音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

音楽的なクオリアと中動態と不定調性論その2(脳の暗算は筆算より若干正しい?)

前回

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(一般的定義や伝統的解釈への飛躍解釈や誤謬誤りなどを感じましたらご指摘ください。)

 

概念を忘れよ

この中動態の話のセンセーショナルな点は、能動的だ、と思っていた思考や視点が能動とは言えない、ということを指摘した点であり、中動態自体が重要、ということではないと思います。

「コーラが飲みたい」

と思うことが能動だ、と直感的には感じますが、生理的欲求だったり、CMの影響だったり、友人の誘いである場合等、完全なる能動的意思とは言えません(前ページではこれを「超能動態」と呼びました)。こういった価値観の展開が重要で、この話は最後は、自分の決断を悪と思うな、自分で行動する!等と変な責任感を持ちすぎるな!というファジーな平成初期の価値観を呼び覚まして、ある種の「赦し」を人に与えようとしているように見える点がセンセーショナルなのかなと感じました。

ここから先に進む、としたら、何が能動で、何が受動と考えるのではなく、結果としてどのように行動するか、どの行動に責任を持つ覚悟を持つべきかの力点が問われれるのではないかと感じました。

 

二つの中動態

『現代思想 11月臨時増刊号』2016年〜木村敏 臨床哲学の行方〜

から「臨床哲学/芸術の中動態」

 

ここでは木村敏先生(京都大学名誉教授、精神医学)と森田亜紀先生(美学)が対談されています。

もちろん私は間に割って入るつもりはありませんが、この文献からは中動態(Ki)と中動態(M)という2つの中動態がある、と感じた点を描きたいです。

(kiは木村先生のki、Mは森田先生のMです。)

お二人の語った、それぞれの実際の体験エピソードが印象に残りました。

木村先生は学生時代に音楽合奏の経験があってピアノを弾いていたそうです。

バイオリンやチェロなど、他の演奏者もそれぞれ自分で自分の音を出しているのですが、それらの足し算では絶対に出てこないような、一番大元の力のようなものを感じていたのですね。私のものでもないし、他の誰かのものでもないような力のようなものですね。それは一体何なのだろうと言うことを、哲学も知らないし、医学も知らない頃から、ずっと考えつづけていました。その頃は「中動」なんて言葉ももちろん知らないわけですが、今になってみればその時の体験が大元になっているのかもしれませんね。自分で自分の音を出す。他人の音を聞く。それが一緒になって1つの合奏が出来上がる。その構造みたいなものをなんとかそれを言葉にしたいと言うことがあったのだろうと思います。

これはつまり、自分が意図して出した演奏の音と、周囲から受け取る圧倒的な合奏の情報量が、自分の脳内でなんらかの"すごい計算"を始め、自分の気分の中に"得体の知れない一つ上の気分"が生まれた理由は何か?ということへの問いだと思います。

不定調性論はこれを「クオリア」で片付けてしまいます。しかしこれを古くからある「中動」という別の角度から見ることができるので興味を持ちました。

森田先生の体験も引用します。

私は美学を始める前に農学部の学生をやっていました。そのときの卒論のための実験で、トマトの貯蔵というのをやりました。(中略)まず、トマトを採りますでしょう。そして採った後の呼吸を測ったり、どういう品質でどう変化するのだとか測定したりするのです。ひと夏実験して、何月何日に花が咲いたとか、トマトがどういう大きさになっていったとか、(中略)植物ホルモンを測って、糖度を測って.....ということを何百個ものトマトでやっているうちに、あるときトマトがトマトに見えなくなったのです。これは一体何なのだろう、という感じになって、それがものすごくしんどかったのです。(中略)そういう方法でトマトを切り刻んで、私とは関係のないものとして扱ったということが、トマトがトマトに見えなくなった原因なのではないかと思ったのです。これはちょっとヤバい、続けられない、と思いました。それがなぜかということを考えるためには、あるいは自分が無事であるためには、「自分が感じる」ということがそのなかに組み込まれないと絶対に成り立たないようなところに戻らないといけないと思いました。だからこそ芸術や芸術の研究に移ったのです。

森田先生は逆に、自分が感じていない状態では自分が無事でいられなくなる経験をした、と語っています。これを木村先生の状態に置き換えると、演奏時に生まれる合奏の感じに耐えられない!というものにあたるでしょう。

たとえばバンドマンが、「このアンサンブル!なんかすごすぎて理解できなくて耐えられない!!」なんて言ってたら音楽やめたほうがいいです笑。

この"トマトという存在のゲシュタルト崩壊"は、行為が次々と重なった膨大な情報に脳はフルスピードで計算して、本来表面的に見ていればいいだけの情報空間を超えた答えを出してしまって、それを森田先生が恐怖と感じた、という解釈ができると思います。

私はこれらの感覚には"脳の暗算(のような処理とクオリアの発露=超能動態)"が関わっていると感じます。

 

誰だって自分が食べたものがどう消化され、どう排泄されるかまでの情報を逐一脳から送り込まれていたら嫌ですよね笑。それらの暗算の過程は省略頂いて、満腹感と便意だけを感じたいと笑。若い時はこの暗算の過程がみるみる感じられる時があります。

心臓の鼓動がやたら聞こえたり、お風呂の蛇口の水の垂れる音が気になったり。

それと同じ、とは言いませんが、脳がはじめて作り出すプチトランス状態、というのは確かにある意味では感動で、ある意味では恐怖です、思春期は特に。

 

お二人はこれが契機となり、自分の歩む道を決めた、という話は、私が和声が引き起こす独特の現象に対して不思議に感じなければ不定調性論は存在し得なかった、という体験と合致して妙に納得しました。

「独自の感覚を伴う体験」というのは人それぞれあり、それが人生を決める、ということはやはりたくさんあるのですね。

 

森田先生の芸術の存在についての言葉を書きます。

それがそれであることの生き生きとした感じ-(中略)これがなかったら芸術は芸術として成り立ちません。(中略)絵の具であったり土であったり音であったり-と一体に、それ以上の何か-表情とか雰囲気とか言われることもある何か-があって初めてそれがそれになる。

不定調性論はこれも「クオリア」で片付けます。

拙論では、ここから即「クオリアからの行動直結回路を作る作業」に移ります。これがあとあと重要になってきます。

木村先生の言葉も引用します。

私が中動という言葉で語ろうとしたこと、それは私が現実をどう経験しているか、後々ペルソナ、人格、人称というような言葉で言うようになる根本的な生き方をどう経験しているかということなのですから。(中略)

やはり結局は「主体とは一体何であるか」という主体の問題になります。われわれは主体として自分で何かをしているようにおそらく外から見ればそう見えるのだろうけれど、事はそんなに単純なものではない。

ちょっと難しいですが、その他の部分を引用してしまうと論点がボケるのでやめておきます。「主体」とは自分だ、と思っていたこれまでの価値観を疑え、ぐらいに解釈しておけば良いと思います。

安易に能動、受動ではない、と宣言し、古くからあった「中動態」という考え方を現代人に復活させることで、生きづらい現代人の共感を得たのだと思います。先人の知恵が現代を救うと言わんばかりに。哲学的興味でよりも、人生における生きづらさをこの概念が赦してくれるのではないか?という期待による注目であるとも感じました。

 

そうなると何が中動であるか、ということは実はどうでもよくなります。

自分の意思は能動とは言い切れないのだ、または能動に気がついていないレベルの能動=超能動態、と理解できることが重要です。

 

その後のお二人の議論の展開は平行線のように感じました。

もちろん納得のいかないもの、という意味ではなく、それぞれが「それぞれの感覚で感じる中動態」を語ることによって成り立つ議論です。

それぞれが異なるリンゴを持っていながら、そのリンゴを語れば、若干異なるが大筋で話が似たりします。

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ここで先ほどの二つの中動態(Ki)と中動態(M)を再度。

もしこのように個人それぞれの中動態感覚があるとしたらどうでしょうか。

では中動態感覚とはなんでしょうか。

私にとってはやはり「感情に対して自分が感じる質感」、つまりクオリアを感じる、というニュアンスで良いのかな、と思うのです。

不定調性論も学習者独自の概念を作れ、と言っています。感じたクオリアを即音楽にするためにトレーニングせよ、と言っています(クオリアからの行動直結回路を作る作業)。今感じたクオリアがどのような定義に値するものか、という思索を飛び越えて、その感情をどう瞬間的に処理するか、で決まる、となります。そうしないとクオリアは消えてしまうからです。だから考えるより直結回路を作りできる限り「音に翻訳」しておいてしまいたいのです。一旦音に翻訳しておけば、再度作る時その音を聞けば、そのクオリアを思いだせるんです。その時そのクオリアが受動的なものか、能動的なものかは関係ありません。そのクオリアが「らしさ」の全容を全て教えてくれます。そこは筆算しようとせず、脳の暗算に任せるんです。

そして無意識のうちに理にかなった暗算ができるように「クオリアからの行動直結回路を作る作業」を鍛えろ、と繰り返し述べているわけです。

 

これだけではまだ抽象的ですので次に進みましょう。

 

 

哲学と脳科学と作曲の態

 

音楽的なクオリア=石油に例えてみましょう。

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脳の機能は謎でも脳はその未知なる機能構造に基づいて石油を意識の上にあげてきている訳ですから、音楽家=石油採掘者兼産業主としては、その石油を用いて音楽制作を行うことが一番の産業です。石油が次から次へと溢れ噴き上げ湧いている状況において、その石油がどのようにして生まれたのか、どういう性質の石油なのか、元はどこから来たのか、などをじっと座って30年も考えているというわけにはいかないのです。彼は哲学者ではなく石油掘りであり、産業を作るのが仕事なのですから。

ゆえにクオリアが能動か受動の結果かは関係ない、と思い至りました。

  

同じメロディを聞いて違うクオリアを生む仕組みは解明されていません。しかしそれを扱うことはできるので、考えずにそれが自分なりに扱えるようになるよう目標(クオリアからの行動直結回路を作る作業)を設定する、というのが不定調性論の音楽の取り扱い方です。

この時その理由や根拠は「脳の暗算」に任せるんです。任せていい状態にするためには、日頃のインプットが重要だと思います。

おそらくトマトを食べると、そのトマトの情報も体の中に入り、無意識の中に情報として蓄積されると思うのです。だからトマトの栄養価が必要な時は、トマトを欲しがるようになる、というのが不定調性論的な脳の使い方です。

 

不定調性論は何らかの哲学や脳科学の機能に根拠を置いて作られた訳ではありませんがこうした情報から先に学んでも不定調性論はできなかったでしょう。

 

哲学は究極的には科学的事実ではなく「頭のいい人の考え」ですから、共感することはあっても、それが事実かどうかを探求することはしません。それなら自分の頭に浮かんできたことが事実かどうか探求します。同じことだからです。その過程で必ずその偉人たちに出会うでしょう。

 

副題の「脳の暗算」について述べましょう。

作曲している時、こっちではないか、あっちではないかと旋律を選択しなければならない時、大抵はとっさに判断します(能動)。そのとっさの判断の時に瞬間的に無数の発想やアイデアや気持ちなどが意識の海で沸き立っていると思います。それらを意図することはできません(受動)。そしてそれらの意識の海に、より高純度な、自分にとって理想的な思想やアイデアや気持ちを浮かびあがらせるためには、日頃のインプットが重要なのではないかと感じるようになりました(能動?受動?)。浮かび上がらせるものをコントロールできないのなら、日頃インプットする情報をコントロール(能動)しなければなりません。良い体験も悪い体験もしっかり体験できる自分にしていきたいなと感じる日々です(受動)。

こうした計算と自己問答を半分無意識で繰り返しながら作曲を進めます。体感としては「無心」です。その状態を「脳の暗算」と捉えています。変に意識のスイッチを押しません。

この段階では知識の有無、音楽理論の有無は関係ありませんが、作ってる最中に「ここは転調すべき」「ここの声部は反行」などと直感的な指示が頭の中に浮かぶ、という意味では普段の音楽理論の学習は絶対的有利を引き起こします。そのためのインプットですが、作曲しているときは、これらの情報を考えるのではなく、ぽっと浮かぶようにするために「クオリアからの行動直結回路を作る作業」を普段から行います。

小品を作って鍛えたりしながら。

これも私の体感なのかもしれませんが、脳は暗算させて答えをポイ!と投げてもらう役目にしてあげたほうが今自分が得たい正解に近いものをくれるなぁ、と思っています。

どうでしょうか。

だからこのスピード感でほとんど瞬間的に判断してやって行くためには概念はいらないんです。むしろ概念のキュレーションである「クオリア」を感じる力を鍛えたほうが良いのかな、という意味でこういう副題を付けさせていただきました。

 

 

 

 

人間的自由の問題

『〈する〉と〈させる〉の境界、あるいは人間的自由の問題』

という哲学の國分功一郎先生の文章を次に拝読しました。

 

抜粋します。

よく皆さんに「謝ったことはありますか」と聞くのですが、謝ると言うのはじつはけっこう難しいことです。たとえば、「今日は遅刻してすみませんでした」と言っただけではダメです。口に出して言うことは大事ですが、こころのなかに「私が悪かった」という気持ちが現れてこなければ、相手の要求に応えることができません。(中略)逆の立場に立ってみるとよくわかります。相手が「悪かった」「謝ります」「反省しています」と述べたとしても、相手を簡単に許すことができません。相手の心のなかにそうした気持ちの現われを感じとれたときに、初めて、僕らは「許そう」という気持ちが現われるのを感じる。(中略)

また謝罪を強制するというのも無理なことですね。「お前、謝れよ」と言って相手に謝らせたとしても、謝罪の気持ちがこころに現れていなければとても許せるものではない。(中略)

やろうと思ってできるわけではない。やらせることもできない。謝るというのはつまり、能動でも受動でもないということになります。(中略)

 

これもよく出す例ですが、人を好きになることは果たして能動なのか受動なのか。すぐわかると思いますが、惚れるというのは能動でも受動でもありませんね。「あいつのことを好きになろう」と思っても好きになれないし、「あいつのことを好きになれよ」と強制されても好きにはなれません。

このように説明していただかなければ考えることはなかったでしょう。

これまで述べてきたことはこの文章に凝縮されていることから述べたものとも言えます。

 

現実社会での問題を考えてみました。

水着の女性がいたから、欲情して殺した、という時、欲情をさせられたのは水着のせいであり、自分だけが能動的に殺したのではないという理屈も成り立ちます。

しかし社会には刷り込まれた倫理というものがありますから、殺人者に対してこの理屈を認めることは倫理的にも法的にもありえません。

 

國分先生は「責任」という言葉を出して、現代社会に呼応させている点に感銘を受けました。それをここで応用して考えてみました。

たとえ自分の意思で殺したのではなくても、そこに「責任」を持つ義務を負う、ということが組織社会で生きていく一つのルールになっている、と理解しました。これでモヤモヤは晴れます、諦めもつきます、前にも進めます。そして逆にこれが能動と受動への信仰になり、中動態に赦しを求める思想にまた回帰する流れまで見えます。

自分で手を下したか、下していないかだけが問題であり、受動か能動か、自分の意思かそうでないかなど関係ありません。少なくとも殺された女性の家族からしたら。

そういう倫理を確立しておかないと社会をコントロールできない、と先人は知っていたのでしょう。

宇宙が理不尽なのではなく、倫理を用いて管理する社会を運営しているがために理不尽が生まれてるのではないでしょうか。

倫理もそういう意味では、良い面も悪い面もあります。

 

水着を着ていた女性はもう死んでしまったので、その責任を水着を着ていた女性の家族が持つ、水着メーカーもその責任を持つというようなことまでしていたら社会が混乱します。

私はそういう意味では「責任」という概念を作り上げた社会は、賢いな、と感じます。ずる賢さすら感じます。

本当に水着を着ていた女性に罪はないのか、となるとこれを考えるためにはひどく労力が要ります。倫理のせいですね。

 

そういう意味で責任というのは、社会を円滑に回すための"必要悪"とも言える概念かなと思います。

そもそも人を殺すか、殺さないかということを定めた自然法則はありません。殺すことは可能です。その代わり組織社会では責任とセットです。だから殺されないように、殺させられないように、殺さないように、戦わなければならないんです。社会とも自分とも他人とも。

 

 

音楽で考えてみましょう。

脳内で起きる情報処理の問題を本人の能動としない、としましょう。少しでも誰かの音楽に影響を受けて作られたと脳内数値が検知した作品は、脳科学数値上完全なオリジナル作品とは言えません。法律上で言えば盗作ですから、世の中に発表されるすべての音楽において、その作曲家の脳内処理過程の調査報告書を提出させなければ、その音楽が盗作かどうかを判断できない、となってしまいます。

影響を受けたメロディの一部のメロディーを上手に改変して、盗作だと思われないようにしても頭の上の「人の真似しましたセンサー」が真っ赤なランプが遠くまで見えるように灯ったら社会はどうなるでしょうか。たまたま似てないように作ったけど脳の中で、売れたい欲求、真似して楽して作ってやろうという欲求に満ち溢れていることがバレてしまったら。

 

しかしこの問題も「責任」を持たせることで解決します。

自分の意思で自信を持って発表するという責任を音楽家が持ち、盗作と判断された場合の責任も音楽家が引き受ければ、この問題の波及はそこで止まるからです。

しかし現実は

「売れなければアーティストの責任」

「アーティストが売れなければ担当者の責任」

「担当者が仕事ができなければ会社の責任」

まるでウイルスが血管を通って体全体に広がるかのような「責任の感染」です。國分先生の言う意志への信仰、とはまさにこの恐怖の裏返しです。

自由意志社会に見えて、実は責任恐怖社会だった、

とも言えます。

 

 
 
機能和声論的自由と不定調性論的自由

抜本的な解決は隕石が降ってくるしかないのでそれは考えるのはやめましょう。

本来どんな音楽を作るのもその人の自由です。しかし、その自由は、機能和声論的な自由だと思います。慣例や伝統を重視し、流行に沿った、社会的規範に沿う音楽を作る事のみが許される自由だからです。そこで対極にある自由を作ってみました。

不定調性論的自由です。

まず自分の着想がなければなりません。真似したい、盗みたい、何でもいいですから、自分にとって何をしたいかという着想が必要です。音楽産業のように、一曲当たったら次の作品から全てスポンサー付きの依頼仕事になり金持ちにはなるが自分の自由はほとんどない、という状況とは真逆です。

不定調性論的自由での音楽制作は、そこから出来た作品が盗作であっても、完全に似た作品であっても、自分の着想によって作られた作品は、ただ「大変重要な自分の作品」となります。そこには倫理は介入できません。生命体の欲求の本質があるだけです。

それが社会的には盗作として見られるのであれば、社会にはその作品の発表を控える、という責任を稼働させれば良いだけです。これが社会で生きるための責任です。決して盗作を作ってはいけないという不自由を優先するのではありません。自己の責任を持てる者がこの社会で生き残れる、というカタチなだけです。

私自身が日々ちゃんと責任を持てているのか、自信がないのですが。

 

  

マズローの五段階欲求図と不定調性論

(出典自己実現理論 - Wikipedia

私は音楽を行う行為を「平和な時にだけ許される特権」みたいに思いたくありません。

確かに東日本大震災の時、自分は無力でした。音楽的知識や素養が今この時の救済に役に立たないことを思い知りました。

しかし復興に人の感情を揺り動かすことは最も重要とも学びました。

だから難しい音楽理論のままにしておくのではなく、その先に抽出されたスキルが、いつでもどんな欲求の段階でも、人とともに歌が歌える音楽方法論として吸収発揮できる存在にしたいという思いがあります。

マズローの図のいう最低限の欲求水準になった時でも、意義のある音楽論を持ちたいのです。歌だけで、バケツの裏を叩くだけでも人と交流し合える感覚、感性でありたいと思っています。そういうことが発動できる方法論としておきたいのです。

そして平時、DAWで作る音楽もその延長線でありたいと思っています。

 

 

そんなふうに脳には暗算してほしいと自分の脳に願っています。

それゆえに能動であるか、受動であるかと言う区別をつけないことはもちろん、中動態の定義もせず、超能動態的に「その時、どう思える人間か」「どう行動できる人間か」をしっかり打ちだせる音楽方法論を発信してまいりたいと思っています。

 

 

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