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音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

9.参考文献抜粋資料5 (ユーミンレポート公開シリーズ)28

日本人の心の情景を変えたシンガーソングライター(改訂版)―研究レポート;ユーミン楽曲の和声分析と音楽的クオリアが紡ぐ作曲の手法―

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9.参考文献抜粋資料5

文献4;《『文藝春秋』2011年三月特大号より 『ユーミンと自立する女性の世紀』》  

 「松田聖子の作詞を引き受けた時、僕には『売れて残したい』という野心があった。一過性のアイドル向けの曲ではなく、ちゃんとした音楽、普遍的な曲を作りたかった。先進的な部分と保守的な部分の両方があって初めて『売れて残るもの』ができる」(松本隆)(中略)

実質的なプロデューサーとして作曲者を決めるようになった松本隆が、満を持して起用したのが松任谷由実、ユーミンだった。

(中略)

 「ぼくの詩につりあう音楽性の高さを維持できる人は何人もいない。作曲家としてのユーミンは細野晴臣、筒美京平と並ぶ僕のベストスリー。細野さんや京平さんには頭で曲を作るところがあって、時には転調が強引すぎると感じる時もあるけど、ユーミンはごく自然に転調するから、僕が『ここで話を展開させたい』と思っているところに、凄くいいコード(和音)が入ってくる。たとえば「赤いスイートピー」の ”あなたって、手も握らない” と ”I WILL FOLLOW YOU” の間。ここがとてもいい感じでつながっているからこそ『手を握りたいけど、握れない』という躊躇とか、ものすごくたくさんんのことが一行で言える。作詞家は一行で百行くらいの内容を、しかも平易に言いたい。だから、それなりの曲がどうしても必要になる」(松本隆)

(中略)

 「松本さんからは『ライバルに曲を書かない? 女性ファンが欲しいんだよ』って言われました。私の曲がフェミニンかどうかはともかく、歌謡曲の作曲家が作るものとは違う匂いを発するだろう、と」(松任谷由実)

(中略)

 名曲「赤いスイートピー」以後、松田聖子はアイドルから大歌手への道を進んで行く。

 そして「渚のバルコニー」や「小麦色のマーメイド」「秘密の花園」「瞳はダイヤモンド」「Rock'n Rouge」「時間の国のアリス」といったシングルA面ばかりでなく、「制服」「青いフォトグラフ」等のシングルB面やアルバム収録曲に至るまで、呉田軽穂作品のすべてが松田聖子の最も重要なレパートリーとなった。

 松任谷由実=ユーミンは、何よりもまず、類い希なる作曲家なのだ。

(中略)

 由実には二人の母親がいた。

 実母の荒井芳枝、そして家政婦の宮林秀子である。

(中略)

 宮林秀子は山形県出身。穏やかで優しい人格者だった。

 「母親は大正時代のぶっ飛んだモガ。赤い自転車がトレードマークで、近所でも評判だったと聞きました。小柄なひでちゃんはコロボックルみたいな人(笑)。近所や少し遠くの川原に散歩に行く時には、童謡を歌ってくれました。実家の左沢(あてらざわ)に里帰りする時には、実の子供同然の私を一緒に連れて行ってくれた。森羅万象に何かが宿っている、というアニミズムのような感覚は、ひでちゃんから無言のうちに教わったような気がする」(松任谷由実)

(中略)

 一九六六年四月、由実は、姉と同じ立教女学院に進学した。

 米国聖公会のプロテスタント宣教師が創立した立教女学院は東京郊外の三鷹台にある中高一貫のミッションスクール、毎日礼拝の時間があり、日曜日の礼拝も義務づけている。

 司祭の説教は由実を退屈させたが、聖マーガレット礼拝堂で聞いたバッハの「トッカータとフーガ ニ短調 BWV五六五」には異常な衝撃を受けた。

 「パイプオルガンは教会全体が楽器。床の下にはパイプが通っているんです。バッハを聴いた瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。これは本当の話なんだけど、声までオルガンみたいになっちゃった。瞬間的に内耳の構造が変わったのかもしれない」(松任谷由実)

 

(中略)

 「ビートルズやローリング・ストーンズはもちろん、カンツォーネやミリアム・マケバの『パタパタ』みたいな民族音楽もあった。ゴー・ゴー・ガールが出てきて踊るんだけど、その中の何人かが後に(『黄色いサクランボ』の)ゴールデン・ハーフになったの」(松任谷由実)

 ビートポップスが紹介した数多くの曲のひとつにプロコル・ハルムの「青い影」がある。バッハの「G線上のアリア」のような下降するベースラインとハモンドオルガンの音色が美しい名曲だ。(中略)

 「これなら、私にもできるかもしれない」

 そう考えた荒井由実は、耳に残っている印象的なフレーズを片っ端からコピーすることから始めた。ピアノという鋭利なメスを使って曲の構造を解剖し、ヒット曲の秘密を解こうとしたのである。

 まもなく由実はグレゴリオ聖歌とボサノヴァの「ワンノート・サンバ」の間に共通点があることに気がついた。

 主旋律が同じ高さの音を続けているにもかかわらず、伴奏がコードを変えれば、まったく単調に聞こえないのである。

 「これだ!」

 由実は西洋音楽の根源の一端に触れた思いがした。

(中略)

 レコーディングの間に、ユーミンは松任谷正隆と交際するようになった。

 当時の松任谷正隆は慶應大学文学部の四年生。祖父はゴルフ場の設計者であり。父は横浜正金銀行(現・三菱東京UFJ銀行)の取締役。杉並区上高井戸にあるテニスコートつきの三百坪の家に育った生粋のお坊ちゃまだ。

 四歳からクラシック・ピアノを始め、幼稚舎から慶應に入った正隆は、耳で聞いたメロディーを即座にピアノで弾けるという特殊技能を持っていた。

 十四歳でバンド活動を始めると「レコードを聴かせればすぐに譜面に起こせる男」としてひっぱりダコになり、大学に進んで出場したコンテストにはダントツで優勝。審査員の加藤和彦(ザ・フォーク・クルセダーズ、サディスティック・ミカ・バンド)に認められ、吉田拓郎の「結婚しようよ」の録音やツアーにも参加した。

 一八Oセンチに近いハンサムな慶應ボーイのミュージシャンを女性が放っておくはずもなく、同時進行で二人、三人とつきあう正隆に友人たちがつけたあだ名は”マンタ”。艶福家という意味だ。

 だが、正隆は小学校の頃から現在でいうパニック障害と登校拒否症に苦しみ、電車に乗ることも団体行動も大の苦手だった。

 バンド活動を始めた動機は「不安だからこそ誰かと何かを一緒にやっていたい」という一種の逃避であり、好きでもない女生徒つきあうからこそ二股、三股になってしまう。音楽で食べていけると感じたことは一度もない。

 ユーミンに会った頃の松任谷正隆は、「大学卒業後の自分は、社会に適応できないままドロップアウトしてしまうのではないか」という恐怖心に苛まれていたのだ。

 「ギリギリのところで由実さんに出会った。簡単に言えば、僕は由実さんと由実さんの音楽に救ってもらった。ようやく自分のやりたい音楽が見つかって、砂漠の中でオアシスを見つけたような思いがした」(松任谷正隆)

 以後、ユーミンと正隆は公私ともに必要不可欠のパートナーとなっていく。

(中略)

 荒井由実のデビューアルバム「ひこうき雲」は、クラシックの作曲家からも賞賛された。オペラ「夕鶴」、童謡「ぞうさん」の作曲者であり、エッセイ集「パイプのけむり」でも著名な團伊玖磨は「ひこうき雲」を次のように評している。

 「はじめにきいたのは『紙ヒコーキ』『ひこうき雲』など。それからはいろいろ。それらを耳にして、非常に驚き、感激もしたのです。なぜならば、そこには、過去の日本の作曲家がやろうとしてできなかった、べたべたしたものからの飛躍があったからです」(「朝日新聞」七七年一月十一日夕刊)

(中略)

 「ドミソ(C)という和音がはっきりとしたオレンジ色だとしたら、そのうえにシというメジャーセブンの音を加えると、もっと白っぽい、桃色みたいな音になる。マイナー(短調)のラドミ(Am)が紫色だとしたら、ドミソの下にラをつけたラドミソ(Am7)というコードは、オレンジと紫が混ざりあって、微妙なバイオレットみたいな色になっていく。曲というのは、色彩が流れて行く経過がすべてと言ってもいいくらい。

自分の特徴は中間色にあると思います」(松任谷由実)

(中略) 

 日本語は抑揚に乏しく、だからこそ歌手はこぶしを利かせ、メロディーを崩して歌う。しかしユーミンはテンション(コード外の音)を有効に使い、コード進行に意外性を与えると共に、平板単調になりがちな日本語のメロディーラインにスピード感や浮遊感を出すことに成功した。

(中略) 

 しかし、音楽業界に衝撃を与えたデビューアルバム「ひこうき雲」も、荒井由実の最高傑作との呼び声も高いセカンドアルバム「MISSLIM」も、売れ行きはいたって低調だった。

 ユーミンの曲が持つ本質的な新しさを理解したのは少数の音楽ファンだけに過ぎず、大多数の人々にとって、ユーミンはよくあるシンガー・ソングライターのひとりに過ぎなかった。

 「デビュー当時の由実さんは、五輪真弓さんと比べられてました。同じテレビ番組に出て、同じようにピアノを弾いていたから。五輪さんは線が太くて歌がうまい。由実さんは線が細くて歌がヘタだったから、いつもコテンパンにやられて、思い切りヘコンで帰ってくる。コンサートもだんだんやりたくなくなってきて、ある時”学芸会みたいにしたい”と言い出した。確か(七四年十二月の)日本青年館でした」

(松任谷正隆)

 「舞台で歌うこと自体が恥ずかしくてしょうがなかったから、もう見世物にしちゃえと思って。ヴォーカルもごまかせるし(笑)。青年館のコンサートでは自転車に乗ってステージに出て来たんだけど、色気を出して客席に愛想を振りまいたものだから走るルートを間違えてギタリストが並べているエフェクター(音色を変える装置)を全部踏んじゃって、つなぎ直している間の三曲くらいはギターの音が全然出なかった(笑)」(松任谷由実)

 当時の女性シンガー・ソングライターのファッションは、黒のロングスカートに長いストレートヘア、というのが定番だった。

 そんな時代に、ユーミンは、天井からペーパー・ムーンに乗って網タイツ姿で下り、赤いマントを羽織り、白いジャンプスーツで飛び跳ねていたのだ。

 「コスプレですよね。ピンク・レディーの三年先を行ってた」(松任谷由実)

 「由実さんの大衆性、派手好きは母親の芳枝さんの影響でしょう。いろいろな演劇を見るのが好きな人だから」(松任谷正隆)

(中略)

 三畳一間の小さな下宿で同棲する男女を描いたかぐや姫の「神田川」からわずか五年後の一九七八年、東京の若者たちは、フィラやタッキーニのテニスウェアを着て、テニスラケットを持ち、男子学生は『POPEYE』、女子大生は『JJ』をバイブルにしていた。彼らは西麻布のビストロで食事をして、アンナミラーズで生クリームたっぷりの甘いケーキを食べ、深夜のイタリアン・トマトでおしゃべりを楽しむようになった。

 七八年八月、すでにユーミンは葉山マリーナで「サマーリゾート」コンサートをスタートさせている。十一月に発売された「流線形'80」には、「ロッヂで待つクリスマス」「真冬のサーファー」という、スキーとサーフィンを題材にした曲が含まれていた。

 若者たちの指向が消費に向かっていることを敏感に察したユーミンは、ついに本格的なリゾート・アルバム「SURF&SNOW」(八O年十二月)をリリースする。

 クリスマスのスタンダードナンバーとなった「恋人がサンタクロース」を含むこの「SURF&SNOW」は、四十万枚を売り上げる久々のヒット作となった。

 手応えを感じたユーミンは、翌八一年三月に苗場で「SURF&SNOW in 苗場」をスタートさせ、以後、夏の葉山マリーナ(八三年に逗子マリーナに変更)と冬の苗場スキー場で行われるリゾート・コンサートは恒例化し、松任谷由実=リゾート・ライフというイメージが定着していく。

 (後半に続く)

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