中動態という概念を教わり、脳科学と不定調性論周辺についてまとめたいなと感じ記事にしました。
クオリアについての注記はこちら
ご紹介いただいたのがこちらの記事です(削除された模様)。引用します。
例えば私たちが林道を歩いていて、ふと顔を上げると、そこに山があったとします。そのとき、「私は山を見た」というべきでしょうか、それとも「山が見えた」というべきでしょうか。意志を持って、つまり山を見ようと思って顔を上げたのなら、「山を見た」という方がしっくりくるのでしょうが、何気なく顔を上げたらそこにたまたま山があったのなら、「山が見えた」という方がぴったりでしょう。これを文法の「態」にあてはめてみると、「山を見た」という場合、これは私たちの能動的な行為だとはっきり言えますから「能動態」だと判断できます。しかし「山が見えた」という場合、私たちの能動的な行為だとは言い難い…、かといって受動的である、つまり私たちは「受け身」の立場であった、とはっきり言うことも出来ません。私たちは誰かに首をつかまれて、むりやり顔を上げさせられて山を見た、というわけではありませんし、もちろん、山が動いて私たちの目の前に立ちはだかった、というわけでもありません。能動的だとは言えないものの受動的でもない、そういう行為を語るときに、能動態と受動態のふたつの「態」では足りないのです。森田はそれを、次のように説明します。
これに対して「見る」と区別される「見える」という語によってわかりやすくなるのは、主体―客体、能動―受動を超えた自然な展開、おのずからの成り行き、自然発生性・自発性である。
(『芸術の中動態』森田亜紀 p10)
「見える」という日本語の動詞だけでなく、インド=ヨーロッパ語の中動態という第三の態を足掛かりとすることで、西洋思想の文脈と手を切らずに、これまで捉えにくかった何かを考えることができるのではないか。
(『芸術の中動態』森田亜紀 p12)
誰かの意志によらず自然発生的に見えたこと、意外なことに、このようなよくある行為を適切に語る「態」が、いまの文法の用語ではない(ような)のです。そこで、かつてあった「中動態」という用語、概念が注目されているわけです。
この中動態、という概念が生まれた時代(8000年前には概念はあった?)には人の脳の様々な機能は当然よく知られていませんでした。
下記に慶應、前野先生の意識についての有名な動画をまたご紹介します。
とてもわかりやすい動画です。
決断する何秒か前に決断している、という話や、分離脳患者の、右耳で聞いたことと左耳で聞いた話がリンクしていない、という話はびっくりです(33分ぐらいからご覧ください)。
クオリアについても触れられています。
コメントも混乱しており、低評価も多めですが265万回再生されています(20.8.7)。
なお、エハン氏の下記対談動画でも注釈が出てます。17:30頃からです。前野先生が「意識」とくくっているものは、現象的意識とメタ意識を混同している、という指摘です(前野先生動画とは関係ありません)。簡単に言えば、何かを感じていることを「分かっている」状態と、「分かっていない」状態の意識の概念を分けるわけです。決断した、という電気信号と、その決断を認識したという状態。「決断」はすでに行われ、「それを経験し自分に報告する」という二つの意識があるわけです。もう難しいですね。
前野先生は、意識とはエピソード記憶をするために存在する、としています。エピソード記憶とは「昨日のカレーは美味しかった、だからまた食べよう」という自分の生存にとって有意義だと感じる情報を記憶するためのシステムが意識だ、とする前野先生の説です。意識は受動的だ、としてます。
実際には自分が意思するよりも先に様々なことが脳の中では起きている、というわけです。
中動態の概念とは、意識に対する先人が発想した、ヒトの脳機能に対する先見ではないか、と感じました。本来は自分が意思しているのではなく、潜在意識から上がってくる情報をピックアップして編纂しているだけ、となります。前野先生は
「意識は、自分が社長だと思っている社誌編纂室長だ」とご自身の著書の読者のコメントをもじって述べています。
これを「心の地動説、心の天動説」としています。
意識は中心にあるようで実は一つのセクションでしかない、的に述べています。低評価が増えるわけです。ほとんどすべての人はそう思ってこなかったからでしょうから。
「能動」も意識の上での感じ方の感覚を言い表したものであり、錯覚的知覚かもしれない、と思えるかどうかでしょう。
もし"能動ではない"と定義してしまうと、
「君が好きだ!」
という歌詞を作ることはできません。そう思ったのは自分ではなく、意識がそれを感知しただけで、蚊に刺されたところが痒くなるように、意識からポッと上がってきたものを拾っただけ、となります。自分が作った感情ではなく「この感覚を落とした主がどこかにいる」的な発想です。だから歌詞も変わります。
「無意識の信号が君を好きになれ、というので自分は好きになっていると思っているらしいからそれを意思して発言する」がより正しい表現になってしまうからです。
しかしそれなら、人を好きになる、というのは受動態的ではないでしょうか?
それとも人は「人を好きになろうと思って生きているから、好みのタイプに出会うと好きになれる」ということでしょうか。随分遠回りな能動態です。
そこで不定調性論では、「超能動態」という考え方を書いておきます。
つまり、「人を好きになろうと思って生きているから、好みのタイプに出会うと好きになる」という行為が成り立つには、こうした深い遺伝子の動機、生命としての能動的意欲がなければ人を好きになることはできないのではないか」
とするのです。
これがあることで「君が好きだ!」が能動的である、という話を進められるのではないでしょうか?
あとはイメージ能力です。
手の影でつくる影絵パフォーマンスを、それは手が作っているから事実ではない、とは考えない、という意味です。
クオリアの登場です。
そうした上で最終判断を音楽理論の教科書に依存するのではなく、自分の脳に蓄積された情報の海が作る影絵が映し出す姿を判断の素にすると決めた方法論です。
しかし脳の進化に伴い芸術もすでに進化しています。
「無意識の信号が君を好きになれ、というので自分は好きになっていると思っているらしいからそれを意思して発言する」
というような歌詞はすでにボカロ文化では存在していると思います。
このブログで取り扱っている米津玄師氏の歌詞もこうした発想に近いと感じます。
自我を見つめるのではなく、自我の向こう側で意思する存在を見つめているようです。
この前野先生の受動意識仮説は様々な哲学者との対比や、東洋思想との対比がなされていて賛否両論なのだそうです。
⇨⇨
⇨⇨⇨
この順番に読むと良いそうです。
不定調性論は、これらの議論には参加せず(参加していると曲を作る時間はない)、しかし関心を持って扱うために(意識への開拓精神に関心が持てないと創作時に音楽理論や先例しか頼るものがなく新しいものは生まれない)、音楽理論ではなく、学習した結果自分の中に浮かぶ直感(たいていは本人すら未知の決断をしてくれる=オリジナリティを作る秘訣)を頼りに音楽を制作することを決める、という発想をします。
脳の機能、概念、構造への理解は行わず、ありありと感じる自分の意識の表出システムをそのまま使うわけです。
「赤いな」と感じたら、それを許す、そしてそこから生まれる様々なクオリアを許し、自分の意識の海を勇気を持って見つめます。そしてそこから自分を理解し、それを音に置き換えられるように訓練するのが不定調性論的音楽方法論です。
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よって先のブログ引用例も「超能動態」で考えることができます。
意識のどこかに「山を見たい」という思いが普段から潜んでいた場合、人はなんとなしに散歩に出かけ、なんとなしに山が目に入る、という状況を作るのではないか?という考え方です。
この場合、具体的に山が見たいと思っていなくても、山を見ることで何かが同様に満たされるという経験を求めて、その行動に出ているという可能性も考えられます。
これは強く意識して行動している(メタ意識)わけではありませんから、いわゆる中動態と言えなくもないですが、潜在意識で感じていること(現象的意識)も考慮したら、これは無意識のうちの能動的な行為である、と言えてしまう可能性があるわけです。
前野先生の動画でも「人は決断できることは早い段階に決断している」と述べています。動画によれば内容によっては4−8秒前に人は決断しているのだとか。
しかし脳機能の実際を理解しない人にとっては、自分の実感が全てですから(クオリア感覚)、いや、それはありえない、と反論することでしょう。自分の認識、意識がすでにそう感じるようにシステムされている、ということなど認められようはずがありません。まさに天動説。
だから中動態への理解で大切なのは、偶然に山を見たという行為になんらかの情感を覚えたのなら、「ひょっとしてこれは自分が潜在的にしたかった行為だったのかな?」と立ち止まって考えることです。それによってまるで自分の意識の状態をチェックするような感覚を持てるからです。
中動態とは、自分の意思の介在が曖昧な時にチェックするべき状態であるということはできないでしょうか
そうすることで自分に見えない自分=潜在意識との対話もはかれると思います。
それに伴い先のブログではアート表現についても触れています。
私が絵を描いているとき、描く前に想定していた方向性とはかなり違った形で仕上がってしまうことが、しばしば起こってしまいます。しばしば、というよりほとんど毎回のように起こっている、といった方がよいのかもしれません。それは私の技術的な「拙さ」によるものだ、と言ってしまえばそれまでですが、始末の悪いことに結果的にそれがかえってよかった、と思えることもあるのです。才能のある人ならば、「神がかり」とか、「天から何か降りてきたような感じ」とか言うのでしょうが、私の場合、それほど素晴らしいものではありません。しかし、それでも「拙さ」という言葉で捨てきれないものがあることは確かです。そのように、かなりの頻度で私の絵は成り行き任せにできてしまうのですが、一般的にはそれはまずいことでしょう。絵を描くときには、しっかりと自分の意志を持って描かなければなりませんし、できた作品に対してはきっちりと責任を取らなければならない、というのは当然のことです。それを頭ではわかっているのですが、気持ちの中のどこかで違和を感じてしまうのです。「意志」や「責任」という言葉できっちりと語れないこと、それを別の観点から語ることで自分の表現にフィットする言葉が生まれるのではないか、と『中動態の世界』を読んだときに思ったのです。
「描く前に想定していた方向性とはかなり違った形で仕上がってしまうこと」
これは音楽でもよくあります。上手い人になると、それを口にしません。自らがそんなゆるい方法で表現などしない、と固く信じている自信家が多いからです。
普通の人は、これに慣れる必要があります。慣れて慣れて自覚してコントロールできるまでこの意識の操作ミスを経験しないと「自分の思考パターン」が見えないからです。
偉そうなことを私も言える立場ではありませんが、音楽を作っていると潜在意識が沸騰したお湯のように様々な情報を沸き立たせて意識の上に上げてくると、一番跳ねた情報の泡が気になり、意識が汲み取ってしまい、そちらの方向に意識が向い、作風が変わってしまうわけです。これもやっていると慣れます。
慣れてくると「あ、また自分脱線するぞ」という感覚も覚えます。
はっきりわかります。その時は意識が急降下して何かを拾いに行っている時ですから、それをやめて深呼吸します。意識は簡単に醒めます。
そして過去の経験を思い出します。「ああ、このままいくとまたドツボにハマるぞ」と。そうやって本来の方向に正します。こうした意識の使い方を作曲しながら学んでいきます。不定調性論はそうした意識の作り出す様々なクオリアを自在に扱うために音楽理論を一旦更地にして再構成しています。そこに「こうあるべき」という「伝統音楽理論」の棚があると作品はめちゃくちゃになるからです。
その棚には「クオリアの感覚を冷静に分析する水晶玉」が置いてあり、それを改めて見つめることで、自分が何をしたいかわかる、という寸法です。
例えば歌ものの音楽を作る時はメロディや歌詞から作るときとコード進行(和音の連なり)や伴奏から作るときの二種類があります。メロディから作るときはいわば能動的ですが、コード進行から作るときは、そのコード進行からなんらかのイメージを得て、インスピレーションを得てメロディをひねり出す、というある意味受動的な作曲方法です。
従来の音楽和声論は前者、不定調性論は後者です。複雑な和声を聴きながらインスピレーションを広げることでクオリアを鍛える、というやり方だからです。
これらを混ぜ合わせて音楽は作られます(バッハやモーツァルトみたいな人以外はそうしないとできません)。
メロディから作り、行き詰ったりマンネリ化するのでそこからいくつか可能性のあるコード進行を付け足していくと、メロディがうまい具合に展開していきます。
これを繰り返していくと「集中力の切り替え」ができます。メロディが煮詰まったら、コードを弾き、別方面のインスピレーションを用い、また興が乗ってきたらメロから作るなど。どちらがいいとか悪いはありません。作品ができれば良いわけです。
これも慣れないと途中で作風が変わります。好きなコード進行に流れてしまって、なんだか違う曲になってしまう、という経験は誰でもするものです。なんどもそれを繰り返して自分の思考癖を知り、コントロール術を学びます。
「一般的にはそれはまずいことでしょう。絵を描くときには、しっかりと自分の意志を持って描かなければなりませんし、できた作品に対してはきっちりと責任を取らなければならない、というのは当然のことです。」
これを「恥じなくていいよ」と不定調性論は言います。
また逆にコントロールしないで完全即興で音楽を作る方法もあります。
これを行うアーティストは「俺にとっての表現はこれだ」と覚悟しています。
決して適当にやってればいいから楽だ、などと思っているわけではありません。
それで初めて自分が喜ぶ作品に仕上がることを知ったからそれを用いているのだと思います。ある意味ではこの人は自分の脳のあり方を理解している人だと思います。これで食べていくことはできないのにそれをするのですからよっぽどです笑(自分)。
この思考理解によって社会的に素晴らしい作品ができるかどうかはともかく、自分が意志する作品は作れるようになります。
先のブログで引用されている森田亜紀さんの言葉で
つくり手の作者であることは、出来上がった作品から事後的に成立する
ということが書かれています。
問題は作っている過程で脳がどう動いた結果、自分がどう判断していったか、だけが重要で、それが結果的に作品に全て過程までも封入されるので出来上がった作品が自分のもの以外のものであろうはずがありません。それに対して責任を取れる人だけがアーティストになれるのだと思います。
自分で産んだ子を母親が「事後的に私は母になる」とは感じないはずです。ずっとお腹の中にいた過程の中で、自分が母親であることをオリジナルの概念で形成するからです。
ただ、会社に作らされた作品、自分は止めたのにクライアントが変更を禁じた作品などについては我々も複雑な思いを抱くことがあります。
今はそのコンセプトが人の意識では理解できない瞬間的な感覚や、潜在意識的な感覚で与えられることもあると思います。
これはハードコアバンド、ナパームデスの「You Suffer」1.316秒の作品です。
ギネスにも登録されています。
この曲のコンセプトはなんでしょう。または何を感じながら演奏すべきでしょう。
そう考えると難しいと思います。"ノンコンセプチャルコンセプト"を実感しながらその先に行く必要性を感じている人がすでにいます。
この段階になると、言語化できない、感情化できない、もっと違う感覚があることに気がつきます。そして現代はそれを扱おうとしているのではないか、と思います。
こうしたことを"理解"するためには、哲学、心理学、脳科学あらゆるジャンルを導入しないとその答えが出ません。音楽家も仕事をしながらこれに取り組むことはなかなか難しいです。
そこで不定調性論でも、「そうしたいと思ったからそうした」という感覚をすべての中心におきます。
まだまだ私たちは自分が感じることすら上手に受け止められないようです。
音楽的才能とは、これらの幻想を"より現実的に"表現創造できる能力だと思います。幻想を現実化するという矛盾への挑戦に違和感のない人だけがそれができます。
音楽など何の役にも立たないと思っている人に音楽創作は難しいでしょう。
この記事も追って少しずつ修正します。
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