音楽教室運営奮闘記

不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

複層のアフォーダンスと不定調性論的思考

何冊か読ませていただく本の中でピンとくる概念、用語、というのがあります。

本を丸ごとだと理解が追いつかないのですが、概念一つだけならわかるような気がしますので折を見て一つ一つ書いています。

 

アフォーダンスとは

"環境が動物に対して与える「意味」"だそうです。

アフォーダンス - Wikipedia

アフォーダンスとは - コトバンク

f:id:terraxart:20201004091814p:plain

森正洋デザイン研究所 (Mori Masahiro Design Studio, LLC.), CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18126030による

人はコップの取っ手(環境の情報)を見ると、それは「持つ」という行為(意味)を暗に感じます。

だからこのコップの画像を見て「花火」をイメージできる人は表現者です。

私はこういう画像を見ると低音のピアノワルツが浮かんだりするので微才ながら音楽をやる状況になっています。

 

旋律の翻訳

f:id:terraxart:20201004092550p:plain

今ここに一つのフレーズがあります。
音楽をやる人は、このフレーズを聞くとなんらかの印象=クオリアを持ちます。

私は「眠気」とか「静寂」とかですが、ヒット曲を作る人はもっと聴衆が意識するような概念を感じるからヒット曲が作れるのでしょうか。

この音現象は音楽家にとって「環境の情報」です。

ここから「意味」を感じることができます。だから

旋律=意味

が成り立つ人は作曲をお勧めします。

wikiにも

アフォーダンスは、物をどう取り扱ったらよいかについての強い手がかりを示してくれる。

 とありました。

demoを聴いた時「これは売れる」の意味を感じるのが敏腕プロデューサーでしょう。

 

風景の翻訳

f:id:terraxart:20201004091814p:plain

先ほど書いたように

旋律=意味

ですから、当然

画像⇨旋律

につながります。二段階の翻訳のようです。

ただ私が「音楽的なクオリア」と言っているのは、

情報は十分に言語に翻訳しきれない

旋律は十分に意味に変換しきれない

と思っているからです。すなわち

画像⇨(意味)⇨旋律

と「意味」の段階を飛び越えて表現した方が自分には適切(楽)と思っている、いうのがより正確な表現です。

いかに優れた作曲家でも「その人ですら言語化できない風景」はやはりあるわけで「音楽的なクオリア」の次元は人それぞれ存在するのだ、と思います。

 

意味を見出す能力

f:id:terraxart:20201004094520j:plain

この絵を見て旋律が浮かぶ人は作曲ができます。

音楽は楽譜を読む、サブスクを聞くだけではありません。

楽譜教育/音楽分析は十分存在するので、不定調性論は「音楽的なクオリアを鍛える」ことに特化しています。

しかしそれには、

「もしあなたが音楽を聴いて風景を感じるなら」

そのクオリアは鍛えられる、という条件があります。

 

音楽教育は楽譜の読み方、楽器の弾き方を強制されます。

しかし本人にとってみれば、楽譜を読む前に、楽器を持つ前に、「自分が音楽に喜びを感じるなら」「その喜びを自分でも作り上げたいと思っているなら」という条件が揃った上で、楽譜を読みたい、楽器を練習したい、と思考したい、と思いたいでしょう。

子供にはなかなか許されないことです。自分が意味を感じたことを十分に大人に伝えられないからです。

音楽英才教育で大切なのは、その子が音楽に「意味」を感じているか、何かを感じているそぶりを見せているか、です。その「そぶり」がやがては音楽的表現欲求になり作品になるからです。その兆候が何もないうちは音楽を教えても苦痛でしょう。

問答無用で社会のたしなみを叩き込むのではなく、その人間が現状で何に意味を見出そうとしているかを大人が察知し、その分野を通して社会のたしなみを教える、となってほしいものです

 

 

アフォーダンスの先へ

世の中が一つの観念だけで解釈されることはありません。

このアフォーダンスという考え方は、私に画像の音楽翻訳行為の意味や脳内構造についてヒントを教えてくれました。

なんで画像から音楽を作るかと言えば、そこに旋律(意味=解釈ではなく言語にならない意味感=クオリア)を見出しているからです。

しかし私たちの脳は「アフォーダンスの概念」に括られているわけではありません。アフォーダンス概念そのものも、脳内環境の使い方をアフォードする概念です。

表現欲求が生まれる前には、アフォードする/される情報が必ずありますが、なぜそうなるのか、の思考の複層構造にとらわれると制作できません。

全てをくくるのが「インスピレーション」です。思考システムを超えて「これをやれ」と命令してくれます。これを鍛えたいものです。

 

音楽理論学習が終わると待っているのは学習前と同様、自己と向き合うことです。

学習前に自己と向き合うことから逃げて音楽理論の勉強に走った自分がいます。

だから学生さんにはもっと早い段階から「社会の適合によらず自分独自の意味を見出しても良いのだと思える自分」を確立していただきたいです。

 

概念を教わっても最後の最後は自分との戦いなので、勉強を主にするのではなく自己に向けたトライ&エラーを真ん中に置きたい、と考えています。

私自身が自己論を確立するのに時間をかけすぎてしまったことにコンプレックスを感じているので、同じような人が目の前にいるのなら手助けしたいなと思う次第です。

 

しかし、自己論、独自論が確立されてあると、外からの概念が来ても、自己論と照合し結果として自己をビルドアップできるのでその点は良いです。

その代わり自己論のほうが歪んでいると思えば直せる勇気が問われます。

自己論をただ通すだけ、というのは、その自己論に「他者を理解することにより自己を戒めるという要素が抜けている」といえます。

 

参考;アフォーダンス的概念も含めて様々な芸術表現感覚について広く紹介してくれてます。