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不定調性論からの展開紀行~音楽と教育と経営と健康と

9.参考文献抜粋資料6 (ユーミンレポート公開シリーズ)29

日本人の心の情景を変えたシンガーソングライター(改訂版)―研究レポート;ユーミン楽曲の和声分析と音楽的クオリアが紡ぐ作曲の手法―

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9.参考文献抜粋資料6

文献4;《『文藝春秋』2011年三月特大号より 『ユーミンと自立する女性の世紀』》  

 

(続き)

 八一年六月に発売されたユーミンの「守ってあげたい」は、新しい時代の中心にいながらも、大きな孤独を抱えていたOLたちの心に強く響いた。

 彼女たちの望みは、男性に「守ってあげたい」と言える力を持つ女性になることであり、男性から「守ってあげたい」と言ってもらえるような魅力ある女性になることだったからだ。

(中略)

 OLや女子大生の心を完全につかんだ名作「守ってあげたい」は七十万枚の大ヒットになり、アルバム「昨晩お会いしましょう」も五十万枚の大ヒットとなった。

 「歌詞を書くことは、作曲よりも多くのエネルギーを必要とします。消耗するんです。日本のポピュラー音楽の歴史に、ちゃんとした作詞家は両手で数えられるほどしかいない。日本語がリズムのあまりない言語だからでしょうね。特にロック、ポップスになってくると、日本語の持つ美しさを損なわずに、リズムを持たせて歌に乗せていくことはすごく難しい。俳句のように推敲を重ね、ダブル・ミーニング、トリプル・ミーニングを持たせることも必要。ポップスの一曲はあまりにも短いから」(松任谷由実)

(中略)

 いまや消費の中心にいるのはOLであり、OLの心を最も理解するアーティストは、他ならぬユーミンだった。

 企業がユーミンにタイアップを依頼するのは当然の成り行きだった。

 八七年にJR東海のCFで使用された「シンデレラ・エクスプレス」はその代表的な例であり、三菱自動車やキリンビールのために書き下ろした曲も多い。

 ユーミンがリゾート・コンサートを行った葉山マリーナ、逗子マリーナ、苗場プリンスホテルは、すべて西武系列の企業が所有していた。堤兄弟は歴史ある葉山マリーナを買収し、逗子の海を埋め立ててヨットハーバーとプール、地中海風のリゾート・マンションを建設した。

 ユーミンがそれらの企業に、消費文化の旗振り役として使われたことは確かだ。

 「そんなに贅沢なことをした訳ではないですよ。外国にスタジオを持ったり、自家用飛行機を買ったわけでもないし(笑)。自分の範囲での妥当な贅沢、楽しみでやってきたとは思ってるんだけど、でも『自分はバブリーな存在なのかな?ひょっとして』って思った時期も一瞬あった。『LOVE WARS』(八九年)の頃は、物質的なものを求めたピーク。いやいやそうじゃないぞ、とブレーキをかけ出したのが『天国のドア』(九O年)の頃。だからすごく抽象的なタイトルになったんです」

(松任谷由実)

(中略)

 ユーミンとは何かを手っ取り早く知りたければ、DVD「WINGS OF LIGHT」を観ればいい。一夜の夢を生み出すために、主役たるユーミンと演出家の松任谷正隆、そしてバンドやコーラスを含む大勢のスタッフたちが、どれほどの熱意とアイデアと時間と訓練、そして制作費を投入しているかを、はっきりと理解できるだろう。

 「バブリーとか、そういうこととはまったく違います。ファンタジーを作り出すためにはもの凄いエネルギーが必要。SF映画にお金がかかるみたいに。モノを作るためには、才能と時間とお金が不可欠で、それらをどのくらい高い位置で一致させるかということのピークは、確かにあのあたりにあったような気がします」(松任

谷正隆)

(中略)

 「外国人のスタッフに私の年間スケジュールの話をすると、ほとんどバカ扱いされる(笑)」(松任谷由実)

 一九九O年のユーミンは、三十六歳とは思えぬ力強い声で歌い、踊る毎日を続けていた。

 「ユーミンはとにかくタフ。ツアーの最終日には必ず打ち上げがあるんだけど二時間半のコンサートをやった後、スタッフに朝までつきあう。風邪を引いたという話は一度も聞いたことがない。ペルーのマチュピチュに一緒に行った時だって、マネージャーは高山病で寝込んでいるのにユーミンは元気に『向こうの丘まで行こうよ』って言う。こっちは下向くと吐きそうになるから、カメラを上に持ち上げてフィルムチェンジしているのに」(ユーミンの写真を撮り続けたカメラマンの三浦憲治)

 しかし、ユーミンというブランドは、あまりにも巨大になっていた。アルバム作りでもツアーにおいても、あらかじめ決められたスケジュールに添って、大勢の人々が働いているのだ。

(中略) 

 ユーミンは、九六年末に発売されるはずだった「Cowgirl Dreamin'」の進行スケジュールを守ることができなかったのである。

 「とにかく体が動かなかった。ショックを受けたというより、締めつけられる感じ、ただ、どこかで撤退しないと、とは思いましたよ。成果に対するこだわりで拡張していくしかないのが資本主義社会だけど、それを捨てないと、創作に自由になれない。一番大事なものをなくしてしまう」(松任谷由実)

(中略)

 「私にとって、アルバムを作ることはライフワークです。人のためじゃなくて、自分が気持ちいいと思う知性、センスの中でずっと作っていきたい。

 私はね、日本のピークはこれからくるんじゃないかなって思っているんです。もちろん物質的な右肩上がりという意味じゃなくて。

 店じまいするのは簡単だけど、弛むことなく、ずっとやり続けていれば、新しいジェネレーションに出会えるかもしれない。

 今の時代はどこも調子が悪いんだし、プロダクションをキープできる範囲で売れていればいい」(松任谷由実)

 

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