あと数年で古びてしまいますから(劣化コピーが演出を蔑む)、次の手を今必死に構築されておられることでしょう。

 

そして次の言葉をかければ、問題は解決します。これもテクニックではなく正直な思いです。

「この感想はきっと私が無知だからだ、この曲のあなたが知る価値を教えてくれ、それを学びたい」

と。

それでも怒る人がいたら、その人が本当の無知なのかも。

人の脳について、人の認知について、何も知らないからです。

ここで肝心なのは、作品を貶したいわけではなく、本当にそう思ったからそう述べただけです。自分が感じたことは一旦脇に置き、この曲を芸術音楽と謳う社会的価値の観点から、この曲をどのように鑑賞したらいいか教えてくれ、と頼んでいます。

これは自分の弁当は脇に置き、あなたの弁当を食べさせてくれ?という提案ですから、遠慮深く行いましょう。

 

中には、芸術音楽を学ばずとも「うわ、やべーこの曲!カッケー!」と思う人だっているでしょう。自己表現が難しいのは、本来の自己はかなり稚拙だ、と最初知るからです。ついそれっぽいことを言ってしまうわけです。

 

 

自己を磨くには、たくさん楽曲に毎日触れることです。

そして毎日できない、と思ったら、毎日できる分野を極めてください。

毎日音楽鑑賞できないのに「音楽理論勉強しなきゃ」と思っているのは、車の運転もできないのにモナコGPのための準備しなくちゃ、と言っているようなものです。

 

 

 

先の動画は可笑しさの要素も確かにあります。

背景に座る金管楽器の人たちも譜面めくりをする人も全く動じず、ピアニストの必死な演奏に真剣な眼差しを向けているからです。そういう出来事が起きているんです。

私は、ステージではEDMのDJがノリノリでtuneをかけているのに、客は全員座って微動だにせずお通夜のように自省している絵を想像してしまったんです(それはそれで客席に表現を強要するアート表現です)。

お笑いの動画の後にこれをみたら、そういうコントかと思ったかもしれません。

この場合、ピアノ演奏者が演奏しているときは彼以外は映さないようにした方がいいと思います。

 

 

これは「時系列情報」と言って、人は五感で感じるすべての情報に心象を感じるものです。これについては時間についての知識が必要です。

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芸術音楽は音だけで聴くと、また違った印象を持つことでしょう。

いくら勉強しても心象はその都度変わっていきます。

 

 

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ではポップスを鑑賞してみましょう。

この曲はどうでしょう。どう感じますか?

"米津玄師はすごい"

というよくわからない先入観が現代人にはあるので、もう全然体に入ってくる感じが違うと思います(先入観、洗脳)。

これも先のクセナキスと同じ印象で聞くこともできます。

 

先の時系列情報で言えば、画角もかっこいいし、映像もかっこいい。声もカッコよければ、ダンスも歌詞も、メロディもコード進行もかっこいい。現代の人(視聴ターゲット層)がかっこよく感じる感覚を刺激するように構成されているので、これをカッコ良い、と思わない人は天才か、奇人です。

先のクセナキス動画で整えられていないのが、この演奏者の周囲のビジュアルになんの表現演出も施していない点です。

 

でもこの感じ方は、肯定的に芸術音楽に親しんでいる人がクセナキスを聴くときのかんじと全く同じなんです。

ジェリーがコルトレーンを理解できない感覚と同じです。

音の芸術を感じようとする時、ビジュアルなんて関係ない、と感じるのと同様です。

何が違うんでしょう。

 

周辺の状況が印象を作ってしまう

それは「あなたの状況」です。

ジェリーだって、愛する彼女が実はジャズ・ミュージシャンで、プロポーズしようと思った晩に、彼女が汗を迸らせ青筋を立てながら喘ぐようにコルトレーンを吹く姿を著名なライブハウスで聴かされたら、痺れるはずです。「音楽はよくわからなかったけど、心が洗われたよ」とか言っちゃうかも。

 

「時系列情報」が人の印象を左右します。

だから彼女とまったりとワインを飲んでる三つ星レストランのBGMでloserが流れたらたまりません。

・何言ってるかわからない

・なんで負け犬って曲をいま流すんだ

・こんな重厚なテーブルの空間で、この音パキパキしすぎやろ。

・この三ツ星レストラン、米津玄師流すんか。

とか色々思ってしまいます。

 

でもそう思って笑えることはとても大切です。それがあなた自身だからです。

音楽に価値がないとか、よくわからんからダメだ、とか、古臭いからダメだ、みたいなことも確かに感想です。しかしそれは「不満」であって、あなたには関係のないことです。気分が悪い時はさらに不満は助長されます。悪質な不満を持つような生活から脱却する努力や工夫は、表現のためにも必要です。誰もがカート・コバーンのように破滅的芸術を極められるわけではありません。破滅的に生きる才能がないと。先のひろゆき氏の話に似ています。一般人がカート・コバーンの真似をしたら三日と生きられないかも。

 

音楽的なクオリアの本質は、(自分にとっての相手の)有益さを探せることです。それが生きる力とか、知恵になるからです。

 

まったり一人の時間にブログ読みながら聞く米津玄師は確かに最高です。

同様に、自分の学校/会社の好みの美人/イケメンが弾くクセナキスはまた違って聴こえるでしょう。

それらが時系列情報が醸し出す心象のマジックです。

全てにおいてそれは作用し、絡み合います。

現代音楽を普段から聴いている人は、さまざまな自分の時間の感傷の場面で強い心象を持ちながら聴いてきているので、クセナキスの音楽はいつ聴いても感動的なスイッチを入れることができます。生活に馴染んでいるからです。よく観ていたアニメの主題歌になると、印象が強くなるのも時系列情報のおかげです。

 

そうした自分の背景を一切無視して、ただ楽譜から読み解けることを分析することは学術的意義であって、あなたの幸せとは少しかけ離れた位置にある「文化の継承行為」です=文化人の責務ではあるが、一般のあなたがそれをしなくても良いわけです。

文化の継承に「個」はあまり重要ではないので、それだけやって、もし辛くなるなら、研究活動には不向きです。

 

「音楽を分析できるようになりたい」の意味をもっとよく考えてみましょう。何のために他者との共通言語である音楽分析をあなたはしたいのですか?分析できる自分を自慢したいのですか?共通の言葉で分析できるようになって、誇らしげに分析結果をひけらかしたいのですか?本当に音楽の分析文化を継承し発展させたいのですか?

前者には「あなた」はどこにもおらず、後者は研究者でないあなたがやらなくても大丈夫です。

あなた自身があなたらしさを求めないからこそ、知識詰め込みや知識自慢が心地よいかも知れません。自分自身から逃げているのかもしれませんよ?

趣味で学ぶなら自在に学んでください。

 

一方で自分の心をただ表明できることの面白さ、豊かさ、意義を感じるなら、勉強よりも自身の気持ちに素直になるトレーニングを積んでみてください。たくさん聞いて、メモをしまくるだけでOKです。

なにより、その先に「本当は自分が何をやりたいか」への道が続いていますからワクワクしかありません。

 

 

自分にとっての価値を生み出す

音楽は所詮空気の振動が、耳の中で音程情報に変わった極めて主観的な情報です。

そして前後の雰囲気や感情、現在の気分、思い、さまざまな自分の現状がその音楽情報の心象を勝手に作り出します。これを「音楽的なクオリア」とします。

 

Loserを聴いて明るいか、暗いかを音楽理論的に分析できる前に

・あーこの緑色、マトリックスの映画みたいでいいなあ、そそるなぁ

・あーこの有機体みたいなクネクネダンスの異物感たまらんなぁ、逃避できるなぁ。

・あーこの音の流れなんか好きだなぁ(Loserのコード進行は伝統的なロック進行だから、日本人の意識に染み込んでいるので、カッコ悪いと感じるはずがない形式になっている)

・この歌詞、書き出して朗読したいなあー。

とかを感じることが最優先です。まず欲望や感情をしっかり正確に感じてみましょう。

 

心象を感じることは、この曲がF#マイナーキーだとわかること(文化の継承行為)以上に今後のあなたの人生に大切なことです。好きな人を好きになった意義を考え込む前に、好きだと思う気持ちが昂り、気付いたら告白していた、という方が有意義な時が人生にはあります。

 

その音楽の自分にとっての価値を自分で見つける

普段これができてれば、仕事も多少楽しくなるかも。

ジェリーは「君と過ごす夜には、超一流のジャズだって要らないんだ、君と楽しく過ごせれば全部楽しくなるじゃないか」と言っている、と思えば、あの発言の裏のジェリーのその瞬間のイキリ具合が読み取れます。

マイルスとコルトレーンが霞むほど君といると楽しい。と言っているのです。

..やはり巨人たちが出汁にされてます。

 

そこから興味を持って、真剣に伝統音楽の意義や、自己表現の探究を目指せる人は本気で勉強してみてください(必ず大学で)。

 

 

知識は自分の畑から生み出せる

音楽構造に興味を持つと、すぐに楽典の勉強、wikiで歴史の勉強、となってしまうかもしれません。でもその前にもう一段階、自分で掘り上げてみてください。

Loserなら

・なんかどっかで聴いたことある曲の流れのかんじだよな、なんだろうな。。

・この手拍子(クラップ)みたいな音好きかも、アガる

・「どこにもいけやしないのに」って歌詞が刺さる

とか曲が醸し出す情報を真剣に自分の耳で聞き掘り下げてみるんです。それをブログ記事などにまとめてみてください。

これを続けると半年後めちゃくちゃ学べたりします。

あなたが大事だ、と思うポイントは多分音楽理論的にも大体重要なポイントです(だから技法として名前がついている)。

だからあなたが曲を作るとき「Loserの手拍子みたいの入れたい」という発言と「2、4でクラップ入れて?」は同じ意味なんです。

伝わればいいんです。

 

音楽理論を学ばなければならない、という必然性はもっとずっと後で補足的に感じれば良いと思います。「辞書読みてー」と思う人はあまりいないでしょう?

"音楽理論"は先人たちが描き繋いだ技法辞典です。

 

勉強だけが勉強ではありません。

まず自分で自分が知りうるセンサーをフルに使って詳しくなってみること、知識の自給自足です。知識は自分の畑からある程度生み出せる、と知っていただき、自分の心象力を鍛え、自分のための知識や価値を創造できることが音楽を学ぶ一番最初にできることだと思っていただけると嬉しく思います。

知らないことは永遠に減りません。勉強には終わりがないんです。

そしてどんなに個人で突き詰めても、他の人は全く別のセンサーでとても面白い事実に気がついているものです。人の感性がそれぞれ違うからです。

勉強を目的にするより、今自分を満たす行動を探求してみて下さい。

勉強は勉めることを強いるのでとても大変だし、の本当に好きなことのために勉強した方がいいと思います。

欲情が次への行動を加速してくれます。

 

「音楽的なクオリア」をしっかり働かせることできていれば、そこから選択し「次、自分何すべき?」がわかるようになると思います。

曲を作っていると「あ次アッパーストラクチャートライアドだ」とか思う前に行動できます。そしてそこから何度か試行錯誤して、結局ただのメジャーコードになる、というところまでが創造行為です。勉強が全てを解決してくれるのではなく、欲望が様々な行動意欲を作り、それらを試しているうちに直感が働き最適解を見つけやすくなってくれるんです。

感覚だけで生きる、ということもまた修練なんですね。

 

最終的な楽譜にはそうした発案過程は示されませんから、分析では肝心な作曲家の葛藤は推測するしかありません。適切な推測ができるかどうかはやはり日頃その作曲家の作品をどれだけ聞いているかにかかっていて、それは勉強ではなく心象力がどれほど豊かか、ということになると思います

 

だからただ本を開くのではなく、まずは自分の思うままの行為を積み重ねる経験を膨大にしてみてください。