いつもこういう音楽が頭の中で鳴っています。
これまで無視してきた頭の中の雑音を曲にしてみました。機能和声に原理的な違和感を感じるのは、この脳の雑音のせいだと思います。
雑音なのか、声なのか。特に昔は風邪で熱にうなされた時とかひどかったです。
何か言っているんです。頭が。
これを音楽にしても機能和声と違うのだから、誰も認知してもらえません。
だから不定調性論が必要でした。
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不定調性論で作るピアノ小品、第三段。
方法論を作ったら、ちゃんと作品も作れないと、作曲技法って言わないもんね。
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しかし自曲解説は恥ずかしいので、レッスン用にコンセプトとして組み込んだポイントのみをピックアップします。
<最後は"自分"が曲をつくる>
作曲をしようとするとき私たちは先生方に学び、次のような欲求を知らず知らずのうちに「引き継ぎ」ます。ある人は、
"伝統的な音楽を作れるようになりたい"
そうして対位法や和声を学び相応の曲が作れるようになります。またある人は、
"ヒット曲を真似て自分もポピュラー曲を作れるようになりたい"
そうして、ポピュラー音楽理論を学び、それなりのことができるようになります。
ここまでできれば、人に教えることもできますし、それなりに仕事も得られますから、人生は十分謳歌できます。次の疑問にさえ気がつかなければ。
"では果たして、自分という人間は本当はどういう音楽表現を楽しみたかったのだろう"
しかしこれに気づく頃には、もう五感は平均律に犯され、トライトーンが解決するからケーデンスは解決するのだ、と考えるまでに洗脳されています。
しかしかすかに自分だけが持ち得ていた独自の感覚もまだ必ずどこかに残っています。好きな映画とか、好きな音楽とか、好きな人のタイプとか。
それが一つ大きなヒントになります。
不定調性論的な作曲法では、あなたがこれまで洗脳されていた音楽価値、社会的価値をオフにした状態でも残ってしまっている自分の感覚のみを駆使して「自分が生まれ持ってそもそもできていただであろう音楽表現」を作っていきます。
しかし具体的な例がないと分かりづらいので、これまで3曲ほど、まっさらな感覚のみを用いて作る、音楽表現を公開してきました。
自分なりの価値観=自身のクオリアによって作曲する方法、です。
以下は音楽理論を知ってる人向けの話になります、すみません。
V7⇨Iのケーデンスとスマホの話に例えてみましょう。
・V7がIに向かうことを知っている⇨これは学習成果です。スマホを初めて触ったあなたは使い方はおっかなびっくりだったでしょう。教科書でV7はIに向かうものだ、と初めて知った段階です。
・実際に様々な曲を演奏してみて、V7⇨Iは確かだと知ります。これが洗脳です。スマホの利便性を知り、スマホがないと社会生活ができない段階です。
・そのあと本当はスマホなどなくても人生は生きられることを知ります。V7をある和音に向かわせれば、人はそれについて「こう感じる」からここではそれを活用する、または裏切る、というランダムな演出ができるようになります。
・そしてその先、解決していることは幻であり、解決しないことも感じられる、他の音でも代用できる、それよりもっと別な情景や感覚、感情に代理できるようになる、となればもう知識は不要です。スマホなどなくてもプログラムを自分で書いて、いつでも脳内をネットに接続できる、みたいな。自分だけの端末を無から生み出せる状態。
あとは個人個人のポテンシャルなので、好きなところで止まれば良いと思います。
たまたま先生という立場上、諸々の段階を突き詰めている次第です。自分がそこまでの能力があるかどうかわかりません。
こうした曲作りの過程を経ると、自分が何者かが見えてきて「学習してきた音楽」との境界線がはっきりして区別して仕事ができます。生活のための音楽と、自己確立の音楽との差異の発見です。
「自分で見つけた自分自身」と向き合えるのはありがたいです。こうしなければならない、というものが何もない領域ですから、まるで遺伝子の洗浄、というか、体内の奥の未知の電源を入れるような面白さがあります。
今回の制作曲も
ただ音を並べて脈絡を作り繋いだだけ
です。音楽理論が生まれる前もこういう身勝手な曲が沢山あったことでしょう。
しかし自分が自然体で作れる音楽を特定することは有意義です。
これは音楽ではない、作曲技法ではない、と感じる方もおられるでしょう。でもそういう人は自分の音楽の作り方を忌めて推進すればよいだけの話です。
もちろん、打ち込みながら、ああこれはCm解釈の9と13が出てるなぁとか、VI7-Vっぽいなぁとか、フラット13thと13がダブったなあ、とか音楽理論的に何が起きてるかは随時わかっています。
明らかな禁則も前後の「音楽的脈絡=エゴ」を聞いて「ああ、こういう感じいいな」となれば採用します。「禁則」を発動させるかどうかは、自分で決めないといけないことを知ります。その批判や社会的責任を自分が負えば良いだけのことです。
最初の和音C7(M7,#9)。好きな響きです。これはどちらかというと、B△/C7的な和音で分数コード的に感じます。
「B/C7」と書いたとしても、明らかに二つの層があることを私は感じます。
テーブルの上に、ショートケーキとカレーうどんがあったら一緒に混ぜて食べるところは想像しないでしょう?それぞれ分けて考えるじゃないですか。その感覚に似ています。
私にとってchord nameシステムはファストフードです。練り物です。形骸化しすぎている、と感じます(しかし感覚的に音楽創作ができない段階においては大変有効だと感じます。自分もchord nameシステムによって感性を呼び覚まされた、と信じています。)。
こんなことを書くと偉そうですが、皆さんだってうどんとケーキは分けて考えられるはずです。ただ音楽ではそんな訓練必要ないからしていない、だけです。ここは訓練でどうにかなります。音楽美意識の半分は洗脳と思い込みです。思い込みが病気を生むように、音楽の場合、思い込みが「意味」を作ってくれます。
それが進むと、不協和音でも「意味」「イメージ」「質感」「クオリア」が自在に生まれ「あ、これはちょっと泣いてる和音だ」とかって見えてきます。
共感覚的知覚の個人差はあると思います。
この曲を聴いて、「あーはいはい」と意味がわかる人は、すでにそういう感覚がお持ちです。そういう方は一般的な音楽学習と並行して不定調性論的思考に触れていただくと、自分を追求できるとともに、仕事としての音楽と自己表現の音楽を区別して考えることができるようになると思います。
これは0;42ーごろ。Gm(10)。私にとってのドミナントコードです。
V7は確かに不安定かもしれませんが、自然倍音に類似した実に綺麗な和音=安定した何か(数理?)を持つ和音、という刷り込みができてしまっています。V7は慣れるとダサくなるんです。音楽かぶれです。これも上手に解決しましょう。
ここにG7を置いても私には「薄すぎ」ます。故にこういう響きになります。この和音を作る過程は、低音から一つ一つ乗せて行きながら再生しながらきめました。DAWっぽい作り方です。だから低音はgなんです。ドミナントっぽい和音を作ろうとした痕跡が残っています。
しかし、こういう欲望を持ったとして、ポピュラーミュージックで使えるでしょうか。こんなのを「新しい手法だ!」といっても、
「そういうのは家でやれ」
と言われるだけです(いまんとこね)。だけど家で友達に聴かせても「で?」と言われるだけですが笑。
そこで「不定調性論的思考によってできる音楽の形態」という方法論を作ったわけです。いわば「ジャンル」ですね。
ポピュラー音楽では簡単にできないかもしれませんが不定調性音楽ならできます。「枠組み」がないからです。ここに矛盾がありますが、拙論は矛盾と上手に付き合う方法論です。容赦せず個人の矛盾を容認できます。
そして優れたたくさんの若い方がこれを様々なメディアソング、アニメソング、映像音楽で商業的に活用されることを願っています。今までこの手の思考やアプローチにそれっぽい名前がなかっただけです。
こうした「自己の精神の直接的音楽化」を一つの音楽ジャンルだ、と思っていただければ幸いです。
リディアンクロマチックコンセプトやハーモロディクス的なアプローチも商業音楽とは分けて「実際にこういう表現と思考が作れる」として商業音楽理論や音楽教育理論とは分けて確立すれば、それらは表現の1ジャンルとしてもっとそれぞれの必要とされる音楽において研究されただろうと信じます。
当時ジャズ・フュージョンは時代を先取りしすぎて、これらの個人的手法を商業的に当時の形骸音楽手法に成り代わろうとしたために混沌を生みました。
ホールズワースのような音楽表現は、もっと別な活躍の仕方になってもよかったと思います。もっと教鞭をとって欲しかったです。「どう考えてそれを弾いたか」のノウハウを伝えていただきたかったです。作曲心理学、またはそれから展開する芸術心理学という学問ができるでしょう。
しかし当時はハーモロディクスにしても「ただ適当に弾いてるだけ」という扱い以上に概念を考えることができなかった時代でした。つまりタネは何もないと本人も周囲も思っていたのかもしれません。「感覚だよ、指の動くままに弾くのさ」では誰も受講料は払いません。
それなら神秘的に考えてもらっていた方がまだマシだ、という自虐的なところもあったのでしょうか。実際フリージャズは宗教チックになりがちです笑。いまやクラシックですが。
こういう音楽では食べてはいけません。だから仕事はもっと別な方向で行い、しっかりとそれらをこなした上で、余剰資金で自らの方法論紹介に投資を行えば良いと思います。
だから不定調性論もこれによってヒット曲が書ける、とか、これが新しい音楽表現だ、という言い方はしません。大衆性や伝統性とは相容れないものという立ち位置をしっかり作った上で活用場所を探しマーケティングしていくべきだと思います。
これは1;36頃、明らかなハ長調の雰囲気で始まります。そんなところにe♭音などいりません。この音は自分には「痒み」という表現です。ポピュラーミュージックにはいらない音でしょうが、世界には痒みがあります。
私は差別とか区別とかを自分勝手にしたりしなかったり判断してしまう弱い人間です。
そういう罪悪感の解放なのかもしれません。このe♭は次の繰り返しではdになり、痒みが涼しげに変わります。痒みがなくなる、、というのは快感です。逆を言えば、故にこの音は最初に必要である、となります。快感が起こればそれは解決であり、ケーデンスです。分断されたケーデンス、進行の合間に置かれたケーデンスの欠片。そんな概念、なんて言えばいいんでしょう。
無調楽曲や汎調性の曲想の特徴は、暗鬱、難解、不気味、鋭角が如実に出るという点です。難しい顔をしていなければなりません。これも理由があると思います。20世紀初頭、芸術はそうあるべきでしたし、軽妙で自堕落であることを許してもらえないような印象を感じます(こういう人もいましたが、虚無主義に持っていかれる)。しかし不定調性論的な音楽は別に常に芸術である必要はありません。
だから、なんか変なもの、でも良いわけです。作曲者がそれを求めているなら。。ただそれで他の音楽を凌駕してやろうとか、ポップスを駆逐してやろう、みたいな精神が入ったら、それは50年前の混沌に逆戻りさせようとする古い価値観です。
3;17頃。これは低音での濁りを作ります。ローインターバルリミットの解放です。良く使います。
濁りは、心の淀み、良心の呵責、猥雑な考え、です。人ですから誰しも心が濁る時があります。それがない西洋音楽は不気味でもあり、不自然でもあると同時に、究極の美の理想を表現した素晴らしい発明だとも思います。完璧な美人を目指したんでしょうか。基本的欲求です。でも考え方としては古いのかな、差別なのかな、と。綺麗じゃなくてもそばにいてくれるならいいよ、っていうのが庶民にはあって、それが芸術表現にも反映されてきたはず。
後半は前半の二つのテーマを繰り替えします。
微妙に高さや表現を変えています。
テーマだからと言って同じ必要はありません。同じ人間だから朝も夜も同じ考え、同じ人間でいるとは限りません。そういうことがポピュラー音楽に反映されているのか、そういう整頓された社会性に人が反映されてしまったのか。
最後の和音はクラスターです。これはDAWならではのヴェロシティ、タイミングを駆使して微妙に明るくも暗い和音を簡単につくることができます。機械にこうした細かい表現ができるなら、AIはやがて人の情感を超えた情感を作れると思います。
この作曲は、あなた自身が学んできたこと(不定調性論は様々な技法を創作のアイディアとして提示します、それらを纏めて用いると、こういう曲になります)全てを駆使しながら、ただ並べていくだけです。
並べた音が醸し出す意味を組み替え、想像して作っていくだけです。
テクニックがあるとしたら、前半にできたフレーズをテーマにして後半展開して貼り付けていくことで、楽曲が自分だけの形式を持つ、ということでしょうか。
もしこのやり方が自由にできなかったら、何らかの勉強が足りていないか、もっと別の欲求があるか、です。
こうして解説するのは、自分がこの方法論を教えていく運命にあるからです。教える必要がない立場の人は作品解説など必要ないと思います。
この辺は一人一人違うので、ご質問、お問い合わせいただければお答えいたします。
次はもっと自分の原風景な音を置いてみたいな、と思っています。
不定調性論の方法論概略
不定調性論の方法論的展開(2019) その1★★★★ - 音楽教室運営奮闘記
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