CM7(9)-Dm7(9)-Em7(9)
本来ならフリジアンであるはずのEm7に9thは存在しません。しかしEm7というコード自体には9thは乗ります。コードの独立によって調性が希薄化している例です。私が最初に出会った例がジミ・ヘンドリックス(James Marshall Hendrix、1942-1970)の楽曲「Little Wing」のBメロにおいてこのIIIm7での9thの使用例です(きらりと宝石か涙が輝くような音として使用されている)。
最初は違和感を覚えても少しずつ意味を持って馴染んでくる、という自身の音楽的なクオリアの変化があるとそれが受け入れられ、自分の中で一つの心象、意味、ニュアンスを形作ります。
音と心象はそうした関係性があるので、理論的な齟齬や、世間一般における「誤り」とされる事例に対して、自分の「音楽的クオリア」だけは解放してバックドアを作っておくことで理論や伝統に縛られず、ご自身の感覚を真ん中に置けることでしょう。
また、下記のコード進行を見てください。
Dm7(♭5,9)-G7(♭9,13)-C#M7(#11)-CM7-B∇/C
本来なら解決しているコードをわざわざ解決していないコードに持っていく(CM7⇒B∇/C)わけですから従来の調的原則が肥大しています。
家に帰って一日を終えるのではなく、夜は庭でキャンプしたり、逆に一晩中仲間とパーティをして起きていたり、そういったイレギュラーなエンディング、「安心」「帰結」「解決」とは違う、心のどこかがワクワクするような若さ、無人さ、昂りを覚えるものです。
こうした不安定なコード進行も、人の複雑な心象が反映されて活用されるものだと思います。
それもまた広義の「帰結」であり、何か劇的な展開を予感させる主張を作り出す終止の方法もあるのでは?という発想にもつながりましょう。
先のB∇/Cというコードによる「帰結」などは、映画やアニメにおける「バッドエンド」と言われるような様々な脚本手法が採用されるように、音楽のエンディングのありようもまた進化してきたのでしょう。
調的概念の崩壊の発端の一つにブルース7thとの出会いがあります。
(一般的なブルース進行の簡略表記)
C7 |F7 |C7 |C7 |
F7 |F7 |C7 |C7 |
G7 |F7 |C7 |G7 |
この進行は極めて不定調性的で、同一タイプ和音の連鎖です。
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結果としてジャズが発展させた和声法は、単純にトライトーンを解決させることではなく、
ダイアトニックモード内➪調性論理外➪ダイアトニックモード内
というマクロな解決進行の概念を音楽の中で引き起こしたといえます。
そのためにドミナントコードで、きっちりとオルタードフレーズを弾かずともそのコード進行がドミナント進行と定義されるだけの理由を持っていれば「解決感」を感じることができるのです。
例えばG7-CM7におけるG7で、A♭7のミクソリディアンを弾いたとしても「オルタード感覚≒調から逸脱して解決を促すような混乱感覚」は生まれます。これは今示したダイアトニックモード論理外からのセンターコードへの解決といえるからです。
CM7-A7-Dm7-G7
におけるA7は二次ドミナントコードでありDm7への進行感を増してくれます。A7-Dm7の進行感はよく理解されているでしょう。しかしCM7-A7はどうでしょう。トニックコードはどこへでも進めるわけですが、私たちはこのCM7-A7という進行感も良く知っています。Am7にいくよりもずっと洒落た感じがしたものです。この進行感は一体何でしょう。
この進行を、
CM7-A7-G#M7
としたらどうでしょう。A7がなぜキーCにとどめる存在である、と最初から定義できるでしょう。
不安定から安定への進行感をこれだけ大事にした機能和声論がなぜ安定から不安定へのコード進行を安易に黙認していたのでしょうか(“それが必要だ”、という言い回しがされる)。安定を得るために不安定へと流れるのを見過ごす、というのは、まるで平和を得た気持ちを実感するためにわざと戦争をするようなもの、という見方も成り立つのではないでしょうか。
重要なのは、和声が流れる一つ一つが繰り出す雰囲気であり、安定で終止する必要も、そのために不安定に流れる必要もありません。ただ和声は流れそこに一つ一つのストーリーが生まれているに過ぎません。
またこのときA7ではなくE♭7でも同じことが言えます。
ではCM7-Em7(♭5) -A7-D7-G7だとしたらどうでしょう?また新しい進行感覚です。こうした「進行感の連鎖」こそ、和声進行の醍醐味であり、ジャズの進化、ポピュラー音楽の進化をもたらした、という結論になります。
CM7が響いたら、アイオニアンを弾く、というのはあくまで慣習であり、リディアンを弾いても良いわけです。
CM7 Am7 Dm7 G7 ⇒ CM7 A7 Dm7 G7
におけるAm7からA7への変化は次のDm7に帰着するセカンダリードミナントコードです。これはAm7と低音を同じにするA7を用いて、Dm7への進行感の色彩を変えようという試みです。
こうすることで、元のアイオニアンの集合は崩れ、結果メロディが和声によって変化しなくてはならない状況が発生します(もちろん旋律によってこうしたハーモナイズのみが行われる場合もあります)。
こうしてコード別のモード使用の方法論が確立され、音楽の解釈や表現を豊かに、また難解にしてきました。
コード進行がメロディから独立したように見えたわけです。
C#M7-CM7やF#7/B-CM7といったダイアトニックコード外和音(ここではCメジャースケール以外の構成音を持つ和音ことを指す)からの解決進行もこのコンセプトに当てはまります。ドミナントモーションという習慣が「肥大」することによって不定調性進行という考え方が生まれました。
たとえばキーがCメジャーであるとすると、
・Dm7-D7-CM7
・Dm7-Adim7-DM7-CM7
・Dm7-C#mM7-F#7-CM7….
このようなランダムなコード進行においても、センターコードとしてのCM7が作者の聴感上に確立されていれば、それは「キーが設定されている」こととほぼ同じ満足感を得られるわけで、それはすなわちその作曲家にとって、「発展された調性音楽感」と言えるわけです。
また、これらのコード構成音をG7の何らかのダイアトニック構成音によるテンションコードの断片と考えることもできるでしょうが、不定調性論においては「ドミナントの代理」という代理和音の考え方はせず、これらのダイアトニックコード外のコードはそれぞれ独自の「ダイアトニックモード論理外=アラウンドコード」の音集合として認識します。つまり機能和声論を重視しながらも別個のシステムでそれぞれの和声進行を考える、という意味です。決して(自分に刷り込まれた)伝統的和声などの手法を捨て去るわけではありません。
たとえば、
A∇/A♭-CM7
というようなコード進行があったとします。これは、
G7(♭9,9,#11,13) -CM7
と機能和声論では解釈可能です。しかし不定調性論ではこのような考え方はせず、あくまで両者は「別の響き、別の連鎖感を持つ」コード進行である、とします。
不定調性論において構成音が一音でも異なる場合は同一の和音とは呼びません。類似性や関係性を考えることはありますが、だからといって同じ意味・機能・文脈を持つ和音、とは考えません。
次の進行を弾いてみてください。
C7-E∇
C7-F#∇
C7-Am
C7-A♭m
いずれの進行を聴いても、当初の私にはいまいちピンときませんでした。これらのコード進行には機能和声論独自の「整合性」がありません。クオリアも断片的すぎて、少なくとも私の慣習的イメージの準備がその和声が流れている間に十分に生成できなかったのです。
では次のコード進行を見てください。
C7-CM7-C∇
C7-C7sus4-CM7sus4omit3-Csus4
C7-Cm7-Cm7(♭5) -Cm7(11) -(D∇/E)/C
C7-B∇/C
これらの進行ではヴォイスリーディングが秩序立って流れていると思います。先ほども説明したとおり、機能感の演出に替わり、それらの伝統的進行から得た経験で半音でのなだらかな流れを作ることによって緩やかな進行感を感じることができるようになったのです。
もしドミナントという敷居を取り払い、何が進行で、何が解決かを明らかにする必要が無いのであれば、新たな和声進行の形態論を考えていくしかありません。
これは機能和声論をより広範囲で俯瞰し、調という枠組みを越えて、平均律の数理にまでその枠組みを広げ、有機的に和声進行を取り扱えるようにすることを意味しています。
いよいよその進行感をまとめる時がきました。