まずこういう音源があったとしましょう。和音は二分音符で鳴らしただけ、メロディは細工してありますが、ここに調性があることはなんとなく認められるでしょうか?
コードは下記です。
これらにテンションが加わりどんなに複雑怪奇になっても、それが音楽として機能する、と個人が定める音色の範囲内にあれば、和音は機能します。
その一つの究極がUSTのような解釈でした。
今回はさらに周波数まで弄ります。今回は下記のエフェクトをかけます。
まずコードトラックだけにmix0になるやつは0のままで全体で約10%のエフェクトをかけてみます。
まだコードが判別できますでしょうか?
一気に40%までぐらいにしてみましょう。
もう、このフレーズに慣れてしまって、ほとんどクオリアでコード進行が追えてしまってますね。
ノイジーではあるけど、和音の流れ、音楽の流れは感じますでしょうか?
では、一気にギリギリまで入れてみます(80−95%で調節)。
これは確かにあの楽譜が鳴っているんです。
冒頭のDm、コードトラックのEQ画面です。
エフェクト前も後も確かにDmが鳴っています。
エフェクト後にはDmに載せてはいけない音が載ってるから理論的にDmじゃない!といっても下記のようにD#やF#、A#はさほど目立っていません。
むしろそれをいうなら、エフェクト前のDmにだってf#、d#、a#の音は含まれているんです。
これらはEQが発明されてより具体的にわかってしまったことです。
「聴感上」聞こえるか?、または実際にアヴォイドノートを鳴らしているか?という定義が曖昧なので、このノイジーなDmがDmではない、という理論的根拠はゆるゆるなのです。
EQの数値を含めた音楽理論は存在しないので、我々無法者はやりたい放題です笑。
人間の聴覚はさておき、EQの上ではエフェクト後もDm7はしっかり含まれていますし、実際DAW上にはそれ以外の音を弾かれていません。
また、よくよく考えれば、これまでの音楽の判断は指揮者やプロデューサーが「ダメだ、そんな音」と言ったらダメだったんです。
もともとこの段階から音楽理論は関係なく、出版社が、ディレクターが、ダメと言ったらダメでOKといえばOKでした。良し悪しは権威が判断していました。資本主義とはそういうものです。
それをもっと推し進めて、人の聴覚も関係なくしてデータを一つの指標にする、としたら「コードの代理概念」はどこまで拡張できるでしょう。
このDm7と
このDm7がある種の代理概念で結ばれるとしたら。
それがDm7とFM7が代理関係にある、ということの現代的な文脈の先にある解釈になりはしないでしょうか?
変なノイズが混じった(目立った)Dm7はDm7ではない、と決めつけるのはやはり「古い伝統に基づいた判断」ということになります。
そして後者のDm7をDm7の変化した姿(代理和音)として認められるなら、あなたはそれを一つの表現として使うことができます。
この辺は「チューニングが狂ったピアノで演奏することはダメ」「チューニングが狂ってもそれが面白ければそれも表現」など、常識の範囲をどの程度解釈できる嗜好が個人にあるかにもよるでしょう。
それでは、今回のエフェクトをマスタートラックにかけてさらに濃くしてみましょう。
こういう効果音を聞いたことがない、という人は少ないでしょう。
最初の
これ自体を、なにかジャンルに分類できる、聞いていて安心な音楽、と捉えることこそが人間の分類欲求による習性であり、脳が「分類できるものを好む」性質であるとしたら、それは「良い音楽を聴いている」のではなく、脳が聴きやすい音楽を聴いているだけ、であり、決してクリエイティブではない、と捉えることもできます。
不定調性論では、DmとDm7は雰囲気が違う異なる和音だ、とクオリアで捉えることを一つの方法論としています。同じものでも違う印象を与えることを認めます。
さきの「エフェクトがかかったもの」と「エフェクトがかかっていないもの」も当然違うものを表現している、ということができます。
ただ表現者が何を伝えたいか、訴えないとわからない、という点はあるでしょう。作品だけ出して、何を言おうとしているかわからないのは、聞いたこともない宇宙人の言語を翻訳できないのに似ています。
昔はライナーノーツでだいぶ音楽を理解できたものです。
だから、もしそういう音表現に何らかの快感や意味を感じるなら、その時何を感じたか、何を表現しているか、訴えられるだけの主張があれば、それは資本主義の中にあるルールに乗ることができます。
私は今回のマスタートラックのエフェクト音源に
「ロボット用のスープの味」
という表現、音楽的なクオリアを感じました。
そこで下記のような作品ができました。
題して「単細胞タンパク質スープ」。
映画「マトリックス」の中で出てくる、あの美味しくなさそうなスープのイメージソングです。ドーザーが「Single cell protein」と言ってたあのシーンを急におもいだしたんです。
そこで、最初の音源を一旦WAVデータにして、さらにエフェクトやピッチカーブ、切り貼り、伸縮を行っています。
この曲は、最初の音源から着想されたもの、であり、リハーモナイズの後リアレンジされたもの、と言っても良いです(自分的には)。
こういうふうに音楽をイメージする人は、少なくともニーズ優先な資本主義社会では生きてゆけません笑。不定調性論はそうした「一部の社会環境で価値のないもの」にたいして、その表現である所以を与えることができます。生きて行けるかどうかは別として「そこには意味も価値もある」と宣言しているわけです。
さらに器用な人はポップミュージックを作ればいいんです。
このように元の音楽から、イメージを派生させて全く違う音楽を作っていくことやりかたを「マザーメロディによる作曲」と言っています。
どこまでをどう許容するか、社会の基準を知ると同時に、自分の基準を知っておくと色々リラックスできると思います。何も知らずに誰かの基準に合わせ続ける必要もないし、自分の基準を知っていれば、いつでも自分の表現を作ることができます。
このことからノイズ作品でも、無音の作品でも、個人の主観がしっかり入り込むことで伝統音楽との文脈を作ることができます。
聴き慣れたモーツァルトだから聴きやすいのか、モーツァルトが音楽的に素晴らしいからモーツァルトは素晴らしいのか。脳は判断できません。現代音楽や聴き馴れない音楽表現は脳への挑戦です。
そこで戦う人は決して文脈から外れているものではありません。
教育現場ではそこに一貫する表現の文脈を見つけてあげる必要があります。
代理概念の範囲、
どこまでを一時許容するか、
どのように一時解釈するか、
どうやって一時表現するか、
などをどのように判断し、自己表現を作っていくか、という極端な例を紹介しました。後はそれらを深めるのみです。
音楽(単旋律)から音楽理論(旋法論)が生まれ、音楽理論(旋法論)を展開して新たな音楽(モードジャズ)が生まれ、それが新たな音楽理論になります。
様々な音楽表現との関わり方があると思います。それぞれが自分の思う活動をすることができます。
ご自身の許容範囲をご自身で活用して、作品を制作してください。