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音楽と教育と経営の雑記ブログ~不定調性論からの展開

M-Bankスティービー・ワンダー楽曲(コード進行)研究レポート公開シリーズ27★★★

スティービー・ワンダーの和声構造

~非視覚的クオリアを活用した作曲技法~

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非視覚的な世界を考える2

 

・不思議なことに自分が左目をまばたきして、まぶしい光の量を調節している夢を見たのです。夢では光が僕にあたっていました。僕はその光をまぶしいと感じ、ぱちぱちとまばたかせていました。夢はとてもリアルで、僕の記憶にはなかった光のまぶしさという感覚が初めて分かったような気がしました。実際に(一時期)見えていたのも左目だった(右目は摘出)と、後になって聞きました。記憶の奥底に、たった二ヶ月の見えていた時の感覚が眠っていたのかもしれません。

 

・僕には見えないのは日常ですが、「見る」こともごく普通のことになっています。それは普段、周りの人たちが目から入ってくる情報を伝えてくれるからです。それによって僕は想像をふくらませ、自分の経験の一部にもなっています。母が夕暮れの中で「うわあ、剛之、きれい。とってもきれいよ。遠くのものが夕焼けの中にシルエットで、あんなにくっきりと見えてる。」なんて言ってくれるので、なおさら感激度が増します。この時の感動を、僕は今でもはっきり思い出します。人の感動と、僕の感動できる心のタイミングが一致した時、そこに風景を感じ、郷愁を感じとることができたのでした。そんな時、僕も一緒に風景の美しさに喜び、一緒に「きれいだな」と思えるのです。

 

・ウイーンには黒歌鳥(アムセル)という、ウグイスに似た声で鳴く鳥がいます。とても表情豊かに、いろんな鳴き方をするのです。モーツァルトの曲に出てくるトリルのフレーズは、もしかしたらこの鳥の歌をスケッチしたものかもしれないとか、あっ、これはショパンの曲に出てくるな、とか、教えられることもありました。

 

・もし目が見えていたら、これほど努力をしなかったかもしれません。僕の中には結構遊びたがりのさぼりたがり屋が隠れているのですが、今ある境遇は、努力をするようにという天からのメッセージではないかと思っています。

梯剛之(ピアニスト)

 

   

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・私たちみんなが“見る”ということは、手でさわってみることであった。そして“目で見る”という事実は、いまだに知らないのである。今は自分からその言葉を口にはしているけど。

 

・クララ・シューマンの伝記映画を見ながら、母は映画に見入っているが、息子の孝禧-(正式な字体はf:id:terraxart:20190904091747p:plain)は早く帰ろうとせがむ。物語の場面場面に、主人公の心理をあらわそうとしては鳴る音楽は、その場面に応じて違うひびきをもって聞こえてしまう目明きの凡人の自分に、孝坊は物の成り立ちを知らせてくれるように思えた。目先の現象に惑わされず、物事の核心に触れて行く、その態度の大切さを教えられたと思った。

 

・できないのを目のせいにしていては、何もかもできなくなるではないか、と、何となくそう思えたからである。ただ三倍の努力が目に替るもの、と信じたかった。

 

・ちょうどまんまるい月が中空にかかり、それはそれは美しいので私は思わず、「まあ、きれいなお月さま」と声に出した。それを聞いた孝坊は、同じように顔を上に向け、「ほんとにきれいなお月さまねえ」と言ったのだ。美しいものを、美しと素直に見る心が、孝坊の心にも美しと見させたのだろう。私は今更のように、事物を、具象を、素直に率直に見る目と心を私に養いたまえと天に祈るのだった。

 

・私は、ライオン、熊、鹿、鷹などを次々と孝坊に両手でなでたりつまんだりさせながら説明してやったが、驚いたことには、生徒たちの中にも、そこにあると聞いても、たいして触れたい欲望を起こさない子供もいるのだ。視力のないものが、常により多く、より深くと、外に向かって伸びてゆく心を持つには、やはり外からの働きかけが必要なことを痛感し、特殊教育の場の盲学校といえど、先生方にばかり頼っていていいのかと疑問を持ったのだった。

 

・(辻吉之助=宝塚管弦楽団のコンサートマスターを務め、娘の辻久子、久保田良作、和波孝禧らを育てた。1957年、紺綬褒章受章。)

母「どうしてできないのでしょう。やり方がいけないのでしょうか。」

辻「そういう時があるんですよ、竹をみてごらんなさい、まっすぐたくましゅう伸びている竹を。ところどころに節がありますね、節のところは、ひときわ太くしっかりしてますやろ。勉強というものは竹の成長と同じやと思いますな。すーっと伸びる時があるかと思えば、いくらやっても伸びん、堂々めぐりの時があります。そんな時はな、いらいらしてはあきまへん。その節を作っている時ですのや。ぐるぐる回って基礎作りをして、しっかり節がでけたら、ふいとまた伸び出すもんです。怠けてはダメや。怠けていては節もでけへんし先へも伸びん。じっくり正しい方法で練習してたら、必ずまた伸びますんや。」

 

・学校の遠足は村山貯水池だった。芝生の中には緑がまじって、澄んだ空気を通して来る日ざしは暖かかった。孝坊がその時言ったのだ。「わァ、きれいだなァー」と。同じクラスの女の子が「何さ、見えないのに。わかるはずがないじゃない」「ボク、見えるよ」と言っている。この見える問答はおもしろいと思った。目だけがみることのできるものと信じてる彼女。肌で、心で感じとり、それを“見る”ことと考えている彼。ひろびろと開けた空気や、貯水池を渡って来るさわやかな風を敏感に感じ取って、「きれい」という。「見えるよ」と言いきることのできる孝坊の気持が、私にはとても尊いものに思えた。視力のない人は、見ることは絶対にできないのだろうか。

和波孝禧(ヴァイオリニスト)

 

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ハルさんの話には、風景に色がある。決してモノトーンの世界ではない。色で色を語るのではなく、視覚は閉ざされていても、他の感覚で本質を視て語る言葉に色を感じる。例えば春の匂い……春、物に触った感触の他の季節とのちがいなどイメージがはっきり残る。

驚いたのは、一つの建物が何歩で歩けるという適確な表現だ。一度で憶えないと生活できないからだ。

「目のみえるもんは壁の向こうが分からない。目のみえんもんは、壁がなくてずっとつながっている……」

 ハルさんの表現によると、目がみえないことは境界がないこと。朝も昼も夜もつながり、ここから向こうへは切れ目がない。時間も空間も永遠につながっている。全てが地を這うようにつながっている。隙間が一番怖いのだ。

下重 暁子 著 集英社文庫(2003) 鋼の女―最後の瞽女・小林ハルより

 

   

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「めくらは実際上のものを見る目を持たない。だからといって真実をみる目すらも持たないと思うのは考え違いだ。もしどちらが大切かっていわれたら、(中略)僕は真実を見る目の方を選ぶ。」

 

「めくらについてはめくらじゃなきゃわからないことがある。逆の場合でも同じだけど。(中略)とにかくめくらじゃない人がめくらについていろんなことをいう。(中略)僕のようなめくらは、その冷たい迷信という鏡の中で生まれてきた。(中略)鏡の中に閉じこめられている人生、そいつがめくらの気持さ。だけど僕はそういう人生を望まない。(中略)僕は必らずその迷信を打ち砕いて、いいかい、いつかその外側に出てやる。」

 

「ケンジも人間、スティーブも人間。どこも変わりゃしない、同じなのさ。」

 

「僕は多くの人に誤解されているのを知ってる。でも無理をして分かってもらおうって気もない。誤解されないですべての人に理解されてる人を捜すのも困難だってわかったからさ。神そのものだって誤解している人が多いんだから、僕が誤解されてもおかしくはないのさ。(中略)僕は自分の考えたとおりにやるさ。理解してもらう必要なんかないもの。(中略)僕は僕でやる。だから彼らも自分でやればいい。努力は誰でも平等に出来る能力のひとつだよ。」

 

「メクラだって人間だ。ちゃんと歩ける人だって上手く走れない人がいるじゃないか。欠陥のない身体をしていても泳げない人もいるし、目が見えていても何も見ようとしない人もいる。メクラであろうとなかろうとたいして問題じゃない。普通の人とまったく同じで変わりはしないよ。それなのにメクラだからって同情する人がいる。けど、それはエゴだと思うんだ。だから僕はどの人にも同情はしない。同情されたくない。僕が人に何かするときは、協力、あるいは手助けをするという気持ちでしかない。それは、同情ではなく理解だ。理解はこの世に残された最大の美だと思う。」

三浦憲 著 (スティービー・ワンダー我が半生の記録―冷たい鏡の中に生きて)より

 

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