音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

間違った知識を教えている講師がいます!

先生が間違った知識を教えた!!と"訴えたくなる"場合、いくつかパターンがあります。

・自分が嫌いな科目/その先生も嫌い

・最近、先生が気に入らなくなった

・別件のことがあって先生に敵対した

・言ってることとやってることがめちゃくちゃだから信用できない

・よく知らんけど、なんかおかしいからよく見たらやっぱり間違ってる(ネット上)

最後のは当たり前で、ネット上の知識は私の情報も含め、信じる"必要がありません"。

ネット情報は「戯れるもの」として扱い、書籍や専門家の講義を直接購読、受講してください。ただ、皆が知る情報が文化になっていくので、文化になったらそれを「流行」として意識する仕事があることも理解していきましょう。

 

それ以外の状況は、まるで恋愛が破綻していくような過程を経て先生への信頼は全く関係のないところから崩れてゆきます。教わることに頼ってしまっている人が多く集まるとよりこれが如実に出ます。

小さな反発が積み重なって、決定打となる何かが起こり「あの先生は誤った知識を持っている!だからダメな先生だ!先生やっちゃいけない人だ!」となります。

 

これは、たとえば寄せあつめのクラス、仕方ない動機で集まることとなった人たちがいるクラスの中で、かつ、本当に講師自身がいい加減な結果として、反発や反乱が起き、成り立つ現象です。よほどのことがなければ間違いは翌週までに誰かが気がつきます。全く気がつかず何十年も過ぎていたとしたら、マンツーマンで出し抜けで教わったか、酒の席で聞いた話か、とにかくオフィシャルな教育現場での知識であったかどうかを思い出しましょう。

繰り返しますがネット上でのやり取りはお互い社会性を持ってやり取りすれば、相手を糾弾する必要がなく解決できます。

 

そもそも志が高い人たちの集団では、家康が言うように、

kenplanning.sakura.ne.jp

大将というものは

敬われているようで 

その実家来に 絶えず落ち度を探られているものだ

恐れられているようで侮られ

親しまれているようで疎んじられ

 

ているものです。教師も同じだと思います。

だから間違った場合、鼻で笑われ、いつの間にか来なくなるのが世の習いです。私もアドバイスを間違えた経験などいくつもあります。結果として「自分が述べることを自分で過信しない」というモットーが作られより慎重に、柔軟になります。

 

もしあなたが過去に信頼していた先生があなたに教えた知識が、先生の勘違いで「誤った情報」であったとしましょう。

あなたはその先生を恨みますか?そこまで影響はなかったのではないでしょうか。

 

先生を信じるにはやはり信じてしまった理由があるのだと思います。

・先生が好きだった

・盲目的に信じることに頼っていた

・先生が口が達者で信じさせられていた

・スポ根タイプでちょっと洗脳されていたかも。

 

などなどいろんな事情もありましょう。

 

わたしは、兎跳びはダメだ!といわれた後の世代ですが、まだ練習中に水を飲んだら体がだるくなる、と信じ込まされていました(野球部出身)。

もちろん、現代の知識からすればそれは誤りなのかもしれませんが、当時は誰も脱水症状で倒れたりはしませんでした。飢餓感が毎日続くことで練習時の体の状態が研ぎ澄まされていったようにも感じています。より鋭敏に、忍耐強く、振る舞おうという気概も得ることができました。何より講師が誰より一生懸命でした。

これも洗脳だったかもしれませんが、だれも健康を損なうことはありませんでした。

今ではとても良い経験だったと思っています。

"水筒と一緒に梅干しを三つもってこい!"

と言った当時の講師は、私はむしろ優秀な先生だったと思っているくらいです。

基本的に喉が少し乾いていると、野球に集中します。嫌な気持ちを忘れようとするからです。ある意味ではそういう風に幸いな方向に向かったこと自体全体に感謝しています。

 

講師は自分の知識が正しい、とか、こっちの方が正確だ、と言う物言いは大変危険だ、と言うことさえ知っていれば、あとは学ぶ側に常に「本当だろうか」「捕捉することはないのだろうか」「別のやり方もあるのではないか?」と考えて一緒に目的を達成していく感覚をクラス内で作れれば、講師が必死で調べた結果、またはずっと信じてきたことを話しても大丈夫です。

それがたとえ誤りであったとしても、誰かがすぐその真意を"あげつらってくれ"ます。それは生徒があなたより優れてきた証拠です。なにより

・教師も間違うことがある

を知っていただくのは最強の教育です。軍隊ではないので、指示一徹ではないところが逆に教育現場の難しいところです。

 

当たり前の結論で恐縮ですが、

教師側は自分が間違った知識(または古い知識、ある系統に寄った知識)を教えているかもしれない、と自覚し、生徒も「真実は常に変わる」「先生の知る以上の真実を見つける」と思いながら、ともに学び合う関係を作っていければ良いのではないか、と自分も実践している次第です。

 

今回お話ししたのは事故的に講師を糾弾したくなってしまった場合の感情的偏りやアンバランスさについて述べました。教育もまた人間関係の上ではじめて成り立つ、と言うことを理解していない人もいます。

・正しいことを知ってるから自分は人に教えることができる

のではなく、この先生に教えていただきたい、と言う気持ちが相手に生まれるたとき初めて成り立つ関係です。

 

昔の偉い科学者は100%知識があっていた、と言えますか?

死刑となったソクラテスは、2周回って現代では真理について教えてくれます。

他人を糾弾するあなたは100%正しいですか?

...多分真実、を相手にもとめるより、「相手の言わんとするところを創造的に解釈して、確認し合うコミュニケーションができる」ことこそ、相手の知識も生かし、自分の知識も深める人であると思います。

 

やっぱり強さ、だけはどんな仕事にも欠かせないのかもしれませんね。

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