音楽をやる人にとっては式典の「君が代」はいつも特別な気持ちがしてしまうものです。特に普段意識していないのに。
前回オリンピックの風潮
この記事はオリンピックの開会式君が代についてのみふれています。
運営スタッフには知人もおります。運営に携わり無事開催まで導いた、演者の皆様、現場スタッフの皆様に最大限の敬意を申し上げます。
下記は64年の「君が代」です。2021年の記録もきっと歴史的映像になって残ることでしょう。
国旗が掲揚される音楽としても「君が代」ってすごく厳かでぴったりだな、と感じます。
「ファンファーレを公募」などの「みんなで創るオリンピック感」が満ちています。
各種芸術出品などがあり、日本文化の発信が活き活きと受け取られた時代でした。
そもそもデジタル化された現代にオリンピックの文化的側面の発出が盛り上がりに欠けるのは、致し仕方ないと感じます。現代は世界中に日本文化が日々発信されているからです。
国民感情は64年も同じでした。
「オリンピックを開くのにたくさんの費用をかけるくらいなら、今の日本でしなければならないことはたくさんあるはずだ」
これは64年の言葉です、2021年ではありません笑、この手の無責任発言はお約束です。
批判したくなるのは、イベントの成否ではなく個人感情から日頃の不満をぶつける宛てがないだけです。
だからイベントの成否を考えるときはそういう個人に帰する視点は一旦取り除いてみる必要があります。
私は音楽家、音楽講師ですから、「君が代」について丁寧に考えたいと感じました。
今回の「君が代」についての世間の賛否
たまたま検索した下記の記事主さんがポイントをすっきりまとめておられたので謹んで引用させて頂きます。
掲載されている賛否両論はどれも共感できます。
アレンジについて、衣装について、MISIA氏起用について、歌唱について、照明、映像について..これらは何をネックにするかでだいぶ印象が変わります。
私個人的には編曲も、MISIA歌唱も、衣装も全部素晴らしかったと思います。
あとはどう見せるか、っていう演出と運営側のストーリーを私はよく知らなかったから、誠に生意気ながらいまいち説得力を感じませんでした。
感動と一緒にモヤっと感じてしまい、その理由を紐解きたくて書いています。
真に受けないでください。ただの感想文です。
サブチャンネルで詳しく解説している動画とかありましたか?わたしはテレビを持っておらず。
"あの「よ」の発音についてはMISIAさんは2週間眠れなかったそうですよ?"
とか伝わってくるのが2021年ではないのかな、とか思ったりしてます。
"このアレンジは49回書き直されているんです"
とか。それが音楽の印象の厚みになります。音楽の価値って心の中に置かれたストーリーと化学反応するんです。
最近ぶっ飛んでるNHKさんの勢いも感じられません。
オリンピックに国民全体が反対、みたいな空気だったので、いきなり始まった感が凄かったです。始まったら当たり前のようにやっている!ことにも違和感がありました。
でも今回はそうするしかない、ってよくわかってます。
それが悔しいし、変な胸の痛み。やるせない空気感を感じました。
そのザワザワ感が凄すぎて、君が代の緻密で繊細なアレンジの温度感がザワザワ感で曇ってしまったぐらいです。
下記はリオオリンピック時の、君が代編曲をされた三宅氏の記事です。
『ブルガリアン・ヴォイスのスタイルでできないか?』と打診されまして」
"椎名林檎天才かよ。"までが構文ですね。
特に「君が代」をアレンジするなら、音楽を"識ってる"人のプロデュースが欠かせません。
今回もここに書かれているような君が代ストーリーがあると思います。
後出しで来るのでしょうが、早めに読みたいです。あのアレンジが誤解されて意識に定着してしまう。ストーリーは大事なんです。僕らは天才ではないから、与えられるストーリーで楽しめるんです。
なぜあのアレンジにしたのか、どんな意味があったのか、どんな思いがあったのか。それによって我々は何を達成したのか。何を得たのか。まだ何も知らないまま音だけ聞かされています。
特に今回のは音だけで理解できるほど簡単なアレンジではないし、音だけで理解できるほどまだ社会は文化的に成熟していません。
でも日本人は、ちゃんと説明されたら分かります。理解できると思います。感性が豊かだから。理解しようという心構えがいつもある国民性だから。