今回の曲は二手では弾けません。
日本人が平均律を使って西洋音楽を取り込む場合、例えば、「荒城の月」のようなメロディが生まれたら、自分はどんなふうに編曲するか、みたいなことの粗絵。
あくまで私の場合、平均律で水墨画を作るのがいいんじゃないか、と。その過程で生まれるわずかな「小節感」の導入が、私がイメージする西洋化。
本来日本人にとっての霊性は西洋の概念と組み合わせづらいので、どこかでその相反を認めないといけないような。
日本の歌謡メロディはシンプルゆえ、現代音楽のヒントがいっぱいです。
もともと私が琴の音色(和音)に平均律的な短9度ずれた不快感を感じたところから、それがしまいには好きになり、そこに独特の叙情を感じるようになり、この日本的和声の不協和の含ませ具合の%は日本人にしか生み出せないと感じるようになりました。そしてそれは不協和ではない枯れた美意識そのものであり、もともと美しく響く和音に日本人性は無いのではないか、と思った時期もありました。
シンプルなメロディにシンプルな西洋和声をつけると、妙にペラペラになりますが、私たちが日々感じる幽玄霞の風景は機能和声と少し相性が悪いです。五音音階と音程がつかない音の世界を組み合わせて初めて西洋的に通じる音世界が生まれる、と感じます。
西洋よりはるかに長い歴史を持つ音感性は平均律の別の扱い方を知っていますきっと。しかも、こういう趣味音楽って誰かに聴かせるのではなく、音そのものに聞かせる的霊性で、民族ならではの感覚ではないでしょうか。先だって「拙論は言語が進化した先のコミュニケーションを想定して作っていたように思った」と述べた答えのように思います。
曲中はいつもの私のスタイルで、裏面領域やそれに伴う下方の音集合の響きが作るローインターバルを破った濁りの世界は、湿った太古の森の霞の中の世界のようで
「霞光滄渺」
という語で表現しました。なんて読むんでしょう。音にすると霊性の秘が解かれてしまいそうなので音にはしません。曲の中にある音だと思っていただければ。
あわせて、ここ一ヶ月で先生方と話して記事にした表現も取り入れました。
「荒城の月」のメロディもちゃんと中域で鳴ってます。和声付けは不定調性論全フリ〜音楽的なクオリアのみ。
あとは色々暗号めいた仕掛けも入れつつ。
こういう不定調性だと、自分が聞きたい音を聞くので、パレイドリアのような効果が出て面白いです。
下記は1:35くらいの和音ですが、メロディの流れで絶対ここはa音が来るのですが、a音を置くとなんか機能和声的に寄りすぎるので、取り除いたのですが、流れで聞くとaが聞こえます。

脳が低音を補強する、という話で前に書きましたが。
曲を創る意味も、その欲求を認め、創ったものを、"渡して"ゆくのみです。鑑賞するためのものでも、表現したものでもなく、ただ"渡して"いくことで、自分の流れが澱まないようにしたい。



